崩壊世界のRe:ワールド~器と銀と黒の物語~ 作:クロネコアラ
第1章はここまでで、次がエピローグになります。
修正版に変えました。
任務完了の報告が戦場へ響いたのは、長い夜が明けようとしていた頃だった。
「対象区域を制圧! 残存する敵性反応はありません!」
「負傷者の収容、完了しました!」
「了解。各班、周辺をもう一度確認しろ。民間人の避難状況も再確認。見落としは許さん」
「了解!」
飛び交う報告を聞きながら、一人の女性が刀を鞘へ納めた。
カチン、と澄んだ金属音が鳴る。
黒い髪に、鋭い眼差し。
戦闘用の装備には泥や血が付着し、何時間にも及んだ激戦の痕跡が残っている。
彼女の名は、クロバ・レイコ。
数多くの危険任務へ投入されてきた特殊部隊の隊長であり、クロバ家に伝わる剣術——黒羽一刀流を修めた剣士でもある。
今回の任務も、決して容易なものではなかった。
当初は三日ほどで終了する予定だったが、現地で想定外の事態が相次ぎ、帰還予定は大幅に遅れていた。
「隊長」
「なんだ?」
振り返ると、部下の一人が疲れ切った顔で立っていた。
「やっと終わりましたね……帰ったら俺、三日くらい寝ます」
「その前に報告書だ」
「…………」
「どうした?」
「隊長、そういうところですよ」
「何がだ?」
「いえ、何でもありません」
部下が諦めたように肩を落とす。
その姿を見て、レイコも僅かに口元を緩めた。
「今回の働きは悪くなかった。報告書を終えたら、好きなだけ休め」
「本当ですか?」
「ただし、その傷は先に診てもらえ」
「これくらい平気ですよ」
「返事は?」
「……了解」
「聞こえない」
「了解!」
「よし」
いつもどおりのやり取りだった。
長い任務が、ようやく終わった。
これで帰れる。
レイコは懐から小型端末を取り出し、画面を点灯させた。
表示されたのは、一枚の写真。
レイコを中央に、その両側へ二人の子供が立っている。
十四歳の息子、クロバ・ユウト。
十歳の娘、クロバ・ユウカ。
「……長引きすぎたな」
本来なら、とっくに迎えに行っているはずだった。
任務の間、二人はレイコの両親が暮らす町——鳴海沢へ預けている。
ユウトは今頃、どうしているだろうか。
考えるまでもない。
きっと剣を振っている。
あの子は幼い頃からそうだった。暇さえあれば木刀を握り、教えた型を何度も繰り返す。
『母さん、もう一回!』
『今ので最後と言っただろう』
『次が本当の最後!』
『さっきも同じことを聞いた』
『今度こそ本当だから!』
幼い日のユウトを思い出し、レイコは小さく笑った。
「馬鹿息子め」
負けず嫌いで、頑固で、一度決めたことはなかなか曲げない。
誰に似たのか。
少なくとも自分ではない、とレイコは思っている。
周囲に言わせれば、間違いなく母親似らしいが。
ユウカは、おそらく怒っているだろう。
『お母さん、今度はいつ帰ってくるの?』
『仕事が終わったらだ』
『それ、毎回言う!』
『事実だから仕方ないだろう』
『じゃあ、お土産』
『何が欲しい?』
『帰ってきてから決める』
『今決めてくれ』
『やだ』
そんな会話をしたのも、もう何日も前のことだ。
「帰りに何か買っていくか」
ユウカへの土産。
それから、ユウトにも何か。
新しい剣の手入れ道具なら喜ぶだろうか。
「隊長!」
思考を遮る声に、レイコは顔を上げた。
「撤収準備、完了しました!」
「分かった」
端末をしまい、部下たちを見渡す。
「全員、帰投する!」
「了解!」
その時のレイコは、まだ知らなかった。
息子への土産を選ぶ機会が、もう二度と訪れないことを。
◇
数時間後。
特殊部隊を乗せた輸送機は、基地へ帰還した。
格納庫へ機体が収まり、後部ハッチが開く。
「帰った……」
「疲れた……」
「俺は風呂。何があっても風呂」
「その前に医務室だ」
「隊長、聞いてたんですか?」
「聞こえるように話していただろう」
「地獄耳……」
「追加訓練が欲しいなら、そう言え」
「何でもありません!」
疲れていても、部下たちはいつもどおりだった。
レイコも輸送機を降りる。
これでようやく帰れる。
そう思った時だった。
「……?」
足を止める。
基地の様子がおかしい。
職員たちが慌ただしく格納庫を行き交い、別の輸送機へ次々と物資が積み込まれている。
医療班や救助隊の姿も多い。
複数の部隊が、休む間もなく出撃準備を進めていた。
「何かあったのか?」
隣にいた副官も周囲を見渡す。
「大規模災害でしょうか」
レイコの胸に、説明のできない違和感が生まれた。
長く戦場に身を置く者が時折感じる、嫌な予感。
「確認する」
近くを走っていた管制職員を呼び止める。
「何が起きた?」
「クロバ隊長!?」
「状況を教えろ」
「は、はい。数時間前、民間区域で大規模な魔獣災害が発生しました」
「魔獣災害?」
「現在も詳細を確認中ですが、被害規模から特級災害に相当する可能性があります」
レイコの表情が変わる。
特級。
一つの都市や町が壊滅する可能性すら想定される、最上位に近い災害区分だ。
「魔獣の種類は?」
「未確認種です」
「数は?」
「少なくとも百体以上。上空に出現した次元亀裂から、一斉に飛来したとの報告が入っています」
「百体以上……」
次元亀裂から現れた、未知の魔獣群。
偶発的な魔獣災害という言葉だけでは片づけられない規模だった。
「現地警備隊は?」
「交戦しました。近隣基地からも救援部隊が向かっています」
「発生地点はどこだ?」
職員が口を閉ざした。
「どうした。場所を聞いている」
横にいた副官が、職員の端末へ目を向ける。
直後、その顔から血の気が引いた。
「……隊長」
「なんだ?」
「この場所……」
端末には、災害発生地点が表示されていた。
——鳴海沢。
その地名を見た瞬間、レイコは呼吸を忘れた。
「……何だと?」
見間違いではない。
両親が暮らす町。
今、ユウトとユウカを預けている町。
「隊長!」
次の瞬間、レイコは走り出していた。
「輸送機を出せ!」
「隊長!?」
「現場へ向かう! 動ける者だけで構わない。今すぐ準備しろ!」
「ですが、我々は任務から帰投したばかりです!」
「だからどうした!」
レイコの声が格納庫へ響く。
「私が行く!」
その表情を見て、それ以上止める者はいなかった。
◇
「もっと速度を上げられないのか!」
「これが限界です!」
再び飛び立った輸送機の中で、レイコは窓の外を睨み続けていた。
普段なら、どれほど緊迫した作戦でも感情を表へ出さない。
だが今は、膝の上に置いた拳が僅かに震えている。
「隊長」
向かいに座る副官が静かに声をかけた。
「二人なら大丈夫ですよ」
「…………」
「息子さんは剣をやっているんでしょう? 隊長が直接教えたって、前に——」
「やめろ」
副官が言葉を止めた。
「今は……何も言うな」
「……了解」
励ましだと分かっている。
分かっているからこそ、聞きたくなかった。
大丈夫。
無事だ。
きっと生きている。
そんな言葉へ縋った瞬間、本当にそうではなかった時、自分がどうなってしまうのか分からなかった。
やがて窓の向こう、地平線近くに黒煙が見え始める。
一本や二本ではない。
巨大な煙が、空の広い範囲を覆っている。
輸送機が近づくにつれ、その下にあるものが見えてきた。
「……嘘だろ」
誰かが呟いた。
そこに広がっていたのは——鳴海沢だったもの。
建物の多くは崩れ、道路は瓦礫で塞がれている。
今も炎を上げる区画がいくつもあり、至る所に巨大な何かが暴れ回った痕跡が残されていた。
つい数日前まで、人々が暮らしていた町。
子供たちが学校へ通い、商店が開き、夕方になれば家々から食事の匂いが漂っていた場所。
その面影は、ほとんど残っていなかった。
レイコは何も言えない。
ただ、その光景から目を逸らすこともできなかった。
◇
「医療班を先行させろ! 救助班は未捜索区域へ!」
「了解!」
着陸と同時に、救援部隊が展開する。
レイコは現場指揮所へ向かった。
「被害状況を!」
「クロバ隊長! 現在確認されている範囲では、市街地のおよそ八十パーセントが壊滅しています」
「住民は?」
「現時点の推計では、死者および行方不明者が全人口の約七十五パーセントです」
「…………」
四人に三人。
その数字を、頭が理解することを拒んでいる。
「生存者は?」
「町外へ脱出できた避難者と、救助された負傷者。それから災害発生時に町を離れていた住民が複数名。現在も捜索を続けていますが……」
指揮官は、その先を言わなかった。
「魔獣はどうした?」
「それが奇妙なのです。途中まで警備隊と交戦していましたが、突然すべての個体が戦闘を中断しました」
「全個体が?」
「はい。その直後、上空に再び次元亀裂が発生し、一斉にその中へ消えました。現場にいた者は、何かに呼び戻されたようだったと証言しています」
本来なら詳しく調査すべき異常事態だった。
特殊部隊の隊長であるなら、そうする。
だが今のレイコにとって、そんなことはどうでもよかった。
「生存者はどこにいる?」
「臨時救護所です」
答えを聞くより早く、レイコは走り出した。
◇
臨時救護所には、多くの負傷者が横たわっていた。
とはいえ、鳴海沢の人口を考えれば、あまりにも少ない。
包帯を巻かれた男。
家族を失い、呆然としている女性。
泣き続ける子供。
誰もが恐怖と疲労に染まった顔をしていた。
レイコは、その間を歩く。
「ユウト……ユウカ……」
二人の姿を探す。
いない。
次の区画にもいない。
胸の鼓動が、少しずつ速くなっていく。
さらに奥へ進もうとした時だった。
「……お母さん?」
足が止まった。
聞き間違えるはずがない。
レイコが振り返る。
そこに、泥だらけの少女が立っていた。
服はあちこち破れ、目は真っ赤に腫れている。
「……ユウカ?」
「お母さん……!」
「ユウカ!」
駆け寄り、その小さな身体を抱き締めた。
「お母さん!」
「ユウカ……! 怪我は? どこか痛いところはないか?」
「大丈夫……私は大丈夫……」
「本当に?」
「うん……」
腕、背中、頭。
大きな怪我がないことを確かめる。
左手首には、途中で紐の切れた跡が残っていた。
ユウカの右手は、千切れた桃色のお守りを強く握り締めている。
それが何を意味するのか、レイコにはまだ分からない。
ただ、娘が自分の腕の中で確かに息をしている。
「……よかった」
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
「本当に……よかった」
「お母さん……!」
ユウカが胸へ顔を埋め、声を上げて泣き始める。
「怖かった……! いっぱい来て……町が壊れて……いっぱい、死んじゃって……!」
「ああ……もう大丈夫だ。母さんがいる」
「それで……お兄ちゃんが……!」
レイコの身体が固まった。
「……ユウトが、どうした?」
ユウカは答えられない。
「ユウカ」
娘が顔を上げる。
その表情を見た瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
「ユウトはどこにいる?」
「お兄ちゃん……私たちを逃がすために、残ったの」
「残った?」
「山に洞窟があって、そこから町の外へ逃げられるって。それでみんなで逃げたんだけど、魔獣が追ってきて……」
ユウカの声が震える。
「お兄ちゃんと、戦える人たちが入口に残ったの。私たちに先に行けって……すぐ追いつくからって……」
堪えていた涙が、再び溢れ出す。
「でも、来なかった……!」
「…………!」
「ずっと待ってたのに! お兄ちゃん、絶対来るって言ったのに!」
「場所はどこだ」
「……え?」
「その洞窟はどこにある」
レイコが立ち上がる。
「隊長!」
追ってきた副官が息を切らしていた。
「北部山中の旧避難洞窟を確認しろ!」
「そこなら先行救援班が到着しています!」
「状況は?」
「生存者を数名保護。ただし、入口周辺には多数の死傷者がいるとのことです。身元確認と遺体の収容は、まだ——」
「案内しろ」
「隊長……」
「今すぐだ!」
「……了解!」
「お母さん!」
ユウカがレイコの服を掴む。
「お兄ちゃんを……」
小さな手が震えていた。
「お兄ちゃんを連れて帰ってきて……!」
レイコは娘の手を握った。
「ああ」
それ以上は言えなかった。
◇
山へ入ってから、レイコはほとんど足を止めなかった。
「隊長、待ってください!」
「無理なら置いていく!」
「だからって速すぎます!」
木々の間を駆け抜けながら、レイコの頭へ浮かぶのは息子のことばかりだった。
ユウトは強い。
十四歳という年齢を考えれば、その剣の腕は異常なほどだ。
周囲から剣の神童と呼ばれていることも知っている。
だが、そんなものは何の慰めにもならない。
十四歳だ。
どれだけ剣が使えても、どれだけ才能があっても、自分にとっては十四歳の息子でしかない。
「……馬鹿」
何をしている。
なぜ残った。
逃げればよかった。
誰かに任せればよかった。
そんな考えが次々と浮かぶ。
けれど同時に、レイコには分かっていた。
ユウトなら残る。
戦える自分が逃げれば、代わりに誰かが死ぬ。
そう思えば、あの子はきっと剣を抜く。
なぜなら——。
『母さんみたいになりたい』
幼い日の声が蘇る。
『俺も母さんみたいに、誰かを守れるくらい強くなりたい!』
「…………っ」
教えたのは自分だ。
剣を。
強さを。
誰かを守ることを。
だからこそ、恐ろしかった。
「私は……自分の命まで捨てろとは教えていないぞ……ユウト……!」
レイコはさらに速度を上げた。
◇
異変を感じたのは、洞窟までまだ距離がある場所だった。
鉄錆のような、濃い血の臭い。
そこへ獣の体臭、泥、焼けた木々、生々しい肉の臭いが混じっている。
何度も戦場へ立ってきたレイコには、それが何を意味するのか嫌というほど分かった。
「……酷いな」
追いついた副官が口元を覆う。
レイコは答えなかった。
そのまま進む。
やがて地面に血痕が現れた。
折れた槍。
壊れた魔導銃。
引き裂かれた防具。
木の幹には巨大な爪痕が刻まれ、その周囲だけ地面が抉れている。
さらに進むと、救援隊の姿が見えた。
「クロバ隊長!」
「現場は?」
「洞窟内の避難者は、反対側の出口から全員収容しました。入口に残った者のうち、生存者は三名。現在、応急処置を行っています」
「ほかは?」
「…………」
隊員の沈黙が答えだった。
「身元は確認したのか」
「まだ全員は。損傷の酷い方も多く……」
言葉を選ぶように、隊員が続ける。
「ただ、避難者から聞いた特徴と一致する少年を、一名確認しています」
レイコの心臓が大きく脈打った。
「どこだ」
「隊長」
「どこにいる」
隊員が洞窟の方角へ目を向ける。
「……こちらです」
◇
進んではいけない。
これ以上、先を見てはいけない。
母親としての何かが、そう叫んでいる。
それでも、足を止めることはできなかった。
「ユウト!」
返事はない。
「ユウト! いるなら返事をしろ!」
木々の向こうに、洞窟の入口が見えてきた。
周囲には、おびただしい量の血が残されている。
砕かれた武器。
引き裂かれた衣服。
地面へ倒れた人々。
そして、数多くの赤黒い魔獣の死骸。
「……これは」
副官が息を呑んだ。
洞窟前の一角だけ、地面が大きく陥没している。
木々は薙ぎ倒され、魔獣の硬い頭部や胴体が、強烈な力で打ち砕かれていた。
銃撃や剣による傷ではない。
何が起きたのか、戦闘の専門家であるレイコにも分からなかった。
だが今は、その異常を調べる余裕などない。
視界の端に、一振りの刀が映った。
「…………」
刃は半ばから折れている。
隣には黒い鞘。
下緒には、桃色と青のお守りが結ばれていた。
見間違えるはずがない。
何度も手入れを教えた。
何度もその刀を使い、構えを直した。
桃色のお守りは、ユウカが兄へ贈ったもの。
青いお守りは、幼馴染の少女から渡されたものだと聞いている。
「……なぜ」
足が動かない。
「なぜ、それがここにある……?」
答える者はいない。
刀から少し離れた場所に、一人の少年が横たわっていた。
小柄な身体。
黒い髪。
見覚えのある服。
「違う」
一歩。
「違う……」
もう一歩。
「そんなはずがない」
顔が見える。
泥や血は拭われ、瞼は静かに閉じられていた。
乱れていたはずの衣服も、可能な範囲で整えられている。
誰かが、息子をそのままにせず、丁寧に横たえたのだと分かった。
けれど、その身体はあまりにも変わり果てている。
右腕と左脚が失われている。
腹部には魔獣に襲われた凄惨な傷が残っていた。
「……違う」
特殊部隊の隊長として、もっと酷い死体を見たことはある。
戦場で仲間の死を見たこともある。
それでも今だけは、目の前の現実を理解できなかった。
「ユウトじゃない」
震える足で近づく。
幼い頃から、毎日何度も見てきた顔。
「……ユウト?」
返事はない。
レイコは、その場へ膝をついた。
震える手を伸ばし、息子の頬へ触れる。
冷たい。
「……おい」
もう片方の手で肩へ触れる。
「起きろ」
返事はない。
「ユウト」
少し強く揺らす。
「起きろ。母さんだ」
何も返ってこない。
「帰ってきたぞ」
声が震える。
「任務、終わったんだ」
冷たくなった頬を撫でる。
「ほら……帰るぞ」
返事はない。
「ユウカも待ってる」
返事はない。
「祖父ちゃんも、祖母ちゃんも……みんな待ってるんだ」
それでも息子は目を開けない。
「だから……起きろよ……」
何度呼んでも。
何度触れても。
ユウトはもう目を開けない。
レイコの視線が、失われた右腕へ向く。
いつも剣を握っていた手。
『母さん、見て! 昨日より速くなった!』
『まだ遅い。踏み込みの時に上体が浮いている』
『ええ!?』
『嫌ならやめるか?』
『やめない! もう一回!』
『もう日が暮れるぞ』
『あと一回!』
『お前の一回は何回あるんだ』
昨日のことのように思い出せる。
小さかった手。
初めて木刀を握らせた日。
手の皮が剥けても、転んでも、何度負けても、泣きながら立ち上がった。
その手が、もうない。
レイコは、すぐそばへ置かれた息子の刀を見た。
刃は折れ、血に濡れている。
それでも、最後まで使われたことだけは分かった。
刀と遺体が丁寧に整えられている理由は分からない。
誰がそうしたのかも分からない。
けれど、息子が一人きりで放置されたのではなかった。
最後に誰かが、その顔へ触れてくれた。
その事実だけが、僅かな痛みとともに胸へ残った。
レイコは洞窟へ目を向ける。
その先から、子供や老人、怪我人を含む多くの住民が逃げ延びた。
ユウカも。
自分の両親も。
生きている。
その理由が、嫌でも分かってしまう。
「……お前が」
涙が一滴、ユウトの頬へ落ちた。
「守ったのか……?」
返事はない。
「みんなを……最後まで……」
逃げれば、助かったかもしれない。
それでも刀を握り、洞窟の前へ立ち続けた。
「馬鹿……」
レイコの唇が震える。
「この……馬鹿息子……!」
息子の身体を抱き寄せる。
何度も戦場で人を失ってきた。
そのたびに歯を食いしばり、部下の前では立ち続けた。
隊長が崩れれば、部隊も崩れる。
だから泣かなかった。
泣けなかった。
クロバ・レイコは強かった。
強くなければならなかった。
だが今、腕の中にいるのは部下ではない。
戦友でもない。
自分の息子だった。
「母さんは……」
ユウトの額へ、自分の額を重ねる。
「こんなことをさせるために、お前へ剣を教えたんじゃない……」
守れる人間になれと教えた。
強くなれと教えた。
怖くても剣を握れと教えた。
けれど、母親より先に死ねなどと、一度だって教えた覚えはない。
「帰ってきたら……また稽古するはずだっただろ……?」
返事はない。
「今度こそ母さんから一本取るって……言ってただろ……?」
返事はない。
「まだ……十四歳だぞ……」
どうして、こんな姿になっている。
どうして、自分はそばにいなかった。
なぜ、あの時任務へ行った。
なぜ、もっと早く帰れなかった。
「ごめん……」
声が漏れる。
「ごめんな……ユウト……」
息子の身体を強く抱き締める。
「母さんが……母さんが、もっと早く帰っていれば……!」
離れた場所にいた副官たちは、誰も声をかけられなかった。
いつも先頭に立っていた隊長。
どれほど危険な任務でも怯まず、仲間が倒れれば誰より早く助けに入り、部隊全員を生きて帰すため剣を振るってきた女性。
そんな彼女が今は、ただ一人の母親として、変わり果てた息子を抱いている。
「ユウト……」
レイコが名前を呼ぶ。
返事はない。
「ユウト……」
もう一度呼ぶ。
当然、返事はない。
「……起きてくれ」
願う。
「頼むから……」
叶わない。
「母さんを……置いていかないでくれ……」
レイコの顔が歪んだ。
もう、耐えられなかった。
息子を胸へ強く抱き締める。
特殊部隊の隊長でも。
黒羽一刀流の剣士でもなく。
ただ一人の母親として——。
「ユウトォォォォォォォォォォォォッ!!」
息子の名を呼ぶレイコの絶叫が、血に染まった鳴海沢の山々へ響き渡った。
その声に答える者は、もういなかった。
この日、突如として現れた正体不明の魔獣群により、鳴海沢の市街地は約八十パーセントが壊滅。
死者および行方不明者は、町の全人口のおよそ七十五パーセントに達した。
一つの町を僅かな時間で地獄へ変え、多くの家族から大切な者を奪った未曾有の魔獣災害。
そして、一人の母親から息子を奪い、その後の人生さえ大きく変えることとなったこの事件は——。
後に人々から、
『鳴海沢の惨劇』
と呼ばれることになる。