先代勇者と名乗った男はゆっくりと話し始めた。夕闇はすでに完全な夜に変わり、僕たちが囲む小さな焚き火だけが、男の顔を照らし出していた。
「俺が君たちを魔王城まで送り届けてやる」
「おい!待てよ!!」
勇者が叫んだ。
「お前のことなんて信じられるか!!そもそも先代勇者は死んだはずだ!!」
「いかにも。俺は一度魔王と戦い、そして負けた。それで命からがら逃げてきたというわけだ。お笑い草だろう?この傷はその時に付けられたものだ」
男は目の傷を指先でなぞる。焚き火の光が、その傷跡の凹凸をくっきりと浮かび上がらせた。
「だから、俺が勇者を試す。勇者が魔王と戦うにふさわしいかを魔王と直に戦った俺が測るのだ。ただ、まだ不足。これからの成長次第と言ったところか」
「成長ってもう魔王城まですぐじゃないか」
僕がそう言うと男はフッと笑って
「そのうちわかる」
と言った。そんな男を勇者は気に入らないらしく
「お前が元勇者だと言うならこの聖剣の解号を言ってみろ!」
と詰め寄る。
「既に所有者は君に移っているから解放はできないが構わないかね?」
勇者が頷くと、男は
「退くことは許されぬ。守るべきものがある限り、我は折れぬ。その力、今この手に——応えろ、無に帰す剣。エクスカリバー」
確かに、勇者が一度発動した時と同じ解号だった。先代勇者の言葉に応えるように、聖剣そのものが淡く光り、魔力を奔流させた。解放とまではいかなかったが、男が元勇者であるという証明には十分であった。
少し離れた場所で成り行きを見守っていた魔術師が、目を細めて男を見つめていた。何かを探るような、値踏みするような視線だった。
「……解号だけで魔力があそこまで反応するなんて、聞いたことないわ。勇者が解号を叫んでもあんなことにはならない。それに、あの魔力——いえ、そんなわけないわ」
呟くようなその一言に、僕はふと嫌な予感を覚えた。彼女は、まだ何かに気づきかけていた。その何かが何なのか、僕にも分からなかった。
「俺が君たちを魔王城まで送り届けよう。ただし、戦闘には参加しない。もちろん、降りかかった火の粉は払うがね」
その言葉通り彼は戦闘に参加しなかった。それどころか、戦闘が起きても手を出さず、あえて僕たちに経験を積ませているようにも見えた。魔術師はそれがお気に召さないらしく、
「やな感じ。あいつの掌のうえで踊らされているみたいじゃない」
と不満を漏らしていた。
元勇者がパーティに同行し始めて二日ほど経った日のことだった。朝靄が薄く地を這い、踏みしめる草はまだ露に濡れていた。先頭で歩いていた元勇者が急に止まった。
「迂回しよう」
その一言の意味を悟った瞬間、勇者の表情から血の気が引き、代わりに怒りが満ちていった。次の瞬間には剣を抜き、元勇者に切りかかっていた。元勇者は難なく刀で受け止める。
「なんの真似だ?」
「向こうに、人がいるだろ」
怒気をはらんだ声だった。勇者がここまで怒ったのは久しぶりだった。
「なんで見捨てようとした?」
今にも元勇者を殺しそうな雰囲気を纏っていた。ジークの怒りに呼応するように、とんでもない魔力の奔流が吹き荒れた。周囲の木々の葉が、震えるように揺れる。魔術師が顔をしかめる。
「これは、すさまじい魔力。今までで一番の量だわ」
「助ける必要はない。不要な消耗をする」
「お前は、それでも元とはいえ勇者なのか!!!」
元勇者は刀を構え直し、距離を取った。刀を持つ手が震えていた。明らかに、生命の危機を感じた反射的な行動だった。元勇者は僕にも聞こえるように舌打ちをして、進路を戻した。
そのまま道を進むと、地面のあちこちに争いの跡が見え始めた。折れた槍の穂先、引きずられたような土の跡、黒く乾いた血の染み。誰かが、ここで必死に戦ったのだと分かる。そして、その先に人が倒れていた。
「おい!大丈夫か!!」
勇者が駆け寄る。
「う、う……勇者か?」
腰のポーチに、十字のペンダントがくくりつけられていた。見覚えのある意匠だった。
——天使の証だ。
魔王を倒すことを目標にするのは、勇者だけではない。勇者はアスモ帝国において、最も強く、魔王討伐にふさわしい人間性を兼ね備えた者に、皇帝から直々に与えられる称号だ。一方、ラーメ神聖国では、最も強く信心深い者に「天使」の称号が与えられ、同じように魔王討伐に向かう。どの国も似たような制度で、それぞれ独自に魔王討伐を目指しているのだ。
その天使の証を身につけた者が、今、目の前で血だまりの中に倒れている。何があったのか——嫌な予感が背筋を這った。
不意に、空気が重くなった。肌を刺すような、強大な魔力がこちらに近づいてくるのを感じた。
「奴だ、あいつには勝てない!!逃げろ!!」
天使が地を這いながら叫んだ。しかし、もう遅かった。木々の隙間から、音もなく"それ"はやってきた。
"それ"は、人の形をしていた。二本の足で立ち、両腕もある。ただ、関節の曲がる向きが、明らかにおかしかった。肘が、逆方向に折れ曲がっている。顔には目も鼻も口もなく、ただのっぺりとした皮膚が張り詰めているだけだった。
「おい、仲間はどうした!!」
天使が"それ"に問う。
「サアナ?あいつがタノしんでいるんじゃないか?」
表情など存在しないはずなのにはっきりとわかる。醜い笑顔を浮かべている。
「クソ!!俺はいいから仲間を助けてくれ!!勇者!!」
「このザコのナカマをタスけにイくか?それならオレはそいつでタノしませてもらうゼ、ウヒヒ」
「俺は、全部助ける。俺がこいつを何とかするからお前らはコイツの仲間を頼む」
僕たちが"それ"を迂回し、先に進もうとした瞬間だった。
「おっと、それはダメだぜ。つまらなくなってしまウ。このオトコをオいてゼンインでオクにススむか、オレとゼンインでタタカうか。どちらかだゼ」
言い切る前に勇者は踏み込んでいた。土を蹴る音、砂埃が舞い上がる。勇者が振りかぶった剣は"それ"に指一本で止められた。ジークの表情から、驚きと苛立ちがない交ぜになるのが見えた。
「はあ、オマエもこんなものか。まあイチオウ、ナノっておくぜ。オレはシテンノウのヒトリ。ネフィロスだ」
気づいた時には、ネフィロスは音もなく僕達二人の前に立っていた。目で追うことすらできなかった。そのまま僕達を勇者の方向に蹴り飛ばす。僕は咄嗟に剣でガードしたが、魔術師はガードが間に合わなかったらしく、木に叩きつけられ、ぐったりしている。折れた木の枝が、乾いた音を立てて地面に落ちた。
「前に戦った四天王はこんなに強くなかったのに」
思わず口をついて出た。
「おいおい、カンチガイしてもらってはコマるヨ、アノザコはオレたちとクラベモノにならないホドヨワイヨ。カズあわせのシテンノウサ」
僕たちがかつて戦った四天王のことを思い出す。とんでもない強さだった。勇者がいなければ確実に僕たちは死んでいた。燃え盛る街に振り注ぐ魔術。更には禍々しい体躯の魔物。あれが、最弱?あれと格が違う存在だというのか?
「
そう言って勇者は目をつぶった。辺りの喧騒が、一瞬だけ止まったように感じた。
「な、それは」
この魔術は自身の視点を別の場所に移動させる魔術。ただし、現在の視界は失われる。
「これで向こうの様子を見ながら戦える」
そんなことをすれば、全滅するに決まっている。
「ジーク!!諦めろ!!向こうはもう捨てるんだ!!俺たちはあいつをどうにかすることだけを考えよう!!」
「ヴァルサ。二対一で戦おう。一瞬で終わらせる」
勇者はひどく落ち着いた声で言った。僕は耳を疑った。多対一を誰よりも嫌うあの男が、自分から二対一を選んだ。それだけで、目の前の"それ"がどれほどの格の敵か、嫌でも理解させられた。
僕は頷かざるをえなかった。
「退くことは許されぬ。守るべきものがある限り、我は折れぬ。その力、今この手に——応えろ、無に帰す剣。エクスカリバー」
剣から光の奔流が流れ出す。あまりにも強大なその力は生半可な魔族は近くに立つことすら許されない。勇者は街一つを軽く焦土に変える聖剣を解放した。