崩壊世界のRe:ワールド~器と銀と黒の物語~ 作:クロネコアラ
靴底の下で、小石が崩れた。
レイジは前へ出しかけた足を止め、少し広い場所へ置き直した。
『そこなら大丈夫です。次の段差は、右側が低くなっています』
フィーネの声が届く。
工房の床とは違った。
同じ高さに見えた足場でも、踏むと傾く。砂が薄く積もったところでは、甲冑の重さで足が滑った。
レイジは両腕に抱えた重りを持ち直し、指定された場所まで運んだ。
「そこで下ろせ」
ヴォルフの声に従って、腰を落とす。
重りが地面へ触れたことを確かめてから、手を離した。
『膝を伸ばす方が早かったな』
ユウトが言う。
(落としてないだろ)
『今のが人だったら、揺らしただけでも痛いかもしれないだろ』
レイジは重りへ目を落とした。
そう言われると、さっきの下ろし方では駄目だった気がした。
(次は、もう少しゆっくりやる)
『ああ』
採石場の奥には、切り出された石の壁が幾段にも重なっていた。
ヴォルフが借りたのは、使われなくなった下の区画だ。
仕切りの向こうでは、今も作業が続いている。
上の道を、石材を積んだ荷車がゆっくり通り過ぎていった。
レイジは、作業員たちから少し距離を取って立っていた。
荷台の覆いの中で甲冑を身につけてから、まだ兜を外していない。
すれ違った者は、ヴォルフの連れてきた試験役だと聞いただけだった。
「一度休むぞ。腕の方はどうだ」
「問題ない」
短く答える。
左腰の剣は、鞘へ収まったままだった。
ヴォルフが記録板へ書き込んでいると、上の道から呼ぶ声がした。
「親方! こっち、少し見てくれないか!」
荷車の一台が止まっている。
車輪の脇へしゃがんだ作業員が、手を振っていた。
「待ってろ」
ヴォルフは記録板を置き、レイジへ振り返った。
「ここで休んでろ。すぐ戻る」
レイジは頷いた。
男の背が、坂道を上っていく。
その間に、フィーネが脚の動きを確かめ始めた。
『左足首の補助を、少し弱めます。傾斜で踏み直した時、力が余っていました』
(ああ。さっき、そう感じた)
『では、次に歩く時——』
言葉の途中で、上から石の転がる音がした。
レイジが顔を上げる。
小石が一つ、坂を跳ねて落ちてきた。
その後ろから、砂が流れた。
「離れろ!」
ヴォルフの声が響いた。
石切り場の縁で、灰色の影が動いた。
四つの脚で岩を掴み、背を低くしている。
長い口の奥に、牙が並んでいた。
もう一体が、その横へ現れる。
警笛が鳴った。
「魔獣だ! 詰所へ下がれ!」
作業員が走り出す。
その一体が、上の道へ飛び下りた。
積んであった石が蹴散らされ、荷車の脇へ崩れ落ちる。
車体が大きく傾いた。
そばにいた作業員へ、ヴォルフが手を伸ばす。
突き飛ばすように道の端へ逃がした、その足元で、車止めが外れた。
重い荷台が横へ滑った。
ヴォルフの姿が、その陰へ消える。
(——ヴォルフ!)
レイジは走り出していた。
『右の坂を使ってください! 正面は石が崩れています!』
フィーネが、視界へ道筋を示す。
レイジは進路を変えた。
斜面を駆け上がると、倒れた荷車が見えた。
ヴォルフは車体の横へ身体を起こしていた。
右脚が、荷台の縁に挟まれている。
二人の作業員が持ち上げようとしていたが、動かなかった。
その手前で、逃げ遅れた男が転んだ。
魔獣が顔を向ける。
低い唸り声。
レイジは剣を抜いた。
走りながら振るった刃が、飛びかかろうとした魔獣の肩へ当たる。
硬い音がした。
手首へ衝撃が返り、切っ先が跳ねた。
(硬い——!)
『外側を叩くな! 脚の付け根を見ろ!』
ユウトが叫ぶ。
レイジは剣を引き戻した。
牙が迫る。
半歩退いたところへ、前脚の爪が落ちた。
胸の装甲を擦り、嫌な音が響く。
レイジは息を詰めた。
木刀の稽古では、触れれば止めてもらえた。
目の前の魔獣は、止まらない。
『レイジ、後ろだ』
ユウトの声が低くなった。
『人がいる。下がりすぎるな』
倒れた男が、まだ立ち上がれていなかった。
レイジは足を止める。
甲冑の中で、指が柄へ食い込むほど力を入れていた。
『力を刃へ。腕を固めるために使うでない』
レイヴェルが言った。
何度も教わった声だった。
レイジは息を吐き、黒い魔力を剣へ通した。
魔獣が身を沈める。
飛び出す瞬間、正面から少しだけ身体をずらした。
肩の硬い皮が通り過ぎる。
伸びた前脚の内側へ、刃を送った。
今度は、通った。
魔獣が前へ崩れる。
『まだだ!』
ユウトの声に、レイジは足を止めなかった。
振り向こうとする頭の横へ回り、露わになった喉へ剣を突き込む。
腕へ、重い手応えが残った。
魔獣の脚が地面を掻き、やがて動きを止めた。
レイジは剣を引き抜き、倒れた男へ左手を差し出した。
男がその手を掴む。
立たせると、坂の下を指した。
「下へ」
男は何度も頷き、走り出した。
上の道から、銃声が重なった。
詰所から出てきた警備の男たちが、残る一体を近づけまいとしていた。
魔獣は撃たれるたびに顔を背けたが、石材の陰を使って、少しずつ道を下ってくる。
『長くは止まりません』
フィーネが告げた。
レイジは、荷車の方へ走った。
「来たか……」
ヴォルフが顔を上げた。
額から血が流れ、髭に砂がついていた。
レイジは膝をつき、挟まれた脚を見る。
「動かせるか」
「荷台が上がりゃ、抜ける。だが、こいつが坂へ滑ると、もっと挟まる」
車体の下では、折れた支えが斜めに突き出していた。
レイジは剣を鞘へ収め、荷台へ両手をかけた。
持ち上げようとして、足が滑る。
重い。
訓練で運んだ重りとは、まるで違った。
(もっと——)
『待て。増やす前に、足場を決めよ』
レイヴェルの声がした。
『力が逃げておる。そのままでは、足元から崩れるぞ』
レイジは一度、押し上げるのをやめた。
片足を、露出した硬い岩へ置く。
もう片方を少し後ろへ引いた。
そこで初めて、ユウトへ声をかける。
(少し増やす。合わせてくれるか)
『ああ。お前が上げる時に』
『腰と脚へ補助を回します。急に持ち上げないでください』
フィーネが続ける。
レイジは、荷台の下へ掌を押し込んだ。
黒い魔力が巡る。
脚を包む機構が、低く鳴った。
少しずつ、膝を伸ばす。
荷台が軋んだ。
ヴォルフの脚の上に、僅かな隙間ができる。
「動いた!」
そばの作業員が叫んだ。
レイジは、崩れた支えの近くにある角材へ目を向ける。
「支えを。そこへ」
「分かった!」
男が角材を掴み、車体の下へ差し込んだ。
もう一人が、ヴォルフの肩を支える。
少しずつ、身体が後ろへ下がった。
「……抜けた!」
右脚が、荷台の下から出た。
その時、上で叫び声がした。
「横へ回った! そっちへ行くぞ!」
レイジは顔を上げた。
石材の上へ、魔獣が飛び乗っている。
こちらを見ていた。
まだ、手を離せない。
角材の端が、地面へ十分に食い込んでいなかった。
『急に放すな』
ユウトが言った。
『ゆっくり下ろす。さっきやっただろ』
レイジは奥歯を噛んだ。
魔獣の脚が、石を掴む。
今にも飛んできそうだった。
それでも、荷台を少しずつ下ろした。
角材が軋む。
重さが、両手から離れていく。
『支えに荷重が移りました。離れられます!』
フィーネの声と同時に、レイジは手を引いた。
「連れていけ」
作業員たちへ告げ、立ち上がる。
ヴォルフを抱えた二人が、車体の陰から離れた。
魔獣が跳んだ。
レイジは剣を抜きながら、斜め前へ踏み込んだ。
正面で受け止めれば、その後ろにいる人たちまで巻き込む。
通す場所を、ずらす。
『そこで止まれ。届く!』
ユウトの声。
レイジは足を踏み止め、落ちてくる前脚の内側へ剣を斬り上げた。
黒い光が走る。
体勢を崩した魔獣が、荷車から離れた地面へ叩きつけられた。
まだ動いている。
レイジは、大きく振りかぶらなかった。
起き上がるために頭を持ち上げた、その下へ剣を送り込む。
甲冑の肘が、自分の腕を追った。
切っ先が届き、魔獣の動きが止まる。
剣を引き抜いてから、レイジはすぐに半歩退いた。
最後に跳ねた爪が、靴先の前を掠めた。
『……足を残すな。倒した後も』
ユウトが言った。
(分かった)
返事をして、レイジはようやく息を吸えた。
警笛が、短く何度も鳴った。
警備の者たちが周囲を確かめ、作業員を下の詰所へ集めている。
レイジは、ヴォルフが運ばれるのを見届けた。
自分で立とうとしたところを、手当てに来た男に叱られていた。
その声を聞いて、膝の力が少し抜けた。
『マスター、腰を下ろせる場所へ移ってください』
フィーネが言う。
『関節の温度が上がっています。魔力も、少しずつ減らしましょう』
レイジは道の脇へ寄り、石の上へ腰を下ろした。
(ユウトは?)
『大丈夫。……でも、ちょっと休みたい』
(ああ。俺もだ)
黒い流れを、ゆっくり細くする。
剣を握っていた手が、小さく震えていた。
それを見つめていると、影が落ちた。
最初に助けた男が、こちらへ頭を下げていた。
「助かった。本当に……あんたが来なかったら、俺は」
言葉が続かなくなったらしい。
砂にまみれた顔を、何度も手で拭っていた。
レイジは何か言おうとして、喉を鳴らした。
うまく言葉にならない。
兜の内側で、一度息を整えた。
「無事で、よかった」
それだけ答えた。
男はまた頷いた。
少し離れたところでは、作業員たちが、誰がどこで助けられたかを確かめ合っていた。
「黒い鎧の人が、荷車を上げたんだ」
「剣で、あの二体を……」
その声を聞きながら、レイジは両手を膝へ置いた。
さっきまで、目の前のことしか考えられなかった。
ヴォルフの脚を出すこと。
倒れた人の前へ立つこと。
今は、その人たちが話している。
歩いて、返事をして、誰かの手を握っている。
『よかったな』
ユウトが、静かに言った。
レイジは頷いた。
外から見れば、何に頷いたのか分からなかっただろう。
それでも、内側の声には伝わった。
工房へ戻ったのは、日が落ちてからだった。
ヴォルフの右脚には、厚く包帯が巻かれていた。
しばらく仕事は控えろと言われたらしい。
それなのに、椅子へ座るとすぐ、外した甲冑を指した。
「胸を見せろ。引っかかれたところだ」
レイジが運ぶ前に、フィーネが間へ入った。
『まず、ご自身の休息です』
「座って見るだけだ」
『見るだけで終わりますか?』
ヴォルフは口を閉じた。
レイジは甲冑を支柱へ戻し、剣だけを持って卓へ座った。
刀身には、小さな刃こぼれがあった。
最初の一撃で、硬い肩を叩いた場所だった。
「ここ、欠けた」
「見せてみろ」
ヴォルフは剣を受け取り、灯りへかざした。
「直せる。大きな歪みはねえ」
「……よかった」
「どう当てた」
レイジは、最初から話した。
焦って正面から斬りつけたこと。
肩で跳ね返されたこと。
脚の内側には、刃が通ったこと。
話しているうちに、自分が何を見落としていたかも、少しずつ分かってきた。
ヴォルフは最後まで聞き、剣を卓へ置いた。
「無茶なところはあった」
「……うん」
「だが、俺は助けてもらった。礼を言う」
レイジは顔を上げた。
男は、真っすぐにこちらを見ていた。
「お前が来なきゃ、あそこから出られなかった」
「俺だけじゃ、持ち上げられなかったよ」
レイジは、支柱に戻した甲冑へ目を向けた。
「みんなに教わったことを、使ったんだ」
ヴォルフは頷いた。
しばらく黙って、胸に残った爪の跡を眺めている。
「あれは、お前が使え」
やがて、男は言った。
「試験の時だけじゃねえ。お前の甲冑にする」
「……いいのか?」
「最初に来た時、何のために造るか話しただろ」
瓦礫を動かす。
負傷者を抱えて逃げる。
まだ動かなかった甲冑の前で、ヴォルフはそう言った。
「今日、使えた。お前が使った」
太い指が、レイジを指す。
「ただし、直す時は持ってこい。分からねえまま、壊れたところを放っておくな」
レイジは、両手を膝の上で握った。
今日、助けられた人たちの顔を思い出す。
怖くなかったわけではない。
剣を弾かれた時も、荷台を支えたまま魔獣を見た時も、足がすくみそうになった。
それでも、次に同じ声が聞こえたら、じっとしてはいられないと思った。
「また、誰かが困ってたら……助けに行きたい」
口にすると、胸の内側が静かになった。
「今より、ちゃんと動けるようになって。そのためにも、ここで続けたい」
ヴォルフはすぐには答えなかった。
それから、包帯を巻いた脚を少し動かし、顔をしかめた。
「行くなら、帰ってこい」
低い声だった。
「直すにも、続きを教えるにも、帰ってこなきゃ始まらねえ」
レイジは頷いた。
「帰ってくる」
内側から、ユウトが声をかけた。
『じゃあ、次は剣を振った後の足だ。今日、最後に爪が来ただろ』
(……分かってる)
『我は、荷台を持ち上げる前の魔力の乱れが気になったのう』
(そっちも、分かってるって)
フィーネが卓の上へ降り、記録を開いた。
『わたしからは、甲冑の動きについて。改善したいところが幾つかあります』
レイジが小さく笑うと、ヴォルフも髭の奥で口元を緩めた。
「忙しくなるな」
数日後、採石場で起きた魔獣被害の記事を、ネフィリスが持ってきた。
被害と、負傷者の容体。
作業再開へ向けた見通し。
その脇に、小さく一枚、粗い画像が載っていた。
黒い甲冑が、道端の石へ腰を下ろしている。
胸元には、緑色の光。
砂に汚れた赤いマントが、膝の横へ垂れていた。
記事の中で、その姿は《黒騎士》と呼ばれていた。
「話を聞かれた人たちが、そう呼んでいたそうだよ」
ネフィリスが言った。
レイジは画像を覗き込む。
少し背中が丸く、肩も下がっている。
戦いが終わって、気が抜けていたのだろう。
(……これ、俺か)
『そうだな』
ユウトが答える。
『もう少し、しゃんとして座ればよかったのに』
(疲れてたんだよ)
『生きて座っておるのだから、上出来じゃ』
レイヴェルの声が重なった。
レイジは、その言葉に頷いた。
画像の中の騎士は、こちらを見ていない。
ただ、鞘へ収めた剣を、手の届くところへ置いていた。