崩壊世界のRe:ワールド~器と銀と黒の物語~ 作:クロネコアラ
ちょと長めになりましたが、無事に3話!書き終えました!
世界と次元の狭間。
いずれの世界にも属さない暗闇の中に、崩壊した研究所は浮かんでいた。
その周囲には青や赤、紫色の光が川のように流れ、時折、異なる世界の景色を映し出している。
そして研究所から遠く離れた場所には、無数の鎖に縛られた巨大な鳥籠が、沈黙したまま浮かんでいた。
「見るな。行くぞ」
レイヴェルの言葉に従い、少年は鳥籠から目を逸らした。
研究所へ戻ろうとした、そのとき。
「あっちにも施設がある」
少年が指差した先に、別の建造物が見えた。
研究所よりも横に広く、黒い岩盤へ半ば埋まるように建っている。周囲には折れた支柱や崩壊した足場が漂い、その中央から細い通路が延びていた。
「格納施設か、整備場といったところじゃろう」
レイヴェルは赤い瞳を細める。
「研究所とは別系統の力が、まだわずかに流れておる」
「ここから出るためのものが残っているかもしれない」
「うむ。怪物の巣と化した研究所へ戻るよりは、よほどましじゃ」
二人は、暗闇に架かった通路を進み始めた。
通路の左右には手すりすらない。
床はところどころ崩れ、縁から剥がれ落ちた小さな破片が音もなく闇へ吸い込まれていく。
しかし、破片は下へ落ちなかった。
重さを失ったようにしばらく漂い、流れてきた青白い光へ触れた瞬間、粉々になって消滅した。
「足を踏み外すでないぞ」
「落ちたらどうなる?」
「運がよければ、どこぞの世界へ放り出される」
「運が悪ければ?」
「永遠に狭間を漂うか、身体がばらばらになるかじゃな」
少年は無言で通路の中央へ寄った。
「そういうことは、渡る前に言え」
「今言ったではないか」
「遅いんだよ」
「細かい男じゃのう」
男。
何気なく発せられたその言葉に、少年の足が止まった。
「どうした、小僧?」
「……俺には、名前がない」
少年は自分の胸へ手を当てた。
目覚めた培養器にも、身につけていた服にも、名前らしいものは記されていなかった。
残されていたのは、意味の分からない番号だけ。
目覚める前の記憶も、一つとして残っていない。
「俺は……本当に人間なのか?」
レイヴェルは、すぐには答えなかった。
少年の正面へ回り込み、銀色の髪を揺らしながら、その紅い瞳でまっすぐに見つめる。
「知らぬ」
返ってきたのは、慰めもごまかしもない言葉だった。
「おぬしが何者に造られ、何のためにあの場所へ置かれていたのか。我にも分からぬ」
レイヴェルは静かに続ける。
「じゃが、何者として生きるかまで、造った者に決めさせる必要はあるまい」
小さな身体から、静かな威厳が満ちていく。
先ほどまで少年とくだらない言い争いをしていた少女とは思えない。
かつて銀覇王と呼ばれた、一人の王がそこにいた。
「過去がないというのなら、これから作ればよい。名がないのなら、今ここで持てばよい」
「今ここで?」
「ちょうど我は王。そして、おぬしは名もなき臣下。名を授けるには、申し分のない組み合わせであろう?」
「いつ俺が臣下になった」
「細かいことを気にするでない」
レイヴェルは腕を組み、難しい顔で唸り始めた。
「そうじゃな……銀一号」
「却下」
「まだ最後まで言っておらぬ!」
「絶対ろくな名前じゃない」
「では、器丸」
「もっと嫌だ」
「注文の多い器じゃのう……」
「名前をつける気があるのか?」
「失礼な! 我は大真面目じゃ!」
「真面目に考えてそれなのか……」
少年に呆れた目を向けられ、レイヴェルは頬を膨らませた。
再び腕を組み、今度こそ真剣に少年を見つめる。
やがて、その視線が少年の胸元で止まった。
少年の内側には、彼女から流れ込んだ銀色の魔力が眠っている。
何もなかった空の器が、初めて受け入れたもの。
それは力だけではない。
少年とレイヴェルを結びつけた、新たな命の証でもあった。
「――レイジ」
レイヴェルが静かに告げた。
「レイジ……?」
「零より始まり、己の意志で道を示す者。レイジじゃ」
少年は、その響きを確かめるように繰り返す。
「レイジ……」
聞き覚えはない。
忘れていた記憶が蘇ったわけでもない。
それでも、その名は不思議なほど胸へ馴染んだ。
過去はない。
記憶もない。
自分が本当に人間なのかさえ分からない。
それでも、空っぽだった自分の中に、初めて確かなものが一つ生まれた。
「悪くない」
「であろう!」
レイヴェルは待っていたとばかりに胸を張る。
「もっと敬ってもよいぞ。我はおぬしの名付け親じゃからな!」
「調子に乗るな」
「早くも反抗期か!?」
「臣下になった覚えもないからな」
「我から名を授かった者は、皆、我の臣下となる決まりじゃ!」
「今作っただろ、その決まり」
「細かいことを気にするでない!」
少年――レイジは、小さく笑った。
自分を呼ぶ名前がある。
ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
「ありがとう、レイヴェル」
不意に礼を告げられ、レイヴェルの動きが止まる。
「……礼などいらぬ」
彼女はレイジから顔を背けた。
白銀の髪の隙間から見える耳が、わずかに赤くなっている。
「照れてる?」
「照れておらぬ!」
「耳が赤いぞ」
「これは魔力の影響じゃ!」
「霊体なのに?」
「先を急ぐぞ、レイジ!」
レイヴェルは逃げるように飛んでいく。
初めて名前を呼ばれ、レイジの胸に温かなものが広がった。
「待てよ、名付け親」
「誰が待つか!」
二人は言い合いながら、通路の先を目指した。
◇
やがて二人は、施設の入口へ辿り着いた。
巨大な扉は固く閉ざされ、隣に設置された操作盤も光を失っている。
「こっちも壊れているみたいだな」
「待て」
レイヴェルは扉へ近づき、壁の中を覗き込むように目を凝らした。
「壁の内側に、かすかな魔力の流れがある。おそらく非常用の開閉装置じゃ」
「どうすればいい?」
「我の力を使え」
「どうやって?」
「胸の内側へ意識を向けよ。そこに銀色の熱があるはずじゃ」
レイジは目を閉じた。
自分の身体の奥深く。
心臓とは異なる場所で、何かがゆっくりと脈打っている。
温かく、それでいて触れれば凍りつきそうな、不思議な力。
「見つけた」
「それが我の魔力じゃ。掴み取るように意識し、腕を通して手のひらへ流せ」
レイジは言われたとおり、銀色の熱へ意識を集中させた。
力の一部を引き出し、右腕へ押し流す。
瞬間。
「うわっ!」
指先から銀色の光が弾けた。
光は壁を駆け巡り、施設全体へ広がっていく。
壁の奥で機械が唸り、閉ざされていた扉が激しく震え始めた。
「おお、成功じゃ!」
「本当に成功なのか!?」
「開けば成功、壊れれば失敗じゃ」
「先に言え!」
けたたましい音を立てながら、巨大な扉が左右へ開いていく。
幸い、崩壊することはなかった。
扉の先には、暗闇に沈んだ通路が続いている。
研究所ほど破壊されてはいない。
しかし照明も空調も停止し、流れ出してきた空気は氷のように冷たかった。
レイジが一歩踏み込む。
その足元で、床の誘導灯が弱々しく点灯した。
淡い緑の光が、まるで侵入者を導くように、施設の奥へ向かって一つずつ灯っていく。
「歓迎されておるようじゃな」
「罠じゃないだろうな」
「そのときは走れ」
「お前、本当にそればかりだな」
「生き延びるための基本じゃぞ」
「銀覇王らしい立派な作戦はないのか?」
「危なくなったら吹き飛ばせばよい」
「今のお前、物に触れないだろ」
「……そのときは、やはり走れ」
「だと思ったよ」
レイジは警戒しながら、緑色の光を追った。
◇
通路の先は、広い管理室になっていた。
壁一面に無数の端末が並び、中央には半球状の制御装置が置かれている。
ほとんどの画面は割れ、配線も焼け落ちていた。
だが、一台だけ緑色の光を明滅させている。
レイジが近づいた瞬間、機械音声が響いた。
『生体反応を確認』
「っ!」
レイジは反射的に身構えた。
『管理者権限――該当なし。緊急規定に基づき、仮登録を開始します』
「勝手に始まったぞ」
「長く眠っておった機械とは、せっかちなものじゃ」
端末から緑色の光が噴き出した。
光は空中へ集まり、小さな球体を形作る。
やがて球体は花の蕾のように開き――。
その中心から、何かが勢いよく飛び出した。
「痛っ!」
『いたぁっ!?』
レイジの額へ、それが真正面から衝突した。
二つの声が同時に響く。
床へ落ちる寸前、小さな何かが四枚の翼を広げ、ふらふらと宙へ浮かび上がった。
手のひらほどの少女だった。
全高は十五センチほど。
ミントグリーンの髪を頭の高い位置で二つに結び、そこから伸びる細い髪束が腰まで垂れている。
白いハイネックの上着の下には、身体へ密着した黒い衣装。
背中から下向きに伸びる四枚の電子翼が、淡い光の粒子をこぼしていた。
『ちょっと!』
小さな少女は額を押さえながら、レイジを睨みつける。
『起動したばかりの電子精霊に頭突きするなんて、どういうつもりですか!』
「そっちから飛び出してきたんだろ」
『わたしの完璧な射出軌道上に、あなたの額があったんです!』
「それを、ぶつかったって言うんだ」
『違います! 予測不能な障害物との接触です!』
「人の額を障害物扱いするな!」
小さな少女は腰へ手を当て、頬を膨らませた。
しかし、レイヴェルの姿を認識した途端、その瞳に細かな文字列が流れ始める。
『未登録高密度霊体を検出』
電子の翼が細かく震えた。
『霊体の本体反応は、そちらの生体内部……? 外部へ投影された魂と、体内の魔力が接続されています。なんですか、この無茶苦茶な状態は!』
「我にも分からぬ。調べよ」
『初対面で命令ですか!?』
「我は王じゃからな」
『この施設の規則に、王だから命令してよいとは記録されていません!』
「長いこと眠っておった機械が、細かいことを言うでない」
『長いこと……?』
小さな少女の動きが止まった。
表情から怒りが消える。
彼女の電子翼から無数の光の糸が伸び、周囲の端末へ接続された。
止まっていた画面が次々と明滅し、膨大な文字列が流れ始める。
『内部時計を補正。外部観測記録と照合……』
少女の瞳が小刻みに揺れる。
『最終稼働記録から、九百八十四年が経過しています』
先ほどまでの勢いが、声から消えていた。
『職員の生体反応……なし。研究所との正規管理網も切断されています。当施設の主要機能、七十二パーセントが停止』
管理室に沈黙が落ちる。
九百八十四年。
それほどの時間を、この少女はたった一人で眠り続けていた。
「おぬしは、ここの管理装置か?」
『失礼ですね。単なる管理装置ではありません』
少女は空中で姿勢を正した。
『独立型電子精霊、識別名フィーネです。施設管理、機械制御、情報解析および電子戦支援を担当します』
「フィーネか」
『職員不在につき、現在より当施設の管理を代行します』
フィーネはレイジの正面へ飛んできた。
『そちらの生体の登録名は?』
少し前までなら、答えることはできなかった。
だが、今は違う。
「レイジだ」
迷いのない声だった。
『レイジ。仮登録を開始します』
端末の画面に文字が刻まれる。
――REIJI。
ただの文字列にすぎない。
それでもレイジは、しばらく画面から目を離せなかった。
自分の名前が、この世界に初めて刻まれた。
それは、自分が確かにここに存在しているという証のように思えた。
『登録を完了しました』
フィーネが小首を傾げる。
『それで、レイジ。あなた方の目的は?』
「ここから出て、人の住む世界へ行きたい」
『外部世界への移動手段を検索します』
フィーネが両手を広げた。
管理室の中央に光が集まり、施設全体の立体図を作り出す。
長い通路。
複数の整備区画。
閉鎖された倉庫。
そして最深部には、巨大な格納庫が表示されていた。
『一件、使用できる可能性のある設備を確認しました。ただし、記録上は大破判定です』
「案内せよ」
『あなたに命令権はありません!』
「では、お願いじゃ。案内してたもれ」
『最初からそう言ってください!』
「面倒な精霊じゃのう」
『命令ばかりする霊体よりましです!』
出会ったばかりだというのに、レイヴェルとフィーネは睨み合っている。
レイジは二人を見比べ、小さく息を吐いた。
「先が思いやられる……」
◇
フィーネに導かれ、レイジたちは施設の奥へ進んだ。
途中には閉じた隔壁が幾つもあった。
しかし、フィーネが操作盤へ手を触れるたび、残されていた動力が呼び起こされ、道が開かれていく。
『この先が最深部です』
最後の隔壁が、重い音を立てて開いた。
その先に広がっていたのは、研究所の何倍もある巨大な格納庫だった。
天井は暗闇へ溶け、反対側の壁さえ見えない。
無数の整備台や作業機械が、長い眠りについたまま並んでいる。
そして格納庫の中央には、一隻の船が横たわっていた。
細長い船体。
折れた左右の翼。
砕け、ひび割れた装甲。
艦首は大きく潰れ、船体側面には、巨大な爪で抉られたような傷が何本も刻まれている。
「これが、移動手段なのか?」
『多次元観測・航行試験艦です』
フィーネは船体を見上げた。
『世界と世界の間を移動し、異なる次元を観測するために建造されました』
「これなら、人のいる世界へ行ける?」
『正常に動けば、理論上は可能です』
「正常には見えないぞ」
『ですから、大破判定だと言いました』
フィーネは腰へ手を当てる。
『主機関停止。左右の次元翼は大破。座標演算装置は半壊。船体各部の制御回路も断線しています』
「つまり、動かないのか?」
『現在は』
「直せるか?」
レイジの問いに、フィーネは目を丸くした。
直後、得意げに胸を張る。
『誰に聞いているんですか?』
四枚の電子翼が強く輝く。
『この施設と艦の管理を任されていた電子精霊ですよ。必要な部品と時間さえあれば、修理できます』
「どれほどかかる?」
『現時点では算出不能です。使用可能な設備と資材を確認する必要があります』
フィーネの周囲に、艦の構造図が幾重にも展開される。
『それに、元の設計どおり修理するだけでは不十分です。周辺空間の状態が建造当時から大きく変化しています』
「どうするんだ?」
『修理と同時に、現在の次元環境へ適応させる改造を行います』
「よし、決まりじゃな!」
レイヴェルが大破した艦の上へ移動し、堂々と腕を組む。
「我らの新たな城として、立派に蘇らせよ!」
『ですから、あなたに命令権はありません!』
「細かいことを気にするでない!」
『細かくありません!』
二人の声が、長く無人だった格納庫に響き渡った。
こうして、次元航行艦を蘇らせるための作業が始まった。
◇
最初に必要だったのは、壊れた船の修理ではない。
整備設備そのものの復旧だった。
フィーネは配線の内部へ電子体を潜り込ませ、断線した場所を一つずつ調べた。
レイジは彼女の指示に従い、格納施設の各区画から工具や部品を運び出す。
レイヴェルはというと――。
「そこじゃ、レイジ! もう少し右じゃ!」
「見ているだけなら黙ってろ」
「何を言う。監督も立派な仕事じゃぞ?」
『作業を増やす監督は必要ありません!』
「二人して、我への敬意が足りぬのではないか!?」
口を挟んで作業を遅らせていた。
もっとも、彼女がまったく役に立たないわけではない。
古い魔導機関の仕組みについては、フィーネの記録にも残っていない知識を持っていた。
その知識が修理へ役立つこともあれば、古すぎて使えず、フィーネと大喧嘩になることもあった。
『その術式規格は、千五百年前に廃止されています!』
「優れたものは、古くとも使える!」
『効率が悪すぎます!』
「伝統を理解せぬ小娘め!」
『時代遅れの術式へ固執する方に、小娘と呼ばれたくありません!』
「レイヴェル。フィーネ。作業が進まない」
二人を止めることも、いつしかレイジの仕事になっていた。
修理は一日や二日では終わらなかった。
世界の狭間には、朝も夜もない。
三人は端末が示す時間を頼りに、作業と休息を繰り返した。
格納庫の一角へ簡素な寝床を作り、施設の長期保存庫に残されていた水と保存食を集めた。
だが、九百年以上の年月に耐えられたものは少ない。
足りない食料や部品は、元の研究所から運び出さなければならなかった。
研究所には、あの怪物たちが残っている。
正規の管理網は失われていたが、研究所との間には幾つかの残存回線が生きていた。
フィーネは、その回線を通じてわずかに動く監視装置へ接続し、怪物の位置を調べた。
『北通路に一体。地下搬入口付近に二体。西側は監視網が停止しているため、状況を確認できません』
「また三体もいるのか」
『確認できた範囲だけです』
「少しくらい安心させる言い方はないのか?」
『事実を隠して襲われるよりはましです』
「それはそうだけど……」
レイジは物音を立てないように研究所を進み、必要な部品や食料を運び出した。
監視網には死角が多い。
曲がり角の向こうから、怪物の荒い息遣いが聞こえてきたこともある。
そのたびに崩れた部屋へ身を隠し、床を引きずる爪の音が遠ざかるまで息を殺した。
自分には、まだ戦う力がない。
身体の中にはレイヴェルの膨大な魔力が眠っている。
だが、扉を開ける程度の力さえ安定して使えなかった。
少し集中を乱せば、魔力は暴れ、手のひらから四方へ飛び散ってしまう。
このままでは、いつか誰かを守るどころか、自分の命さえ守れない。
「焦るな」
怪物をやり過ごし、格納施設へ戻る途中でレイヴェルが言った。
「でも、俺には力があるんだろ?」
「ある。だからこそ、焦って使えば死ぬ」
レイヴェルは珍しく真剣な顔をしていた。
「力とは、持っているだけでは意味がない。それを扱う技と、耐える身体が必要じゃ。どれほど強大な魔力を宿していようと、器が砕ければそれで終わりじゃ」
「なら、どうすればいい?」
「鍛えるのじゃ。身体も、心も、魔力の扱いもな」
レイヴェルは尊大な笑みを浮かべた。
「ここを出たら、我が直々に教えてやろう」
「優しく頼む」
「安心せよ。死ぬ一歩手前で止めてやる」
「全然安心できない」
「何事も限界を知ることから始まるのじゃ」
「加減を知らないだけじゃないのか?」
「失礼な。二、三度死にかければ、身体で覚える」
「俺はもう一度死んでるんだぞ」
「ならば、二度目は慣れておろう」
「慣れるわけないだろ!」
それでも、レイジの胸にあった焦りは少しだけ軽くなった。
◇
壊れていた艦は、日を追うごとに姿を変えていった。
潰れた艦首を切り離し、新たな装甲で覆う。
折れた次元翼には、格納庫に残されていた別の試験機の部品を組み込んだ。
停止していた主機関には、研究所から回収した魔力炉の部品を移植する。
半壊した座標演算装置には、フィーネ自身の処理能力を接続するための新たな回路が追加された。
『これで、わたしが艦の制御中枢を補助できます』
「おぬしが船そのものになるのか?」
『船そのものではありません! あくまで演算と制御の補助です!』
「つまり船ではないか」
『違います!』
「船でもいいだろ。飛べれば」
『よくありません! わたしはフィーネです!』
「分かった、分かった」
『絶対に分かっていません!』
言い争いながらも、作業は進んでいった。
レイジは工具の扱いを覚え、少しずつフィーネの指示を先回りできるようになった。
初めの頃は、部品の名前さえ分からなかった。
今では機械の音を聞くだけで、異常のある場所をおおよそ見分けられる。
もちろん、失敗もした。
配線をつなぎ間違えて火花を浴び、フィーネに一時間以上説教されたこともある。
レイヴェルの助言を信じて魔力を流し込み、整備機械を三台まとめて壊したこともあった。
「我の時代では、これで動いたのじゃ!」
『何年前の技術ですか!』
「精密機械が軟弱すぎるのじゃ!」
『壊した本人が言わないでください!』
「俺が直すから、二人とも静かにしてくれ……」
静まり返っていた施設に、三人の声が響くようになった。
艦を直すという同じ目的のもとで過ごすうち、いつしか三人が一緒にいることが当たり前になっていた。
どれほどの時間が流れただろう。
レイジの髪が少し伸び、傷だらけだった手のひらに硬い皮ができた頃。
ついに、その日は訪れた。
◇
『全系統、最終確認完了』
格納庫の中央で、次元航行艦が淡い緑色の光を放っている。
完全に元どおりになったわけではない。
継ぎはぎだらけの装甲。
左右でわずかに形の異なる次元翼。
本来の設計には存在しなかった追加装置。
かつての姿を知る者が見れば、別の船だと思うかもしれない。
それでも、船は確かに息を吹き返していた。
『主機関、正常。次元障壁、展開可能。座標演算装置、誤差許容範囲内』
フィーネはレイジの前まで飛んでくると、誇らしげに胸を張った。
『修理および次元環境への適応改造――完了です!』
「おお! さすが我が家臣じゃ!」
『誰が家臣ですか!』
「よくやった、フィーネ」
レイジが告げると、フィーネは一瞬だけ目を丸くした。
『……当然です。わたしは優秀ですから』
そっぽを向いて答えたが、その口元はわずかに緩んでいた。
三人は次元航行艦へ乗り込んだ。
艦橋の中央席へ、レイジが腰を下ろす。
レイヴェルはその隣で宙に浮かび、フィーネは正面の制御台へ降り立った。
壊れていたはずの画面に、次々と光が灯っていく。
『目的座標は、定期補給船に残された航行記録から逆算します』
「行き先は分かるのか?」
『補給船が帰還していた世界までは特定できます。ただし、最後の記録は九百八十四年以上前のものです』
空中に、細かな光で構成された座標図が浮かび上がった。
『座標の変動が大きいため、当時と同じ地点へ到着できる保証はありません』
「人が住んでいた世界なんだな?」
『少なくとも、最後の記録が残された時点では』
「その世界へ辿り着けるなら、それでいい」
たとえ、目的地が施設の記録に残された時代とは大きく変わっていたとしても。
たとえ、そこにレイジの過去を知る手がかりが何も残されていなかったとしても。
まずは、この場所から出なければ何も始まらない。
『了解しました』
格納庫の巨大な扉が開く。
その向こうには、世界と次元の狭間が広がっていた。
青、赤、紫。
無数の光が暗闇を流れ、遠方にはあの巨大な鳥籠が変わらぬ姿で浮かんでいる。
レイジは暗い檻を見つめた。
結局、あれが何なのかは分からないままだった。
中に何が存在するのか。
なぜ、あれほど厳重な封印が施されているのか。
今のレイジたちには、確かめる手段も、近づくだけの力もない。
「いつか、ここへ戻ってくることになる気がする」
その呟きを聞き、レイヴェルも鳥籠へ目を向けた。
「そのときは、今より強くなっておれ」
「お前が力の使い方を教えてくれるんだろ?」
「もちろんじゃ。泣いて許しを請うほど、厳しく鍛えてやろう!」
「やっぱり加減を知らなそうだな」
『お二人とも、出航前に喧嘩しないでください!』
フィーネの声とともに、主機関が低い唸りを上げる。
緑と銀の光が船体を包んだ。
『次元障壁、展開』
艦の前方で空間が歪み始める。
歪みは巨大な渦となり、その中心に青白い光が生まれた。
『次元航路を固定』
フィーネの声が艦橋に響く。
『進路――補給船の帰還座標』
レイジは座席の肘掛けを強く握った。
記憶を失い、名前すら持たずに目覚めた研究所。
自分の中へ宿った、銀覇王レイヴェル。
九百八十四年の眠りから目覚めた、電子精霊フィーネ。
この先に何が待っているのかは分からない。
自分の過去が見つかる保証もない。
それでも、もう一人ではなかった。
胸の中には、レイヴェルの銀の魔力がある。
そばには、フィーネがいる。
そして今の自分には、二人から呼んでもらえる名前がある。
「行こう」
『次元航行艦、発進します!』
艦がゆっくりと浮上した。
主機関の光が強まり、格納庫全体を激しく震わせる。
「我らの新たな旅立ちじゃ!」
『まだ試験航行です! 安全が確認できるまで席を立たないでください!』
「我に指図するでない!」
「二人とも、こんなときまで喧嘩するな!」
レイジの声を置き去りにして、艦が一気に加速する。
船体は緑と銀の光の尾を引き、青白い渦の中へ飛び込んだ。
眩い光が艦橋を埋め尽くす。
重力が消え、身体が浮き上がるような感覚がレイジを襲った。
そして次の瞬間。
次元航行艦は、世界と次元の狭間から姿を消した。
その背後で、無人となった格納庫の扉が静かに閉じていく。
長い年月を経て再び灯った施設の光も、一つ、また一つと消えていった。
再び静寂が戻る。
そして――誰にも気づかれぬまま。
巨大な鳥籠を縛る鎖の一本に、細い亀裂が走った。
――ギィィン。
重い金属音が、世界の狭間へ響き渡る。
亀裂はゆっくりと広がり、鎖の表面に刻まれていた術式の一部が砕け散った。
鳥籠の奥深く。
光さえ届かない暗闇の中から、何かが鎖へ激しくぶつかる。
一度。
二度。
三度。
巨大な鳥籠全体が、低く震えた。
だが、その異変に気づく者は、もう誰もいない。
名を得た少年は、新たな仲間たちとともに、すでに別の世界へ旅立っていた。
少年の名は、レイジ。
零より始まり、己の意志で道を示す者。
それは、空の器に初めて与えられた贈り物だった。