プリザーブドフラワー   作:寿太郎

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2.作戦

焚き火に再び火をつけると、パチパチという音とともに橙色の光が辺りを照らした。彼は懐から一枚の紙切れを取り出し、僕に差し出した。指先が触れた紙は、妙にひんやりとしていた。

「この魔術を覚えろ」

複雑な魔術式だった。見たことがない構成だ。しかし、不思議な美しさを感じた。無駄がない。魔術の知識に明るいわけではないが、この洗練さは、少なくとも今の時代のものではないと直感した。

「本当に未来人なんだな」

「言っただろう。分かったら使ってみろ」

「風は運ばず、声もまた然り。されど我が意思、彼方の者に届かん。遠話結界(テレフォニア)」

詠唱を終えると、脳の中に声が響いた。

『聞こえるか』

思わず彼の顔を見る。口は動いていない。

「これが遠話結界の効果だ」

と、今度は口を動かして彼が言った。

「今、外にこの声は聞かれていない。俺とお前だけで秘密の話ができるというわけだ。距離も問わない。呪文を唱えれば、想像した相手に直接言葉が届く」

驚いた。こんなに便利なものが未来にはあるのか。未来、やるじゃん——そう感心しかけた僕に、彼は静かに水を差した。

「感心しているところ悪いが、これは戦争の産物だ」

彼の声から、さっきまでの軽さが消えていた。

「使い方は——わかるだろ?」

彼は目を伏せた。悲しそうなその顔を見て、僕は理解した。これは、対話のための道具じゃない。敵の位置を知らせる。仲間に危機を伝える。あるいは——死ぬ間際の言葉を、届かない誰かに届けるための魔術だ。

「まあ、戦争も悪いことばっかりじゃないってことだ」

そう言ったあと、彼は一拍置いた。

「いいものではないがな」

その一言だけ、声が低くなった。首元にひやりと刃を当てられたような、そんな重さだった。

『今後、連絡は遠話結界で行う。作戦の概要は——また明日だな』

 

パーティメンバーの一人である魔術師が起きてきそうな気配がした。彼女は起きる直前、必ず口元の涎を服で拭う。そんな細かい癖まで知っているのか——僕が驚いて彼の方を見ると、そこに人影はなかった。足音も、気配も残さず、彼はいなくなっていた。

「魔術が使われた痕跡があるな」

魔術師は言った。

「火が消えちゃってさ、仕方なく魔術で火をつけたんだ」

「ほー、そうか」

そのとき彼女が僕に向けていた胡乱げな視線に、僕はまだ気づいていなかった。

僕は魔術師と見張りを交代して、眠りに落ちた。

 

 

 

翌朝、白んだ空の下で目を覚ますと、既にパーティは出発の支度を終えていた。露に湿った草を踏みしめながら、僕たちはいつものように魔王城に向かって歩いていた。朝靄の向こうに、うっすらと黒い城の輪郭が霞んで見える。まだ遠いはずなのに、その存在感だけは日に日に増しているように感じた。

『おい、俺!聞こえるか?』

唐突に遠話結界を通じて未来の僕が話しかけてくる。

『なんの用だ』

『さて、一番の問題はどうやって勇者を改心させるか、だ』

確かに、勇者は並大抵のことでは諦めないし、もし不可能と悟ってもそこで覚醒してしまう。

『だから、勇者を殺す』

「はっ?」

思わず実際に声が出てしまった。気づけば、勇者の顔がすぐ隣から僕を覗き込んでいた。

「どうした?昨日から何か変だぞ、お前」

「い、いやなんでもないよ。すまん」

何とか誤魔化した。しかし、頭の中は、あまりにも難しい問いでいっぱいだった。

『何を考えているのかはわかる。確かに困難だろう』

『それだけじゃない。僕はあいつを殺したくない』

『そんなことを言っていられる相手ではない。勇者は絶対に改心することはない』

『そんなの、やってみないとわからないじゃないか』

『お前は奴の本当の姿を知らないからそんなことが言える。簡単に変わる存在なら戦争など起こさないし、それに何より——奴は、ジークはジークであるから勇者なのだ』

――ジーク。それが、勇者の名前だった。ジークであるから勇者なのだ。その響きがスッと胸に入ってきた。確かにそうだ。ジークはジークだから勇者なのだ。もしもジークが今の妄執を無くしてしまえばそれはもうジークでも勇者でも無くなるだろう。

『幸いまだ作戦の決行には時間がある。諦めさせたいならば試すもよかろう。その手伝いくらいはしよう』

 

しばらく無味乾燥な森を歩き続けた。乾いた土が足元で乾いた音を立て、枯れ枝の折れる音がやけに響く。木々は葉を落とし、灰色がかった幹だけが並んでいた。昨日までとほとんど変わらない道のりだというのにその光景は昨日までと全く違って見えた。日差しは高い位置から容赦なく照りつけ、汗が首筋を伝う。

「よし、そろそろ休憩にしよう!!」

勇者がみんなに声をかけた。

魔術師が周りに結界を貼る。淡い光の膜が一瞬視界を撫でて消えた。木の幹に腰を下ろし、水筒に入った水を飲んでしばらく休む。ぬるくなった水が、渇いた喉に染みた。

 

「なあ」

僕は勇者に声をかけた。

「ジークは、別れ道の別れる場所に立っている。すると、落石が向こうからやってくる。岩が進む先には5人の人間がいて、このままだと5人を轢き殺してしまうことは明白だ。ジークは岩を押して進路を変えることができる。もしジークがそうすれば5人の命を救える。だが、進路を変えた際にも別の人間が1人いる。進路を変えれば、その1人は確実に犠牲になる。さあ、どうする?」

「俺は、岩を壊す。木っ端微塵に」

「いや、そういう話じゃ——」

「わかってるよ。でも俺はそうする。勇者だから」

僕の言葉は遮られ、ジークは強い意志の宿った目で、そう答えた。僕は自らの失敗を悟った。こんなことじゃジークは変わらない。こんな無駄な問答なんて元からするべきではなかった。だが、僕はこんなことで諦めるわけにはいかない。ジークは僕の命の恩人だ。殺されずに済む道があるなら、それを見つけ出さないといけない。恩を仇で返すわけにはいかないのだから。

 

 

「そろそろ魔王城だな」

再び歩き始めてから数時間。西日が長く影を伸ばし、辺りは橙と紫の混じった色に染まっていた。2、3度戦闘した以外は順調に進んでいる。この辺りはモンスターが少ないらしい。あと数日で魔王城に着くだろう。

「みんな、戦闘の準備をしろ」

周りの警戒をしていた勇者が声をかける。空気が張り詰め、パーティ全体の気配が変わるのがわかった。

全員が戦闘態勢を整えた時、近くの木陰から人影が現れた。夕闇に紛れるように、輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。黒いフードを深く被っていて、人相は見えない。片手で刃毀れが酷い刀を無造作に持ち、もう片方の手で手招きをした。土を踏む音すら聞こえない、静かな佇まいだった。

勇者が聖剣を大きく振りかぶり、振り抜いた。刃が空気を裂く音が響く。しかし敵の姿は陽炎のように消える。剣先が空を切り、勇者の反応は明らかに一拍遅れていた。

「速い!何者だ!」

勇者の問いかけにも応じず、ただ翻弄するかのように攻撃をかわしていく。土煙が舞い、乾いた地面に足跡が刻まれていく。

「あ!」

遂に勇者が完全に背後を取られた。そこを何とか僕がカバーに入り、致命的な攻撃は避けた。剣がぶつかり合う金属音が、夕暮れの静寂に鋭く響いた。

「2対1だ。この状況なら文句ないだろ?」

勇者は多対一を好まない。

「ずるいだろ、一人には一人で戦わないと」

というのが口癖だ。負けそうな状況でもそれを崩さないのは、正々堂々としているとも、少し困ったところがあるとも言える。

「いや、この程度ならいい。一対一で方を付ける」

「って言ってもさっき死にかけたじゃないか!!」

「うるさい!!とりあえず邪魔するな!」

こうなったらもうどうしようもない。僕は少し距離を取り、勇者の戦いを見守ることにした。

「あ!」

また背後を取られた。魔術師が思わず目を伏せた。この後の勇者の有様を想像したのかもしれない。しかし、勇者はそうならなかった。

「刀が、止まってる?」

勇者の肩口で刀が止まっていた。夕日を反射した刃が、鈍く光っている。勇者は刀を掴むと

「これでスピードは関係ないな」

と言って聖剣で敵を切った。

カキィィンと金属が撃ち合う音が響いた。どうやらもう1本の刀を隠し持っていたらしい。

「合格だ。少し搦手に弱いがな。この脇差で刺していれば、お前は死んでいた」

そう言って敵はフードを取った。夕暮れの赤い光が、その素顔を照らし出す。

フードの下から現れたのは、深い心労がそのまま貼りついたような顔だった。右目は固く閉ざされたまま開かず、目尻から頬にかけて一筋の傷跡が走っている。左目の下には濃い隈が落ち、頬はこけ、何年分もの重圧を一身に受け止め続けてきたような、そんな消耗の色が顔全体に滲んでいた。それでも、こちらを射抜く左目の鋭さだけは、微塵も衰えていない。

——なぜだろう、どこかでこの顔を見た気がする。記憶の底を探っても、それが誰なのか思い出せない。

「俺は、先代勇者だ」

男は言った。西日が完全に沈みかけ、辺りが夜の色に変わり始めていた。

 

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