崩壊世界のRe:ワールド~器と銀と黒の物語~ 作:クロネコアラ
《黒騎士》という名が記事に載っても、工房の朝は変わらなかった。
レイジは木刀を持って裏へ出る。
足の置き方を直され、振った後の構えを確かめる。
ヴォルフの脚が治るまでは、工房の中を行き来する用事も増えた。
甲冑を動かせても、重い部品を抱えたまま扉を開けるのは難しい。
一度に運ぼうとして落としかけ、二度に分けろと叱られた。
その一方で、町へ出ると、採石場の話を耳にすることがあった。
大きな黒い騎士が、魔獣を斬った。
荷車を持ち上げ、人を助けた。
話す者によって、騎士の背丈も、魔獣の数も少しずつ違った。
レイジは、買い物の包みを抱えて通り過ぎた。
『黙って聞いてると、どんどん大きくなるな。お前』
ユウトが笑った。
(そんなに大きかったら、あの甲冑に入れないだろ)
『ヴォルフが困るのう』
内側で交わした声は、通りの誰にも聞こえなかった。
次に甲冑を着て人を助けたのは、街道の橋が崩れた時だった。
魔獣は出なかった。
途中で傾いた橋の上に荷車が残り、乗っていた人たちが動けなくなっていた。
レイジは、救助に来た者たちと一緒に、一人ずつ岸へ運んだ。
最後に残った老人を抱えた時、最初の屋外試験でユウトに言われたことを思い出した。
揺らしただけでも、痛いかもしれない。
岸へ戻り、膝をつく。
老人の身体を支えたまま、担架へゆっくり下ろした。
「ありがとう。助かったよ」
その手が、黒い手甲へ触れた。
レイジは頷き、次に運ぶものを尋ねた。
ある時は、町外れに現れた魔獣を、警備の者たちと追い払った。
ある時は、崩れた建物の入口を塞いでいた梁を動かした。
近くで被害が出たと知れば、フィーネと場所を確かめた。
すでに避難が終わり、手を出す必要がない時もあった。
着いた頃には、助けられなかった人が運び出されていることもあった。
そんな日は、工房へ戻ってからも、なかなか眠れなかった。
『あそこで、お前に何が見えてた?』
ユウトが、静かに尋ねた。
レイジは、思い出せることを話した。
足場が崩れそうだった場所。
声は聞こえたのに、近づけなかった場所。
フィーネが残した記録も、一緒に見た。
分からなかったことは、次に救護の者へ尋ねた。
自分で抱えて動かしてよいのか、手当てを待つべきなのか。
剣で斬り開ける場所でも、その先へ踏み込んでよいのか。
甲冑の力でできることと、まだ自分の知らないことが、少しずつ分かれていった。
帰るたびに、ヴォルフは甲冑を確かめた。
胸の爪痕。
足首へ入り込んだ砂。
前腕の装甲に残ったへこみ。
どう動いたのかを聞かれ、答える。
ヴォルフが直し、フィーネが調整する。
その横で、レイジは剣の手入れを覚えた。
黒い魔力を刃へ薄く通し、必要な時にだけ力を込める。
斬り終えた後に立つ場所まで考える。
教えられたことが、少しずつ、考えるより先にできるようになった。
工房へ来て二年が過ぎる頃には、《黒騎士》の話は隣の町でも聞かれるようになっていた。
素顔は見せない。
言葉も少ない。
剣を携え、災害のあった場所へ現れる。
誰かの指揮下にいるようには見えないが、避難する者の邪魔はしない。
手が必要な時には、黙って前へ出てくる。
噂の中の姿を、レイジは時々、端末の記事で見た。
見覚えのない働きまで、自分のものにされていることもあった。
『これは違うな。俺たち、この日は脚の調整をしてた』
ユウトが言った。
(ああ。裏で転んでた)
『そちらの話も載せてやりたいのう』
(載せなくていい)
レイヴェルの笑いが返ってきた。
噂に合わせて、何かを変えるつもりはなかった。
甲冑を着れば、目の前を見る。
内側の声を聞き、足を動かす。
外へ伝える必要がある時だけ、口を開く。
ただ、それを繰り返していた。
調べ物も、続けていた。
ネフィリスが持ってきた資料の中には、似ているようで、まったく違う例がいくつもあった。
魔石に残った魔力の話。
死者の声を聞いたという、確かめようのない記録。
読み進めて希望を持ち、最後まで読んで、頁を戻すこともあった。
ユウトの魂を、どんな身体へ、どう移せばよいのか。
レイジ自身が、なぜ二人を内側へ留めていられるのか。
その答えは、まだ見つからなかった。
それでも、工房で集めた記録は増えた。
今は、何を知らないのかを、最初より細かく話せる。
学園へ持っていくための束を、レイジは引き出しへまとめていた。
そして、もう一度、季節が巡った。
——鳴海沢の惨劇から、三年。
黒煙の向こうに、広場が見えた。
先ほど少年を母親のもとへ帰した通りから、レイジは屋根を伝ってきていた。
広場には、七体の魔獣がいる。
部隊員たちが通りの入口を守り、その後ろでは住民が救護車へ向かって走っていた。
『左の二体が、避難路へ回り込もうとしています』
フィーネの声。
レイジは屋根の端を蹴った。
着地する場所は、すでに決めていた。
魔獣と、逃げる人々の間。
黒い甲冑が舗装を踏み、赤いマントが後ろへ流れる。
剣は、降りる前に抜いていた。
一体が首を向けた。
レイジはその正面を避け、踏み出された前脚の内側へ刃を走らせる。
巨体が傾く。
下がった喉へ剣を送り、引き抜く頃には、もう次の一体を見ていた。
『右へ寄りすぎるな。後ろの人に近い』
ユウトの声に、レイジは踏み出す足を僅かに変えた。
二体目の爪を、剣の腹で外へ流す。
伸びた首の下へ入り、黒い魔力を帯びた刃を引いた。
魔獣が倒れる。
その身体が転がる側を避け、レイジは通りの前へ戻った。
「黒騎士だ!」
隊員の声が上がる。
レイジは背後を振り返り、道を示した。
「ここを通れ」
短い言葉に、部隊の指揮を執る男が頷いた。
「避難路を左へ変更! 負傷者を先に運べ!」
人の流れが変わる。
その向こうで、残る魔獣へ銃撃が集中した。
部隊に脚を止められた二体が、続けて崩れ落ちる。
あと三体。
一体が銃撃を避け、広場の中央へ身を沈めた。
別の一体が、その陰を抜けて救護車へ走る。
レイジは後者へ向かった。
『後ろからも来るぞ』
レイヴェルが告げた。
(分かってる)
逃げる人を追っていた魔獣が、横から迫るレイジへ牙を向ける。
その頭が動くのに合わせて、レイジは進路を斜めに変えた。
追ってきた一体の前へ、もう一体の身体が重なる。
ほんの僅か、動きが詰まった。
『今です』
フィーネの声。
レイジは、手前の魔獣の首へ剣を入れた。
斬り抜いた勢いを、腰の回転へつなぐ。
倒れ込む身体の陰を抜け、後ろの一体へ向き直った。
振り下ろされる爪。
半歩、外へ。
爪が舗装へ食い込んだところで、その脚に沿って剣を返した。
黒い光が甲殻の継ぎ目を走り、二体目も膝を折った。
倒れかけた首へ切っ先を送り、その動きを止める。
最後の一体が、広場の中央から顔を上げた。
部隊の銃口が揃う。
レイジも剣を構えた。
飛びかかってきた巨体は、銃撃に姿勢を崩した。
開いた喉へ、切っ先を送る。
刃が届いたことを確かめ、レイジは剣を引き抜いて退いた。
魔獣の前脚が、死に際に一度だけ跳ねる。
その爪は、もう足の届かないところを掻いていた。
広場へ、重い音が落ちた。
『……今のは、よかった』
ユウトの声がした。
(やっと褒めたな)
『次も忘れるなよ』
(分かってる)
返事をしながら、周囲を確かめる。
救護車の扉が閉まるところだった。
担架を運び終えた隊員が、こちらへ腕を上げる。
レイジも、剣を持っていない方の手を上げた。
その後も、しばらく町に残った。
崩れた道を通れるようにし、負傷者を運ぶ者へ手を貸す。
剣を振るう必要がなくなる頃には、煙の向こうに夕方の光が見え始めていた。
『付近の捜索は、到着した増援部隊が引き継いでいます』
フィーネが報告する。
『左の膝に負荷が残っています。帰ったら、確認してもらいましょう』
(ああ。ヴォルフに見せる)
レイジは、救護所へ続く道を見た。
名前を呼ぶ声が聞こえる。
それに答える声も、聞こえていた。
全員が無事だったわけではない。
それでも、助けた人を次の誰かへ渡せた。
レイジは剣を鞘へ収めた。
顔を見せてくれと、求める声はなかった。
今は皆、自分の持ち場で忙しかった。
通りを離れる時、背後から礼を言う声がした。
レイジは一度だけ振り返り、軽く手を上げた。
それから、帰るための道を歩き出した。
「膝だな」
工房へ戻るなり、ヴォルフが言った。
レイジが片足を台へ載せる前から、見当をつけていたらしい。
「着地の時に、少し」
「先にそっちを外せ。立ったまま庇ってると、腰まで変になる」
いつもの声に従って、腰を下ろす。
甲冑を脱ぎ、着替えを済ませて戻ると、フィーネはもう、ヴォルフと膝の部品を覗き込んでいた。
レイジは手を洗い、首の後ろへ落ちた髪を結び直した。
以前より長くなった髪が、低い位置でまとまる。
壁には、背丈の印がいくつも残っていた。
最初につけられたものは、ずっと下だ。
今は、百六十五センチほどになっている。
それでもヴォルフからは、もう少し食えと言われる。
「おかえり、レイジ君」
食卓の方から、ネフィリスが声をかけた。
卓には、温かい食事と、一通の封筒が置かれていた。
「ただいま。来てたんだな」
「今日は帰りを待っていようと思ってね」
彼女は、学園の印が押された封筒へ手を添えた。
レイジは立ち止まった。
それが何の話なのか、聞く前に分かった。
「……三年か」
「うん。あの道で会ってから、三年になる」
ネフィリスは頷いた。
「君たちが学園へ来るための準備を、進められるよ。向こうで話しておきたい相手や、資料についても、まとめてある」
レイジは椅子へ座った。
封筒の中には、学園の案内と、これから必要になる手続きについて書かれた紙が入っていた。
工房へ来た頃には、名前を聞くだけで遠く感じていた場所だった。
今は、何を持っていくか考えられる。
何を尋ねたいかも、言える。
「向こうで、俺たちのことを調べたい」
レイジは顔を上げた。
「最初に話した時と、そこは変わってない」
「分かっているよ」
ネフィリスは静かに答えた。
「君が三年間、問い続けてきたことだからね」
レイジは封筒へ目を落とした。
目覚めた研究所。
名前さえなかった自分。
銀の魂を受け入れ、黒の魂と共に生きている、この身体。
甲冑を動かせるようになっても、その始まりまでは分からない。
(ユウト)
『ああ』
(一緒に、探しに行こう)
『そのつもりだよ。持っていく記録、置いていくなよ』
いつも通りの声に、レイジは少し笑った。
ネフィリスは、その返事を待っていた。
「ユウトも、行くって。記録を忘れるなって言われた」
「それは、大事な荷物だね」
彼女も笑う。
『我のことも忘れるでないぞ』
レイヴェルが割り込んだ。
『今の世の学び舎が、どの程度のものか。我も確かめてみたいからのう』
(見に行くだけじゃないからな。俺は、ちゃんと学ぶんだから)
『ならば、我も付き合ってやろう』
その声を聞いてから、レイジはネフィリスへ伝えた。
「レイヴェルも、学園を見てみたいって」
「それなら、案内する場所も考えておこうかな」
レイジは頷いた。
内側から、満足そうな声が返ってきた。
夕食の後、レイジは部屋の引き出しを開けた。
机の上へ、記録を並べていく。
初めて甲冑の指が動いた時のこと。
銀と黒で、魔石の反応が違ったこと。
身体に出た変化と、ユウトが感じたこと。
ヴォルフやフィーネの記録と照らし合わせながら、何度も書き足してきた紙だった。
端が少し曲がったものもある。
それを丁寧に揃え、紐でまとめた。
棚に重ねた服を、必要な分だけ取り出す。
初めてこの部屋へ来た時には、荷物らしい荷物などなかった。
今は、全部持っていこうとすると、袋に収まらない。
扉が軽く叩かれた。
振り返ると、ヴォルフが立っていた。
「膝は直った。明日、もう一度歩いてみろ」
「ありがとう」
男は机の上を見た。
まとめられた紙と、開いたままの荷物。
壁に立てかけてある、一本の木刀。
「それも持っていくのか」
「持っていきたい」
レイジは木刀を手に取った。
柄には、握り続けた跡が残っている。
何度も落とし、拾い、構え直した。
真剣を使うようになってからも、これで確かめることは多かった。
「まだ、使えるだろ」
「使える。お前が手入れをしてりゃな」
ヴォルフは短く答え、部屋の中を見回した。
空箱をどけただけだった場所に、服や本や道具が増えている。
「置いていくものは、そのままでいい」
レイジの手が止まった。
「部屋、使わないのか?」
「今のところはな。帰ってきた時に、寝る場所がねえと面倒だろ」
工房へ来た日に渡された鍵は、今も手元にあった。
レイジは、それを返すつもりで机へ置いていた。
ヴォルフの視線が、鍵へ落ちる。
「持ってろ」
それだけ言った。
レイジは鍵を取り、掌へ握り込んだ。
金属の冷たさは、初めて受け取った時と同じだった。
「……帰ってくるよ」
「ああ。甲冑だけ送り返して、修理を押しつけんなよ」
「それ、駄目なのか?」
「どう壊したか、お前の口から聞かねえと分からねえだろ」
レイジは笑った。
ヴォルフも、髭の奥で口元を緩めた。
廊下から、緑の光が近づいてくる。
『明日の確認には、わたしも立ち会います』
フィーネが、二人の間へ浮かんだ。
『それから、持ち出す図面は選んでおきました。向こうで必要な調整ができるように』
「細かいところは、お前に任せる。変えたら、俺にも知らせろ」
『はい。こちらからも、相談させてください』
ヴォルフが頷いた。
レイジは、そのやり取りを見ていた。
この部屋を出ても、何もかも終わるわけではない。
分からないことがあれば、また尋ねられる。
直してほしいところを、持って帰ってこられる。
「ヴォルフ」
「何だ」
「三年間、ありがとう」
男は、少しだけ目を細めた。
「礼は聞いた。続きは、自分の目で見てこい」
レイジは頷いた。
机の上へ、学園の案内を置く。
行き先は、最初から変わっていない。
アルカディア。
けれど、あの日、街道で車へ手を上げていた自分より、持っていくものはずっと増えていた。
剣を教える声。
魔力の扱いを教える声。
同じ景色を見ながら、隣で考えてくれる声。
そして、
レイジは鍵を荷物の奥へしまい、木刀をその横へ置いた。
廊下では、ネフィリスが明日の予定をヴォルフと話していた。
レイジはその声のする方へ、扉を開けた。