崩壊世界のRe:ワールド~器と銀と黒の物語~   作:クロネコアラ

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第1章はここまでで、次がエピローグになります。


修正版に変えました。


第12話-鳴海沢の惨劇-

 

 任務完了の報告が戦場へ響いたのは、長い夜が明けようとしていた頃だった。

「対象区域を制圧! 残存する敵性反応はありません!」

「負傷者の収容、完了しました!」

「了解。各班、周辺をもう一度確認しろ。民間人の避難状況も再確認。見落としは許さん」

「了解!」

 飛び交う報告を聞きながら、一人の女性が刀を鞘へ納めた。

 カチン、と澄んだ金属音が鳴る。

 黒い髪に、鋭い眼差し。

 戦闘用の装備には泥や血が付着し、何時間にも及んだ激戦の痕跡が残っている。

 彼女の名は、クロバ・レイコ。

 数多くの危険任務へ投入されてきた特殊部隊の隊長であり、クロバ家に伝わる剣術——黒羽一刀流を修めた剣士でもある。

 今回の任務も、決して容易なものではなかった。

 当初は三日ほどで終了する予定だったが、現地で想定外の事態が相次ぎ、帰還予定は大幅に遅れていた。

「隊長」

「なんだ?」

 振り返ると、部下の一人が疲れ切った顔で立っていた。

「やっと終わりましたね……帰ったら俺、三日くらい寝ます」

「その前に報告書だ」

「…………」

「どうした?」

「隊長、そういうところですよ」

「何がだ?」

「いえ、何でもありません」

 部下が諦めたように肩を落とす。

 その姿を見て、レイコも僅かに口元を緩めた。

「今回の働きは悪くなかった。報告書を終えたら、好きなだけ休め」

「本当ですか?」

「ただし、その傷は先に診てもらえ」

「これくらい平気ですよ」

「返事は?」

「……了解」

「聞こえない」

「了解!」

「よし」

 いつもどおりのやり取りだった。

 長い任務が、ようやく終わった。

 これで帰れる。

 レイコは懐から小型端末を取り出し、画面を点灯させた。

 表示されたのは、一枚の写真。

 レイコを中央に、その両側へ二人の子供が立っている。

 十四歳の息子、クロバ・ユウト。

 十歳の娘、クロバ・ユウカ。

「……長引きすぎたな」

 本来なら、とっくに迎えに行っているはずだった。

 任務の間、二人はレイコの両親が暮らす町——鳴海沢へ預けている。

 ユウトは今頃、どうしているだろうか。

 考えるまでもない。

 きっと剣を振っている。

 あの子は幼い頃からそうだった。暇さえあれば木刀を握り、教えた型を何度も繰り返す。

『母さん、もう一回!』

『今ので最後と言っただろう』

『次が本当の最後!』

『さっきも同じことを聞いた』

『今度こそ本当だから!』

 幼い日のユウトを思い出し、レイコは小さく笑った。

「馬鹿息子め」

 負けず嫌いで、頑固で、一度決めたことはなかなか曲げない。

 誰に似たのか。

 少なくとも自分ではない、とレイコは思っている。

 周囲に言わせれば、間違いなく母親似らしいが。

 ユウカは、おそらく怒っているだろう。

『お母さん、今度はいつ帰ってくるの?』

『仕事が終わったらだ』

『それ、毎回言う!』

『事実だから仕方ないだろう』

『じゃあ、お土産』

『何が欲しい?』

『帰ってきてから決める』

『今決めてくれ』

『やだ』

 そんな会話をしたのも、もう何日も前のことだ。

「帰りに何か買っていくか」

 ユウカへの土産。

 それから、ユウトにも何か。

 新しい剣の手入れ道具なら喜ぶだろうか。

「隊長!」

 思考を遮る声に、レイコは顔を上げた。

「撤収準備、完了しました!」

「分かった」

 端末をしまい、部下たちを見渡す。

「全員、帰投する!」

「了解!」

 その時のレイコは、まだ知らなかった。

 息子への土産を選ぶ機会が、もう二度と訪れないことを。

           ◇

 数時間後。

 特殊部隊を乗せた輸送機は、基地へ帰還した。

 格納庫へ機体が収まり、後部ハッチが開く。

「帰った……」

「疲れた……」

「俺は風呂。何があっても風呂」

「その前に医務室だ」

「隊長、聞いてたんですか?」

「聞こえるように話していただろう」

「地獄耳……」

「追加訓練が欲しいなら、そう言え」

「何でもありません!」

 疲れていても、部下たちはいつもどおりだった。

 レイコも輸送機を降りる。

 これでようやく帰れる。

 そう思った時だった。

「……?」

 足を止める。

 基地の様子がおかしい。

 職員たちが慌ただしく格納庫を行き交い、別の輸送機へ次々と物資が積み込まれている。

 医療班や救助隊の姿も多い。

 複数の部隊が、休む間もなく出撃準備を進めていた。

「何かあったのか?」

 隣にいた副官も周囲を見渡す。

「大規模災害でしょうか」

 レイコの胸に、説明のできない違和感が生まれた。

 長く戦場に身を置く者が時折感じる、嫌な予感。

「確認する」

 近くを走っていた管制職員を呼び止める。

「何が起きた?」

「クロバ隊長!?」

「状況を教えろ」

「は、はい。数時間前、民間区域で大規模な魔獣災害が発生しました」

「魔獣災害?」

「現在も詳細を確認中ですが、被害規模から特級災害に相当する可能性があります」

 レイコの表情が変わる。

 特級。

 一つの都市や町が壊滅する可能性すら想定される、最上位に近い災害区分だ。

「魔獣の種類は?」

「未確認種です」

「数は?」

「少なくとも百体以上。上空に出現した次元亀裂から、一斉に飛来したとの報告が入っています」

「百体以上……」

 次元亀裂から現れた、未知の魔獣群。

 偶発的な魔獣災害という言葉だけでは片づけられない規模だった。

「現地警備隊は?」

「交戦しました。近隣基地からも救援部隊が向かっています」

「発生地点はどこだ?」

 職員が口を閉ざした。

「どうした。場所を聞いている」

 横にいた副官が、職員の端末へ目を向ける。

 直後、その顔から血の気が引いた。

「……隊長」

「なんだ?」

「この場所……」

 端末には、災害発生地点が表示されていた。

 ——鳴海沢。

 その地名を見た瞬間、レイコは呼吸を忘れた。

「……何だと?」

 見間違いではない。

 両親が暮らす町。

 今、ユウトとユウカを預けている町。

「隊長!」

 次の瞬間、レイコは走り出していた。

「輸送機を出せ!」

「隊長!?」

「現場へ向かう! 動ける者だけで構わない。今すぐ準備しろ!」

「ですが、我々は任務から帰投したばかりです!」

「だからどうした!」

 レイコの声が格納庫へ響く。

「私が行く!」

 その表情を見て、それ以上止める者はいなかった。

           ◇

「もっと速度を上げられないのか!」

「これが限界です!」

 再び飛び立った輸送機の中で、レイコは窓の外を睨み続けていた。

 普段なら、どれほど緊迫した作戦でも感情を表へ出さない。

 だが今は、膝の上に置いた拳が僅かに震えている。

「隊長」

 向かいに座る副官が静かに声をかけた。

「二人なら大丈夫ですよ」

「…………」

「息子さんは剣をやっているんでしょう? 隊長が直接教えたって、前に——」

「やめろ」

 副官が言葉を止めた。

「今は……何も言うな」

「……了解」

 励ましだと分かっている。

 分かっているからこそ、聞きたくなかった。

 大丈夫。

 無事だ。

 きっと生きている。

 そんな言葉へ縋った瞬間、本当にそうではなかった時、自分がどうなってしまうのか分からなかった。

 やがて窓の向こう、地平線近くに黒煙が見え始める。

 一本や二本ではない。

 巨大な煙が、空の広い範囲を覆っている。

 輸送機が近づくにつれ、その下にあるものが見えてきた。

「……嘘だろ」

 誰かが呟いた。

 そこに広がっていたのは——鳴海沢だったもの。

 建物の多くは崩れ、道路は瓦礫で塞がれている。

 今も炎を上げる区画がいくつもあり、至る所に巨大な何かが暴れ回った痕跡が残されていた。

 つい数日前まで、人々が暮らしていた町。

 子供たちが学校へ通い、商店が開き、夕方になれば家々から食事の匂いが漂っていた場所。

 その面影は、ほとんど残っていなかった。

 レイコは何も言えない。

 ただ、その光景から目を逸らすこともできなかった。

           ◇

「医療班を先行させろ! 救助班は未捜索区域へ!」

「了解!」

 着陸と同時に、救援部隊が展開する。

 レイコは現場指揮所へ向かった。

「被害状況を!」

「クロバ隊長! 現在確認されている範囲では、市街地のおよそ八十パーセントが壊滅しています」

「住民は?」

「現時点の推計では、死者および行方不明者が全人口の約七十五パーセントです」

「…………」

 四人に三人。

 その数字を、頭が理解することを拒んでいる。

「生存者は?」

「町外へ脱出できた避難者と、救助された負傷者。それから災害発生時に町を離れていた住民が複数名。現在も捜索を続けていますが……」

 指揮官は、その先を言わなかった。

「魔獣はどうした?」

「それが奇妙なのです。途中まで警備隊と交戦していましたが、突然すべての個体が戦闘を中断しました」

「全個体が?」

「はい。その直後、上空に再び次元亀裂が発生し、一斉にその中へ消えました。現場にいた者は、何かに呼び戻されたようだったと証言しています」

 本来なら詳しく調査すべき異常事態だった。

 特殊部隊の隊長であるなら、そうする。

 だが今のレイコにとって、そんなことはどうでもよかった。

「生存者はどこにいる?」

「臨時救護所です」

 答えを聞くより早く、レイコは走り出した。

           ◇

 臨時救護所には、多くの負傷者が横たわっていた。

 とはいえ、鳴海沢の人口を考えれば、あまりにも少ない。

 包帯を巻かれた男。

 家族を失い、呆然としている女性。

 泣き続ける子供。

 誰もが恐怖と疲労に染まった顔をしていた。

 レイコは、その間を歩く。

「ユウト……ユウカ……」

 二人の姿を探す。

 いない。

 次の区画にもいない。

 胸の鼓動が、少しずつ速くなっていく。

 さらに奥へ進もうとした時だった。

「……お母さん?」

 足が止まった。

 聞き間違えるはずがない。

 レイコが振り返る。

 そこに、泥だらけの少女が立っていた。

 服はあちこち破れ、目は真っ赤に腫れている。

「……ユウカ?」

「お母さん……!」

「ユウカ!」

 駆け寄り、その小さな身体を抱き締めた。

「お母さん!」

「ユウカ……! 怪我は? どこか痛いところはないか?」

「大丈夫……私は大丈夫……」

「本当に?」

「うん……」

 腕、背中、頭。

 大きな怪我がないことを確かめる。

 左手首には、途中で紐の切れた跡が残っていた。

 ユウカの右手は、千切れた桃色のお守りを強く握り締めている。

 それが何を意味するのか、レイコにはまだ分からない。

 ただ、娘が自分の腕の中で確かに息をしている。

「……よかった」

 張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。

「本当に……よかった」

「お母さん……!」

 ユウカが胸へ顔を埋め、声を上げて泣き始める。

「怖かった……! いっぱい来て……町が壊れて……いっぱい、死んじゃって……!」

「ああ……もう大丈夫だ。母さんがいる」

「それで……お兄ちゃんが……!」

 レイコの身体が固まった。

「……ユウトが、どうした?」

 ユウカは答えられない。

「ユウカ」

 娘が顔を上げる。

 その表情を見た瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちた。

「ユウトはどこにいる?」

「お兄ちゃん……私たちを逃がすために、残ったの」

「残った?」

「山に洞窟があって、そこから町の外へ逃げられるって。それでみんなで逃げたんだけど、魔獣が追ってきて……」

 ユウカの声が震える。

「お兄ちゃんと、戦える人たちが入口に残ったの。私たちに先に行けって……すぐ追いつくからって……」

 堪えていた涙が、再び溢れ出す。

「でも、来なかった……!」

「…………!」

「ずっと待ってたのに! お兄ちゃん、絶対来るって言ったのに!」

「場所はどこだ」

「……え?」

「その洞窟はどこにある」

 レイコが立ち上がる。

「隊長!」

 追ってきた副官が息を切らしていた。

「北部山中の旧避難洞窟を確認しろ!」

「そこなら先行救援班が到着しています!」

「状況は?」

「生存者を数名保護。ただし、入口周辺には多数の死傷者がいるとのことです。身元確認と遺体の収容は、まだ——」

「案内しろ」

「隊長……」

「今すぐだ!」

「……了解!」

「お母さん!」

 ユウカがレイコの服を掴む。

「お兄ちゃんを……」

 小さな手が震えていた。

「お兄ちゃんを連れて帰ってきて……!」

 レイコは娘の手を握った。

「ああ」

 それ以上は言えなかった。

           ◇

 山へ入ってから、レイコはほとんど足を止めなかった。

「隊長、待ってください!」

「無理なら置いていく!」

「だからって速すぎます!」

 木々の間を駆け抜けながら、レイコの頭へ浮かぶのは息子のことばかりだった。

 ユウトは強い。

 十四歳という年齢を考えれば、その剣の腕は異常なほどだ。

 周囲から剣の神童と呼ばれていることも知っている。

 だが、そんなものは何の慰めにもならない。

 十四歳だ。

 どれだけ剣が使えても、どれだけ才能があっても、自分にとっては十四歳の息子でしかない。

「……馬鹿」

 何をしている。

 なぜ残った。

 逃げればよかった。

 誰かに任せればよかった。

 そんな考えが次々と浮かぶ。

 けれど同時に、レイコには分かっていた。

 ユウトなら残る。

 戦える自分が逃げれば、代わりに誰かが死ぬ。

 そう思えば、あの子はきっと剣を抜く。

 なぜなら——。

『母さんみたいになりたい』

 幼い日の声が蘇る。

『俺も母さんみたいに、誰かを守れるくらい強くなりたい!』

「…………っ」

 教えたのは自分だ。

 剣を。

 強さを。

 誰かを守ることを。

 だからこそ、恐ろしかった。

「私は……自分の命まで捨てろとは教えていないぞ……ユウト……!」

 レイコはさらに速度を上げた。

           ◇

 異変を感じたのは、洞窟までまだ距離がある場所だった。

 鉄錆のような、濃い血の臭い。

 そこへ獣の体臭、泥、焼けた木々、生々しい肉の臭いが混じっている。

 何度も戦場へ立ってきたレイコには、それが何を意味するのか嫌というほど分かった。

「……酷いな」

 追いついた副官が口元を覆う。

 レイコは答えなかった。

 そのまま進む。

 やがて地面に血痕が現れた。

 折れた槍。

 壊れた魔導銃。

 引き裂かれた防具。

 木の幹には巨大な爪痕が刻まれ、その周囲だけ地面が抉れている。

 さらに進むと、救援隊の姿が見えた。

「クロバ隊長!」

「現場は?」

「洞窟内の避難者は、反対側の出口から全員収容しました。入口に残った者のうち、生存者は三名。現在、応急処置を行っています」

「ほかは?」

「…………」

 隊員の沈黙が答えだった。

「身元は確認したのか」

「まだ全員は。損傷の酷い方も多く……」

 言葉を選ぶように、隊員が続ける。

「ただ、避難者から聞いた特徴と一致する少年を、一名確認しています」

 レイコの心臓が大きく脈打った。

「どこだ」

「隊長」

「どこにいる」

 隊員が洞窟の方角へ目を向ける。

「……こちらです」

           ◇

 進んではいけない。

 これ以上、先を見てはいけない。

 母親としての何かが、そう叫んでいる。

 それでも、足を止めることはできなかった。

「ユウト!」

 返事はない。

「ユウト! いるなら返事をしろ!」

 木々の向こうに、洞窟の入口が見えてきた。

 周囲には、おびただしい量の血が残されている。

 砕かれた武器。

 引き裂かれた衣服。

 地面へ倒れた人々。

 そして、数多くの赤黒い魔獣の死骸。

「……これは」

 副官が息を呑んだ。

 洞窟前の一角だけ、地面が大きく陥没している。

 木々は薙ぎ倒され、魔獣の硬い頭部や胴体が、強烈な力で打ち砕かれていた。

 銃撃や剣による傷ではない。

 何が起きたのか、戦闘の専門家であるレイコにも分からなかった。

 だが今は、その異常を調べる余裕などない。

 視界の端に、一振りの刀が映った。

「…………」

 刃は半ばから折れている。

 隣には黒い鞘。

 下緒には、桃色と青のお守りが結ばれていた。

 見間違えるはずがない。

 何度も手入れを教えた。

 何度もその刀を使い、構えを直した。

 桃色のお守りは、ユウカが兄へ贈ったもの。

 青いお守りは、幼馴染の少女から渡されたものだと聞いている。

「……なぜ」

 足が動かない。

「なぜ、それがここにある……?」

 答える者はいない。

 刀から少し離れた場所に、一人の少年が横たわっていた。

 小柄な身体。

 黒い髪。

 見覚えのある服。

「違う」

 一歩。

「違う……」

 もう一歩。

「そんなはずがない」

 顔が見える。

 泥や血は拭われ、瞼は静かに閉じられていた。

 乱れていたはずの衣服も、可能な範囲で整えられている。

 誰かが、息子をそのままにせず、丁寧に横たえたのだと分かった。

 けれど、その身体はあまりにも変わり果てている。

 右腕と左脚が失われている。

 腹部には魔獣に襲われた凄惨な傷が残っていた。

「……違う」

 特殊部隊の隊長として、もっと酷い死体を見たことはある。

 戦場で仲間の死を見たこともある。

 それでも今だけは、目の前の現実を理解できなかった。

「ユウトじゃない」

 震える足で近づく。

 幼い頃から、毎日何度も見てきた顔。

「……ユウト?」

 返事はない。

 レイコは、その場へ膝をついた。

 震える手を伸ばし、息子の頬へ触れる。

 冷たい。

「……おい」

 もう片方の手で肩へ触れる。

「起きろ」

 返事はない。

「ユウト」

 少し強く揺らす。

「起きろ。母さんだ」

 何も返ってこない。

「帰ってきたぞ」

 声が震える。

「任務、終わったんだ」

 冷たくなった頬を撫でる。

「ほら……帰るぞ」

 返事はない。

「ユウカも待ってる」

 返事はない。

「祖父ちゃんも、祖母ちゃんも……みんな待ってるんだ」

 それでも息子は目を開けない。

「だから……起きろよ……」

 何度呼んでも。

 何度触れても。

 ユウトはもう目を開けない。

 レイコの視線が、失われた右腕へ向く。

 いつも剣を握っていた手。

『母さん、見て! 昨日より速くなった!』

『まだ遅い。踏み込みの時に上体が浮いている』

『ええ!?』

『嫌ならやめるか?』

『やめない! もう一回!』

『もう日が暮れるぞ』

『あと一回!』

『お前の一回は何回あるんだ』

 昨日のことのように思い出せる。

 小さかった手。

 初めて木刀を握らせた日。

 手の皮が剥けても、転んでも、何度負けても、泣きながら立ち上がった。

 その手が、もうない。

 レイコは、すぐそばへ置かれた息子の刀を見た。

 刃は折れ、血に濡れている。

 それでも、最後まで使われたことだけは分かった。

 刀と遺体が丁寧に整えられている理由は分からない。

 誰がそうしたのかも分からない。

 けれど、息子が一人きりで放置されたのではなかった。

 最後に誰かが、その顔へ触れてくれた。

 その事実だけが、僅かな痛みとともに胸へ残った。

 レイコは洞窟へ目を向ける。

 その先から、子供や老人、怪我人を含む多くの住民が逃げ延びた。

 ユウカも。

 自分の両親も。

 生きている。

 その理由が、嫌でも分かってしまう。

「……お前が」

 涙が一滴、ユウトの頬へ落ちた。

「守ったのか……?」

 返事はない。

「みんなを……最後まで……」

 逃げれば、助かったかもしれない。

 それでも刀を握り、洞窟の前へ立ち続けた。

「馬鹿……」

 レイコの唇が震える。

「この……馬鹿息子……!」

 息子の身体を抱き寄せる。

 何度も戦場で人を失ってきた。

 そのたびに歯を食いしばり、部下の前では立ち続けた。

 隊長が崩れれば、部隊も崩れる。

 だから泣かなかった。

 泣けなかった。

 クロバ・レイコは強かった。

 強くなければならなかった。

 だが今、腕の中にいるのは部下ではない。

 戦友でもない。

 自分の息子だった。

「母さんは……」

 ユウトの額へ、自分の額を重ねる。

「こんなことをさせるために、お前へ剣を教えたんじゃない……」

 守れる人間になれと教えた。

 強くなれと教えた。

 怖くても剣を握れと教えた。

 けれど、母親より先に死ねなどと、一度だって教えた覚えはない。

「帰ってきたら……また稽古するはずだっただろ……?」

 返事はない。

「今度こそ母さんから一本取るって……言ってただろ……?」

 返事はない。

「まだ……十四歳だぞ……」

 どうして、こんな姿になっている。

 どうして、自分はそばにいなかった。

 なぜ、あの時任務へ行った。

 なぜ、もっと早く帰れなかった。

「ごめん……」

 声が漏れる。

「ごめんな……ユウト……」

 息子の身体を強く抱き締める。

「母さんが……母さんが、もっと早く帰っていれば……!」

 離れた場所にいた副官たちは、誰も声をかけられなかった。

 いつも先頭に立っていた隊長。

 どれほど危険な任務でも怯まず、仲間が倒れれば誰より早く助けに入り、部隊全員を生きて帰すため剣を振るってきた女性。

 そんな彼女が今は、ただ一人の母親として、変わり果てた息子を抱いている。

「ユウト……」

 レイコが名前を呼ぶ。

 返事はない。

「ユウト……」

 もう一度呼ぶ。

 当然、返事はない。

「……起きてくれ」

 願う。

「頼むから……」

 叶わない。

「母さんを……置いていかないでくれ……」

 レイコの顔が歪んだ。

 もう、耐えられなかった。

 息子を胸へ強く抱き締める。

 特殊部隊の隊長でも。

 黒羽一刀流の剣士でもなく。

 ただ一人の母親として——。

「ユウトォォォォォォォォォォォォッ!!」

 息子の名を呼ぶレイコの絶叫が、血に染まった鳴海沢の山々へ響き渡った。

 その声に答える者は、もういなかった。

 この日、突如として現れた正体不明の魔獣群により、鳴海沢の市街地は約八十パーセントが壊滅。

 死者および行方不明者は、町の全人口のおよそ七十五パーセントに達した。

 一つの町を僅かな時間で地獄へ変え、多くの家族から大切な者を奪った未曾有の魔獣災害。

 そして、一人の母親から息子を奪い、その後の人生さえ大きく変えることとなったこの事件は——。

 後に人々から、

 『鳴海沢の惨劇』

 と呼ばれることになる。

 

 





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