崩壊世界のRe:ワールド~器と銀と黒の物語~   作:クロネコアラ

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かなり長めになりましたが、無事に3話!書き終えました!



修正版に変えました。


第3話-名を得た器、その名はレイジ-

 

 

 世界と次元の狭間。

 

 いずれの世界にも属さない暗闇の中を、青や赤、紫色の光が川のように流れている。

 

 その流れから外れた黒い岩盤の上には、長い時を経て崩壊した研究所が建っていた。

 

 そして、さらに遠く。

 

 無数の鎖に縛られた巨大な鳥籠が、闇の中に沈黙したまま浮かんでいる。

 

「見るな。行くぞ」

 

 レイヴェルに促され、名もなき少年は鳥籠から目を逸らした。

 

 研究所へ引き返そうとした、その時だった。

 

「……あっち」

 

 少年は足を止め、流れる光の向こうを指差した。

 

 暗闇の中に、別の建造物が浮かんでいる。

 

 研究所よりも横に広く、黒い岩盤へ半ば埋まるように建っていた。周囲には折れた支柱や崩壊した足場が漂い、その中央から細い連絡通路が延びている。

 

「格納施設か、整備場といったところじゃろう」

 

 レイヴェルは赤い瞳を細めた。

 

「研究所とは別系統の力が、まだ僅かに流れておる」

 

「ここから出るためのものが残っているかもしれない」

 

「うむ。怪物の徘徊する研究所へ戻るよりは、望みがありそうじゃ」

 

 二人は崩れかけた連絡通路を渡り始めた。

 

 左右に手すりはなく、床もところどころ欠け落ちている。縁から剥がれた小さな破片は下へ落ちず、重さを失ったように闇を漂った。

 

 やがて流れてきた青白い光へ触れた瞬間、破片は音もなく粉々になり、そのまま消滅した。

 

「足を踏み外すでないぞ」

 

「落ちたらどうなる?」

 

「運がよければ、どこぞの世界へ放り出される」

 

「運が悪ければ?」

 

「永遠に狭間を漂うか、身体がばらばらになるかじゃな」

 

 少年は無言で通路の中央へ寄った。

 

「そういうことは、渡る前に言えよ」

 

「今言ったではないか」

 

「遅いんだよ」

 

「細かい男じゃのう」

 

 少年はむっとしながらも、それ以上は言い返さなかった。足元の闇を見ないよう前だけを向き、レイヴェルとともに通路を渡り切る。

 


 

 やがて二人は、建造物の入口へ辿り着いた。

 

 巨大な扉は固く閉ざされ、隣に設置された操作盤も光を失っている。

 

「こっちも壊れているみたいだな」

 

 少年が操作盤へ触れようとした時、消えていた画面に一瞬だけ文字が浮かんだ。

 

 ——管理者認証。

 

 ——氏名、または登録識別名を入力してください。

 

 表示はすぐに乱れ、暗い画面へ戻った。

 

「名前……」

 

 少年の手が、操作盤の前で止まる。

 

「どうした、小僧?」

 

「俺、自分の名前も分からないんだ」

 

 緑色の検査着に記されていたのは、名前ではなく意味の分からない番号だけだった。

 

 目覚める以前の記憶を探しても、空が割れた光景と、自分が死んだ瞬間しか見つからない。

 

「名前だけじゃない。自分が誰なのかも、この身体が本当に人間なのかも分からない」

 

 少年は操作盤へ映る自分の輪郭を見つめた。

 

「俺は……何なんだろうな」

 

 レイヴェルは、すぐには答えなかった。

 

 少年の正面へ回り込み、その赤い瞳でまっすぐに見つめる。

 

「知らぬ」

 

 返ってきたのは、慰めもごまかしもない言葉だった。

 

「おぬしが何者に造られ、何のためにあの場所へ置かれていたのか。我にも分からぬ」

 

 少年は目を伏せた。

 

「じゃが、何者として生きるかまで、造った者に決めさせる必要はあるまい」

 

「……え?」

 

「過去がないというのなら、これから作ればよい。名とて、いつまでも失ったままでいる必要はない」

 

 半透明の身体でありながら、レイヴェルの姿には一人の王としての威厳が宿っていた。

 

「名前をつけてくれるのか?」

 

「我は王じゃぞ。名を授けることなど造作もない」

 

「変な名前は嫌だ」

 

「誰が変な名をつけるか! よい名を考えておいてやる」

 

「今すぐじゃないんだな」

 

「王の言葉には重みが必要なのじゃ。そう簡単に決められるか」

 

「さっきまで小僧って呼んでたのに?」

 

「それとこれとは別じゃ!」

 

 少年は少しだけ笑った。

 

 まだ名前はない。それでも、失ったものをこれから作り直せるというレイヴェルの言葉は、空っぽだった胸の中へ小さな灯を残していた。

 

「さて、名を考えるにしても、まずはこの中へ入らねば始まらぬ」

 

 レイヴェルは話を切り替えるように扉へ向き直った。

 

「先ほど一瞬だけ表示が出た。どこかに動力が残っておるはずじゃ」

 

 レイヴェルは扉へ近づき、壁の内側を覗き込むように目を凝らした。

 

「僅かじゃが、魔力が流れておる。完全に死んでいるわけではなさそうじゃ」

 

「でも、名前も登録番号も入力できないぞ」

 

「正規の認証が使えぬなら、止まっている機構を直接動かすまでよ」

 

 レイヴェルは操作盤から扉へ続く配線を指でなぞるように示した。

 

「幸い、おぬしの中には我の魔力がある。ほんの僅かでも流し込めれば、非常用の開閉機構を呼び起こせるかもしれぬ」

 

「どうすればいい?」

 

「我の力を使え」

 

「どうやって?」

 

「胸の内側へ意識を向けよ。そこに銀色の熱があるはずじゃ」

 

 少年は目を閉じた。

 

 身体の奥深く。心臓とは異なる場所で、何かがゆっくりと脈打っている。

 

 温かく、それでいて触れれば凍りつきそうな、不思議な力。

 

「……あった」

 

「それが我の魔力じゃ。掴み取るように意識し、腕を通して掌へ流せ」

 

 言われたとおり、銀色の熱へ意識を集中させる。

 

 ほんの一部を引き出し、右腕へ押し流した。

 

「うわっ!」

 

 指先から銀色の光が弾けた。

 

 光は操作盤へ吸い込まれ、そこから壁の中を一気に駆け巡る。奥深くで機械が唸り、閉ざされていた扉が激しく震え始めた。

 

「おお、成功じゃ!」

 

「本当に成功なのか!?」

 

「開けば成功、壊れれば失敗じゃ」

 

「先に言え!」

 

 けたたましい音を立てながら、巨大な扉が左右へ開いていく。

 

 幸い、崩壊することはなかった。

 

 扉の先には暗い通路が続いている。研究所ほど破壊されてはいないが、照明も空調も停止しているらしく、流れ出してきた空気は氷のように冷たかった。

 

 少年が一歩踏み込む。

 

 その足元で、床の誘導灯が弱々しく点灯した。

 

 淡い緑色の光が、侵入者を導くように施設の奥へ向かって一つずつ灯っていく。

 

「歓迎されておるようじゃな」

 

「罠じゃないだろうな」

 

「その時は走れ」

 

「お前、本当にそればかりだな」

 

「生き延びるための基本じゃぞ」

 

「銀覇王(ぎんはおう)らしい立派な策はないのか?」

 

「危なくなったら吹き飛ばせばよい」

 

「俺、扉を開けただけでこの有様なんだけど」

 

「……その時は、やはり走れ」

 

「だと思ったよ」

 

 少年は警戒しながら、緑色の光を追った。

 


 

 通路の先は、広い管理室になっていた。

 

 壁一面に無数の端末が並び、中央には半球状の制御装置が置かれている。ほとんどの画面は割れ、配線も焼け落ちていた。

 

 だが、一台だけ緑色の光を明滅させている。

 

 少年が近づいた瞬間、機械音声が響いた。

 

『生体反応を確認』

 

「っ!」

 

 少年は反射的に身構えた。

 

『管理者権限——該当なし。未登録生体として識別。非常用起動処理を継続します』

 

「勝手に始まったぞ」

 

「長く眠っておった機械とは、せっかちなものじゃ」

 

 端末から緑色の光が噴き出した。

 

 光は空中へ集まり、小さな球体を形作る。やがて球体は花の蕾のように開き、その中心から何かが勢いよく飛び出した。

 

「痛っ!」

 

『いたぁっ!?』

 

 二つの声が同時に響いた。

 

 少年の額へ真正面から衝突した何かが、床へ落ちる寸前に四枚の翼を広げ、ふらふらと宙へ浮かび上がる。

 

 手のひらほどの小さな女性だった。

 

 全高は十五センチほど。ミントグリーンの髪を高い位置で二つに結び、髪の一部は細く編み込まれている。

 

 白いハイネックの上着の下には、身体へ密着した黒い衣装。首元には淡く輝く魔石のコアがあり、背中から直接伸びた四枚の細長い電子翼が、下向きに光の粒子をこぼしていた。

 

『ちょっと!』

 

 小さな女性は額を押さえながら、少年を睨みつける。

 

『起動したばかりの電子精霊(でんしせいれい)に頭突きするなんて、どういうつもりですか!』

 

「そっちから飛び出してきたんだろ」

 

『わたしの完璧な射出軌道上に、あなたの額があったんです!』

 

「それをぶつかったって言うんだ」

 

『違います! 予測不能な障害物との接触です!』

 

「人の額を障害物扱いするな!」

 

 小さな女性は腰へ手を当て、頬を膨らませた。

 

 しかし、レイヴェルの姿を認識した途端、その瞳に細かな文字列が流れ始める。

 

『未登録高密度霊体を検出。霊体の本体反応は、そちらの生体内部……?』

 

 四枚の電子翼が細かく震えた。

 

『体内の魔力と外部へ投影された魂が接続されています。なんですか、この無茶苦茶な状態は!』

 

「我にも分からぬ。調べよ」

 

『初対面で命令ですか!?』

 

「我は王じゃからな」

 

『この施設の規則に、王だから命令してよいとは記録されていません!』

 

「長いこと眠っておった機械が、細かいことを言うでない」

 

『機械ではありません! わたしは——』

 

 言い返しかけた小さな女性の動きが止まった。

 

『……長いこと?』

 

 電子翼から無数の光の糸が伸び、周囲の端末へ接続される。

 

 止まっていた画面が次々と明滅し、膨大な文字列が流れ始めた。

 

『内部時計を補正。外部観測記録と照合……』

 

 小さな女性の表情から、先ほどまでの怒りが消えていく。

 

『正規管理網の切断から、およそ七百年が経過しています』

 

 管理室へ沈黙が落ちた。

 

「七百年……?」

 

 少年は、意味を確かめるように数字を繰り返した。

 

『施設内時計および残存する外部観測記録の双方で確認。長期間の停止による誤差はありますが、数百年単位のずれはありません』

 

 小さな女性の瞳が小刻みに揺れる。

 

『当施設は正規管理網が切断された後、独立予備動力へ移行。管理者不在のまま、緊急管理体制を数年間継続しています』

 

 空中に新たな記録が展開された。

 

 職員の消失。外部からの補給停止。研究所を含む周辺施設との通信途絶。

 

 その後も小さな電子精霊は、誰もいなくなった格納施設で一人、設備の維持と救難信号の送信を続けていた。

 

『しかし、主動力の復旧には至らず、予備動力も維持限界へ到達。重要設備を休眠状態へ移し、緊急記録と管理権限を保全した後、およそ六百九十年前にわたし自身の魔石コアを停止しています』

 

「ということは……」

 

『休眠期間は、およそ六百九十年です』

 

 六百九十年間。

 

 それほどの時間を、目の前の電子精霊は誰にも起こされることなく眠り続けていた。

 

「なら、どうして今になって目を覚ました?」

 

『外部から供給された高密度魔力によって、非常用起動回路が一時的に復旧したためです』

 

 電子精霊の視線が、少年の右手へ向けられる。

 

『扉を開く際に、あなたが流し込んだ銀色の魔力。それが停止していた設備へ伝わり、わたしの魔石コアまで到達しました』

 

「では、この小僧が来なければ、おぬしは眠ったままであったのか」

 

『その可能性が高いです。それ以前に、こちらの生体を認識した記録はありません』

 

 電子精霊は少年を改めて見つめ、瞳の中へ細かな文字列を走らせた。

 

『当施設の職員名簿、管理対象者一覧、入退場記録のいずれにも該当なし。わたしは、あなたを知りません』

 

「俺も、あんたのことは知らない」

 

『そのようですね』

 

 きっぱりと言い切られた言葉に、少年は胸の奥が僅かに沈むのを感じた。

 

 この施設へ来れば、自分について何か分かるかもしれない。そう期待していたのだと、失ってから初めて気づいた。

 

 電子精霊は次に、レイヴェルへ視線を向けた。

 

『あなたについても、施設の管理記録に該当情報はありません』

 

「当然じゃ。我があの研究所へ迷い込んだのは、おぬしが眠りについてから九十年ほど後。今からおよそ六百年前のことになる」

 

『つまり、わたしの休眠中に侵入し、魔封じの杖へ封じられたと?』

 

「侵入とは人聞きが悪い! 少々道を間違えただけじゃ!」

 

『世界と次元の狭間まで道を間違える存在は、通常想定されていません』

 

「やかましい!」

 

 電子精霊はレイヴェルの抗議を無視し、施設の状態確認を続けた。

 

『現在、職員の生体反応はありません。主要機能の七十二パーセントが停止。研究所との正規管理網も、およそ七百年前に切断されたままです』

 

「おぬしは、ここの管理装置か?」

 

『失礼ですね。単なる管理装置ではありません』

 

 小さな女性は空中で姿勢を正した。

 

『独立型電子精霊、識別名フィーネです。施設管理、機械制御、情報解析および電子戦支援を担当します』

 

「フィーネか」

 

『職員不在につき、現在より当施設の管理を代行します』

 

 フィーネは少年の正面へ飛んできた。

 

『そちらの生体の登録名は?』

 

 少年は答えられなかった。

 

「……分からない」

 

『聞き取れませんでした。登録名を再入力してください』

 

「自分の名前を覚えてないんだ」

 

『名称情報なし。職員名簿、管理対象者一覧、入退場記録との照合を開始……該当なし』

 

 フィーネの瞳に文字列が流れる。

 

『正式管理者も確認できません。緊急管理規定に基づき、当該生体を暫定管理者として仮登録します。ただし、識別名が必要です』

 

「識別番号で登録すればよいではないか」

 

『長期的な管理を想定する場合、固有の識別名が推奨されます』

 

「ならば、ちょうどよい」

 

 レイヴェルが少年の前へ進み出た。

 

「先ほどの約束を果たすとしよう」

 

「もう考えたのか?」

 

「当然じゃ。我を誰だと思っておる」

 

 レイヴェルは腕を組み、もったいぶるように目を閉じた。

 

「そうじゃな……銀一号」

 

「却下」

 

「まだ最後まで言っておらぬ!」

 

「絶対ろくな名前じゃない」

 

「ならば器丸」

 

「もっと嫌だ」

 

『どちらも固有識別名としての使用は可能です』

 

「フィーネは黙ってて!」

 

『なぜですか!?』

 

「注文の多い器じゃのう……」

 

「名前をつける気、本当にあるのか?」

 

「失礼な! 我は大真面目じゃ!」

 

「真面目に考えてそれなのか……」

 

 少年に呆れた目を向けられ、レイヴェルは不満そうに口を尖らせた。

 

 だが、すぐに表情を改める。

 

 その視線が、少年の胸元へ向けられた。

 

 少年の内側には、レイヴェルから流れ込んだ銀色の魔力が眠っている。

 

 何もなかった空の器が、初めて受け入れたもの。

 

 それは力だけではない。

 

 二つの魂を結びつけ、少年が新たな生を歩き始めた証でもあった。

 

「——レイジ」

 

 レイヴェルが静かに告げた。

 

「レイジ……?」

 

「零より始まり、己の意志で道を示す者。レイジじゃ」

 

 少年は、その響きを確かめるように繰り返した。

 

「レイジ……」

 

 聞き覚えはない。忘れていた記憶が蘇ったわけでもない。

 

 それでも、その名は不思議なほど胸へ馴染んだ。

 

 過去はない。記憶もない。自分が本当に人間なのかさえ分からない。

 

 それでも、空っぽだった自分の中へ、初(・)め(・)て(・)確(・)か(・)な(・)も(・)の(・)が生まれた。

 

「悪くない」

 

「であろう!」

 

 レイヴェルは待っていたとばかりに胸を張った。

 

「もっと敬ってもよいぞ。我はおぬしの名付け親じゃからな!」

 

「調子に乗るな」

 

「早くも反抗期か!?」

 

「臣下になった覚えもないからな」

 

「我から名を授かった者は、皆、我の臣下となる決まりじゃ!」

 

「今作っただろ、その決まり」

 

「細かいことを気にするでない!」

 

 少年——レイジは、小さく笑った。

 

 自分を呼ぶ名前がある。

 

 ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。

 

「ありがとう、レイヴェル」

 

 不意に礼を告げられ、レイヴェルの動きが止まる。

 

「……礼などいらぬ」

 

 彼女はレイジから顔を背けた。白銀の髪の隙間から見える長い耳が、僅かに赤くなっている。

 

「照れてる?」

 

「照れておらぬ!」

 

「耳が赤いぞ」

 

「これは魔力の影響じゃ!」

 

「霊体なのに?」

 

「フィーネ、登録を続けよ!」

 

『はい。識別名をレイジへ更新。仮登録を開始します』

 

 端末の画面に文字が刻まれる。

 

 ——REIJI。

 

 ただの文字列にすぎない。

 

 それでもレイジは、しばらく画面から目を離せなかった。

 

 自分の名前が、世界へ初めて刻まれた。

 

 それは、自分が確かにここに存在しているという証のように思えた。

 

『暫定管理者レイジの仮登録を完了しました。以後、あなたをマスターと呼称します』

 

 フィーネは空中で姿勢を正し、改めてレイジへ向き直った。

 

『それで、マスター。あなた方の目的は?』

 

「ここから出て、人の住む世界へ行きたい」

 

『外部世界への移動手段を検索します』

 

 フィーネが両手を広げる。

 

 管理室の中央に光が集まり、施設全体の立体図を作り出した。

 

 長い通路。複数の整備区画。閉鎖された倉庫。そして最深部には、巨大な格納庫が表示されている。

 

『一件、使用できる可能性のある設備を確認しました。ただし、記録上は大破判定です』

 

「案内せよ」

 

『あなたに命令権はありません!』

 

「では、お願いじゃ。案内してたもれ」

 

『最初からそう言ってください!』

 

「面倒な精霊じゃのう」

 

『命令ばかりする霊体よりましです!』

 

 出会ったばかりだというのに、レイヴェルとフィーネは早くも睨み合っている。

 

 レイジは二人を見比べ、小さく息を吐いた。

 

「先が思いやられる……」

 


 

 フィーネに導かれ、三人は施設の奥へ進んだ。

 

 閉ざされた隔壁の前では、フィーネが光球へ姿を変え、操作盤の内部へ入り込んだ。しばらくすると残存動力が呼び起こされ、重い扉が一枚ずつ開いていく。

 

『この先が最深部です』

 

 最後の隔壁が重い音を立てて開いた。

 

 その先に広がっていたのは、研究所の何倍もある巨大な格納庫だった。

 

 天井は暗闇へ溶け、反対側の壁さえ見えない。無数の整備台や作業機械が、長い眠りについたまま並んでいる。

 

 そして、格納庫の中央には一隻の船が横たわっていた。

 

 細長い船体。折れた左右の翼。砕け、ひび割れた装甲。

 

 艦首は大きく潰れ、船体側面には巨大な爪で抉られたような傷が何本も刻まれている。

 

「これが、移動手段なのか?」

 

『多次元観測・航行試験艦です』

 

 人型へ戻ったフィーネは、船体を見上げた。

 

『世界と世界の間を移動し、異なる次元を観測するために建造されました』

 

「これなら、人のいる世界へ行ける?」

 

『正常に動けば、理論上は可能です』

 

「正常には見えないぞ」

 

『ですから、大破判定だと言いました』

 

 フィーネは腰へ手を当てる。

 

『主機関停止。左右の次元翼は大破。座標演算装置は半壊。船体各部の制御回路も断線しています』

 

「つまり、動かない?」

 

『現在は』

 

「直せるのか?」

 

 レイジの問いに、フィーネは一瞬だけ目を丸くした。

 

 直後、得意げに胸を張る。

 

『誰に聞いているんですか、マスター?』

 

 四枚の電子翼が強く輝いた。

 

『この施設と艦の管理を任されていた電子精霊ですよ。使用できる設備と資材が残っていれば、修理できます』

 

「どれほどかかる?」

 

『現時点では算出不能です。施設の状態を確認する必要があります。それに、元の設計どおりへ戻すだけでは不十分です』

 

「どういう意味だ?」

 

『周辺の次元環境が、建造当時から大きく変化しています。修理と同時に、現在の環境へ適応させる改造が必要です』

 

「よし、決まりじゃな!」

 

 レイヴェルが大破した艦の上へ移動し、堂々と腕を組む。

 

「我らの新たな城として、立派に蘇らせよ!」

 

『ですから、あなたに命令権はありません!』

 

「細かいことを気にするでない!」

 

『細かくありません!』

 

 二人の声が、長く無人だった格納庫に響き渡った。

 

 こうして、次元航行艦を蘇らせるための作業が始まった。

 


 

 最初に必要だったのは、壊れた艦へ直接手を加えることではなかった。

 

 格納庫に眠る自動整備設備を、再び動かすことだった。

 

 フィーネが中央制御台へ接続すると、格納庫の立体図が空中へ展開された。壁面には大型作業腕が三十二基、天井には修理用の小型機械群、床下には部品を運ぶ自走式搬送台が格納されている。

 

 本来なら、艦の損傷を読み取るだけで解体から組み立てまで自動で行う施設だった。

 

 しかし、約七百年に及ぶ停止で、その大半が沈黙している。

 

『自動修復機能を再起動できれば、船体の組み立ては施設側で行えます』

 

「俺たちが全部直すんじゃないのか?」

 

『マスターに艦を手作業で修理する知識があるのですか?』

 

「……ない」

 

『では、機械へ任せてください』

 

「ずいぶん自信満々じゃな」

 

『この施設を管理していたのは、わたしですから』

 

 ただし、設備を目覚めさせるための動力が足りなかった。

 

 フィーネは光球となって制御回路へ入り込み、断線箇所を迂回する仮設経路を構築する。レイジは彼女の指示に従い、中央制御台の魔力供給端子へ両手を置いた。

 

『マスター。先ほど扉を開けた時と同じ要領で、ゆっくり流してください』

 

「ゆっくりって、どれくらい?」

 

『整備設備を壊さない程度です』

 

「一番分かりにくい説明だな!」

 

『細かい調整はこちらで行います。始めてください!』

 

 レイジは胸の奥にある銀色の熱へ意識を向け、その一部を腕へ流した。

 

 制御台が銀色に輝く。

 

 次の瞬間、格納庫の各所で次々と灯りが点った。

 

 天井の格納扉が開き、蜘蛛にも似た小型整備機械が無数に降下する。床からは太い作業腕がせり上がり、自走式搬送台が長い眠りから目覚めたように動き始めた。

 

「おお……!」

 

 大型作業腕が大破した艦を持ち上げる。小型機械群が船体表面を走り、青白い光で損傷箇所を読み取っていった。

 

『船体走査開始。修復工程を自動算出します』

 

 空中へ表示された艦の立体図から、損傷した部分が赤く染まっていく。

 

 やがて艦首、左右の次元翼、主機関、座標演算装置へ修復不能の表示が並んだ。

 

「赤ばかりじゃな」

 

『想定の範囲内です』

 

「本当か?」

 

『……概ね』

 

「今、間があったぞ」

 

 それでもフィーネは、施設に残る試験機や予備部品を調べ、使用可能なものを組み合わせた修復案を組み上げていった。

 

 レイヴェルも、古い魔導機関や術式に関する知識を提供した。

 

『その術式規格は、千五百年以上前に廃止されています!』

 

「優れたものは、古くとも使える!」

 

『出力に対する損失が大きすぎます!』

 

「ならば、おぬしの技術で補えばよかろう!」

 

『簡単に言わないでください!』

 

「二人とも、修復案が進まない」

 

 二人を止めることも、いつしかレイジの役目になっていた。

 

 世界と次元の狭間には、朝も夜も存在しない。

 

 三人は復旧した端末の時計を頼りに、作業と休息を繰り返した。

 

 格納庫の一角へ簡素な寝床を作り、長期保存庫に残されていた水と食料を集める。通常の保存食は朽ち果てていたが、約六百九十年前にフィーネが休眠へ移る直前、魔力障壁で封鎖した非常用区画には、まだ口にできるものが僅かに残されていた。

 

 自動整備設備が動き始めてからは、昼夜を問わず船の復旧が進んだ。

 

 大型作業腕が潰れた艦首を切り離し、小型機械群が別の試験機から回収した装甲を加工する。折れた次元翼には左右で異なる部品が組み込まれ、主機関には新たな制御部が必要と判定された。

 

 半壊した座標演算装置には、フィーネ自身の処理能力を接続するための回路が追加されていく。

 

『これで、わたしが艦の演算と制御を補助できます』

 

「おぬしが船そのものになるのか?」

 

『船そのものではありません! あくまで演算と制御の補助です!』

 

「つまり船ではないか」

 

『違います!』

 

「船でもいいだろ。飛べれば」

 

『よくありません! わたしはフィーネです!』

 

「分かった、分かった」

 

『絶対に分かっていません!』

 

 施設が組み立てを続ける一方で、レイジにも仕事があった。

 

 設備を動かすための魔力を定期的に供給し、自動搬送機が入れない崩落区画から資材を運び出す。そして、格納施設内に存在しない部品は、元の研究所から回収しなければならなかった。

 

 研究所との正規管理網は切断されていたが、復旧作業の途中で非常用の残存回線が一本だけ見つかった。フィーネはその回線を一時的に再接続し、僅かに生きていた監視装置から映像を取得する。

 

『北通路に一体。地下搬入口付近に二体。西側は監視網が停止しているため、状況を確認できません』

 

「確認できた範囲だけで三体か……」

 

『はい。それ以上いる可能性もあります』

 

「少しくらい安心させる言い方はないのか?」

 

『事実を隠して襲われるよりは安全です、マスター』

 

「それはそうだけど……」

 

 レイジは物音を立てないよう研究所へ入り、指定された魔力炉の制御部を回収した。

 

 監視網には死角が多い。

 

 曲がり角の向こうから怪物の荒い息遣いが聞こえたこともある。そのたびに崩れた部屋へ身を隠し、床を引きずる爪の音が遠ざかるまで息を殺した。

 

 今のレイジには、まだ戦う力がない。

 

 身体の中にはレイヴェルの膨大な魔力が眠っている。しかし、整備設備へ一定量の力を流すだけでも、少し集中を乱せば銀色の光が掌から四方へ飛び散ってしまう。

 

「焦るな」

 

 怪物をやり過ごし、格納施設へ戻る途中でレイヴェルが言った。

 

「でも、俺には力があるんだろ?」

 

「ある。だからこそ、焦って使えば死ぬ」

 

 レイヴェルは珍しく真剣な顔をしていた。

 

「力とは、持っているだけでは意味がない。それを扱う技と、耐える身体が必要じゃ。どれほど強大な魔力を宿していようと、器が砕ければそれで終わりよ」

 

「なら、どうすればいい?」

 

「鍛えるのじゃ。身体も、心も、魔力の扱いもな」

 

 レイヴェルは尊大な笑みを浮かべた。

 

「ここを出たら、我が直々に教えてやろう」

 

「優しく頼む」

 

「安心せい。死ぬ一歩手前で止めてやる」

 

「全然安心できない」

 

「何事も限界を知ることから始まるのじゃ」

 

「加減を知らないだけじゃないのか?」

 

「失礼な。二、三度死にかければ身体で覚える」

 

「俺はもう一度死んでるんだぞ」

 

「ならば二度目は慣れておろう」

 

「慣れるわけないだろ!」

 

 それでも、レイジの胸にあった焦りは少しだけ軽くなった。

 

 回収した制御部が主機関へ組み込まれると、復旧作業は一気に加速した。

 

 切断、加工、接合、術式の再構築。

 

 無数の機械がフィーネの指揮に従い、休むことなく船を造り替えていく。

 

 静まり返っていた格納庫には、作業機械の駆動音と三人の声が絶えず響くようになった。

 

 そして、復旧作業を始めてから十四日目。

 

 継ぎ接ぎだらけながら、次元航行艦は再び飛び立てる姿を取り戻していた。

 

 そして、ついにその時が訪れた。

 


 

『全系統、最終確認完了』

 

 格納庫の中央で、次元航行艦が淡い緑色の光を放っていた。

 

 完全に元どおりになったわけではない。

 

 継ぎ接ぎだらけの装甲。左右で形の異なる次元翼。本来の設計には存在しなかった追加装置。

 

 かつての姿を知る者が見れば、同じ船だとは思わないかもしれない。

 

 それでも、船は確かに息を吹き返していた。

 

『主機関、正常。次元障壁、展開可能。座標演算装置、誤差許容範囲内』

 

 フィーネはレイジの前まで飛んでくると、誇らしげに胸を張った。

 

『修理および次元環境への適応改造——完了です!』

 

「おお! さすが我が家臣じゃ!」

 

『誰が家臣ですか!』

 

「よくやった、フィーネ」

 

 レイジが告げると、フィーネは一瞬だけ目を丸くした。

 

『……当然です。わたしは優秀ですから』

 

 そっぽを向いて答えたが、その口元は僅かに緩んでいる。

 

 三人は次元航行艦へ乗り込んだ。

 

 艦橋の中央席へレイジが腰を下ろす。レイヴェルはその隣で宙に浮かび、フィーネは正面の制御台へ降り立った。

 

 壊れていたはずの画面に、次々と光が灯っていく。

 

『目的座標は、定期補給船に残された航行記録から逆算します』

 

「行き先は分かるのか?」

 

『補給船が帰還していた世界までは特定できます。ただし、最後の記録はおよそ七百年前のものです』

 

 空中に、細かな光で構成された座標図が浮かび上がった。

 

『狭間の大規模な変動により、記録された座標もずれています。当時と同じ地点へ到着できる保証はありません』

 

「人が住んでいた世界なんだな?」

 

『少なくとも、最後の記録が残された時点では』

 

「その世界へ辿り着けるなら、それでいい」

 

 目的地が記録の時代から大きく変わっていたとしても。

 

 レイジの過去を知る手がかりが、何も残されていなかったとしても。

 

 まずは、この場所から出なければ何も始まらない。

 

『了解しました』

 

 格納庫の巨大な扉が開く。

 

 その向こうには、世界と次元の狭間が広がっていた。

 

 青、赤、紫。無数の光が暗闇を流れ、遠方には巨大な鳥籠が変わらぬ姿で浮かんでいる。

 

 レイジは暗い檻を見つめた。

 

 結局、あれが何なのかは分からないままだった。

 

 中に何が存在するのか。なぜ、あれほど厳重な封印が施されているのか。

 

 今の三人には、確かめる手段も、近づくだけの力もない。

 

 レイジは鳥籠から目を逸らし、艦の前方へ向き直った。

 

「今は、ここを出よう」

 

「うむ。外の世界へ出たら、まずはおぬしが己の力を扱えるようにならねばな」

 

「お前が力の使い方を教えてくれるんだろ?」

 

「もちろんじゃ。泣いて許しを請うほど、厳しく鍛えてやろう!」

 

「やっぱり加減を知らなそうだな」

 

『お二人とも、出航前に喧嘩しないでください!』

 

 フィーネの声とともに、主機関が低い唸りを上げる。

 

 緑と銀の光が船体を包んだ。

 

『次元障壁、展開』

 

 艦の前方で空間が歪み始める。

 

 歪みは巨大な渦となり、その中心に青白い光が生まれた。

 

『次元航路を固定。進路——補給船の帰還座標』

 

 レイジは座席の肘掛けを強く握った。

 

 記憶を失い、名前すら持たずに目覚めた研究所。

 

 自分の内側へ宿った、銀覇王レイヴェル。

 

 格納施設の孤立後も数年間役目を守り、およそ六百九十年の眠りから目覚めた電子精霊フィーネ。

 

 この先に何が待っているのかは分からない。自分の過去が見つかる保証もない。

 

 それでも、もう一人ではなかった。

 

 胸の中にはレイヴェルの銀の魔力があり、そばにはフィーネがいる。

 

 そして今の自分には、二人から呼んでもらえる名前がある。

 

「行こう」

 

『次元航行艦、発進します!』

 

 艦がゆっくりと浮上した。

 

 主機関の光が強まり、格納庫全体を激しく震わせる。

 

「我らの新たな旅立ちじゃ!」

 

『まだ試験航行です! 安全が確認できるまで席を立たないでください!』

 

「我に指図するでない!」

 

「二人とも、こんな時まで喧嘩するな!」

 

 レイジの声を置き去りにして、艦が一気に加速する。

 

 船体は緑と銀の光の尾を引き、青白い渦の中へ飛び込んだ。

 

 眩い光が艦橋を埋め尽くし、重力が消えたような感覚がレイジを襲う。

 

 そして、次の瞬間。

 

 次元航行艦は、世界と次元の狭間から姿を消した。

 

 その背後で、無人となった格納施設の扉が静かに閉じていく。

 

 長い年月を経て再び灯った施設の光も、一つ、また一つと消えていった。

 

 再び静寂が戻る。

 

 そして——誰にも気づかれぬまま。

 

 巨大な鳥籠を縛る鎖の一本に、細い亀裂が走った。

 

 ——ギィィン。

 

 重い金属音が、世界と次元の狭間へ響き渡る。

 

 亀裂はゆっくりと広がり、鎖の表面に刻まれていた術式の一部が砕け散った。

 

 鳥籠の奥深く。

 

 光さえ届かない暗闇の中から、何かが鎖へ激しくぶつかる。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 巨大な鳥籠全体が、低く震えた。

 

 だが、その異変に気づく者は、もう誰もいない。

 

 名を得た少年は、新たな仲間たちとともに、すでに別の世界へ旅立っていた。

 

 少年の名は、レイジ。

 

 零より始まり、己の意志で道を示す者。

 

 それは、空の器へ初めて与えられた贈り物だった。

 




第3話で初登場のキャラの設定画像です。

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