崩壊世界のRe:ワールド~器と銀と黒の物語~ 作:クロネコアラ
——世界の壁を、越える。
その瞬間、次元航行艦を包んでいた青白い光が激しく歪んだ。
『次元航路に乱れを検出! 予測値を上回る空間圧です!』
フィーネの声と同時に、艦橋を凄まじい衝撃が襲った。
「うわっ!?」
座席から投げ出されかけたレイジは、両手で肘掛けへしがみついた。
警告音が鳴り響き、艦橋の照明が白から赤へ切り替わる。壁面の継ぎ目から火花が散り、天井の一部が弾け飛んだ。
『次元障壁、出力低下! 右舷次元翼に亀裂!』
「亀裂って、直したところか!?」
『直したから今まで耐えられたのです!』
「それ、安心していい話か!?」
『安心できる要素はありません!』
「言い切った!?」
制御台の上を飛び回りながら、フィーネは次々と表示を切り替えていく。
出航前に行った模擬演算では、次元境界を突破できるはずだった。
だが、実際の境界は、施設に残されていた七百年前の記録よりも遥かに不安定だった。渦巻く次元流が船体を四方から押し潰し、継ぎ接ぎの装甲を軋ませている。
「フィーネ、航路を維持できるのか!?」
『維持します! ここで航路を外れれば、どの世界へ流されるか分かりません!』
「なら、我の魔力を使え!」
レイヴェルがレイジの隣で声を上げた。
揺れに翻弄される二人とは異なり、霊体である彼女は宙に浮いたままだ。ただし、その表情から普段の余裕は消えている。
『すでにマスターの体内魔力を補助動力として使用しています!』
「何?」
「俺、何もしてないぞ!」
『わたしが出力を調整しています! 今のマスターが直接流したら、航路より先に主機関が吹き飛びます!』
「信用がない!」
「妥当な判断じゃ!」
「レイヴェルまで!?」
再び船体が大きく跳ね上がった。
正面の窓を満たしていた青白い渦が、一瞬だけ途切れる。
その先に、黒い亀裂が見えた。
『出口を確認!』
「あそこを抜ければいいのか?」
『はい! ただし、現在の速度では境界接触時の負荷に船体が耐えられません!』
「減速はできぬのか!?」
『推進出力を落とせば、次元流に呑まれます!』
「どうするんだよ!」
『このまま突破します!』
「やっぱり力ずくか!」
『ほかに選択肢がありません! マスター、衝撃に備えてください!』
フィーネの四枚の電子翼が強く輝く。
次元障壁へ、銀色の光が重なった。
艦が加速する。
迫る亀裂。
船体を押し潰そうとする、世界と世界の境界。
レイジは座席へ身体を押しつけ、歯を食いしばった。
『境界まで、三——二——一!』
視界が、真っ白に染まった。
音が消えた。
船体の振動も、警告音も、何も聞こえない。
自分が座席にいるのか、宙へ投げ出されたのかさえ分からなかった。
ほんの一瞬だったはずなのに、ひどく長い時間が過ぎたように感じる。
やがて、白一色だった視界へ色が戻った。
「…………」
レイジは目を見開いた。
正面の窓から、光が差し込んでいる。
青い空。
白い雲。
窓の下には、どこまでも続く深い緑。
山々が連なり、その谷間を細い川が流れている。風に煽られた鳥の群れが、慌てたように森から飛び立っていった。
上下も距離も曖昧だった世界の狭間とは違う。
ここには、空がある。
大地がある。
「……出られた」
掠れた声が漏れた。
「本当に……狭間の外へ出られたんだ」
「うむ」
隣に浮かぶレイヴェルも、窓の外を見つめていた。
「どこの世界かは分からぬが、少なくとも、あの狭間よりは生き物に優しそうじゃな」
「フィーネ。座標は合ってるのか?」
『確認中です』
フィーネの瞳に、細かな文字列が流れる。
『次元座標の誤差は許容範囲内。補給船の帰還先として記録されていた世界で間違いありません』
「じゃあ、ここに人がいるんだな?」
『七百年前には存在していました』
「今は?」
『現時点では不明です』
「七百年もあれば、国の一つや二つは滅びておるかもしれぬのう」
「縁起でもないことを言うなよ」
「事実であろう?」
それでも、レイジの胸は高鳴っていた。
この世界が、自分の生まれた世界なのかは分からない。
記憶に残る青空と、今見えている空が同じものなのかも分からない。
だが、人のいた世界へ辿り着いた。
ここなら、自分が何者なのかを知る手がかりが見つかるかもしれない。
そう思った直後だった。
『警告。第三推進器、停止』
「……え?」
『右舷次元翼、完全破断。次元障壁発生装置も機能を停止しました』
フィーネの報告と同時に、艦が大きく右へ傾いた。
「うわっ!」
レイジの身体が座席から浮き上がる。
窓の向こうで、青空と森が激しく回転した。
「フィーネ! 何が起きた!?」
『境界突破時に蓄積した損傷が、一斉に表面化しています!』
「修理したばかりじゃろう!」
『修理しても、七百年を経た船体素材そのものの劣化までは完全に戻せません! さらに実際の空間圧は、演算値の二・七倍でした!』
「つまり?」
『墜落します!』
「やっぱりそうなるのかよ!」
嫌な予感はしていた。
二週間かけて修復したとはいえ、この艦は、異なる試験機の部品を組み合わせて蘇らせたものだ。
次元境界を越えるという最大の役目は果たした。
しかし、その代償として、船は飛ぶための力を失おうとしていた。
『前方に山岳地帯! このままでは山腹へ衝突します!』
「回避できないのか!?」
『左舷推進器の出力を上げます!』
艦が再び傾く。
右側の窓いっぱいに山肌が迫った。
『姿勢制御、応答なし!』
「ほかの推進器は!?」
『第一推進器、停止! 第二推進器、出力低下!』
「何なら動いておるのじゃ!」
『わたしは動いています!』
「船の話をしてるんだよ!」
窓の外で木々の梢が急速に近づいてくる。
『衝突まで十五秒!』
「十五秒でどうしろっていうんだ!?」
『マスター、座席の固定具を!』
レイジは慌てて胸元の固定具を引いた。
だが、途中で引っかかり、動かない。
「壊れてる!」
『手動補助を起動します!』
制御台から伸びた帯がレイジの身体を座席へ固定した。
「レイヴェルは!?」
「我は霊体じゃ! 壁へぶつかっても抜けるだけよ!」
「ちょっと羨ましい!」
「羨むところではなかろう!」
『衝突まで五秒!』
レイジは両腕で頭を庇った。
『四——三——』
船体が森へ突っ込む。
太い枝が窓を叩き、大木が次々とへし折られていく。
『二——』
艦底が山肌へ接触した。
金属が引き裂かれる音。
船体が地面を抉り、土砂と岩を巻き上げながら滑っていく。
『一——!』
正面に巨大な岩壁が迫った。
直後。
世界が、ひっくり返った。
「…………」
静かだった。
どこかで小さく火花が弾ける音と、天井から破片が落ちる音だけが聞こえる。
「……生きてる?」
レイジは恐る恐る目を開けた。
座席は大きく傾き、艦橋の床には砕けた機材が散乱している。正面の窓は蜘蛛の巣状にひび割れ、その向こうには岩と土しか見えなかった。
「少なくとも、死んではおらぬようじゃな」
「それを生きてるって言うんだよ……」
固定具を外そうとするが、衝撃で金具が歪んでいる。
何度か引っ張ると、突然外れた。
「うわっ!」
傾いた床へ転がり落ち、肩を強く打つ。
「痛っ……」
「元気そうで何よりじゃ」
「どこを見てそう思った?」
レイジは肩を押さえながら身体を起こした。
全身が痛む。
それでも、骨が折れている様子はない。座席の固定具と、衝突直前まで残っていた船体の防護機能が守ってくれたらしい。
「フィーネ?」
返事がない。
「フィーネ!」
『……応答しています』
弱々しい声とともに、倒れた制御台の隙間から淡い光が漏れた。
光は宙へ集まり、手のひらほどのフィーネの姿を形作る。いつもは鮮明な輪郭が、今は何度も明滅していた。
その首元では、淡い緑色の魔石が弱々しく光っている。
「大丈夫なのか?」
『艦内制御との接続を切り離しました』
フィーネは首元の魔石へ手を添えた。
『わたしの本体は、この魔石コアです。艦とは制御のために一時接続していただけですから、自律活動に支障はありません』
「全然そうは見えないけど」
『投影出力が一時的に低下しているだけです』
そう答えると、フィーネの輪郭が安定した。
『それよりも、マスターの負傷を確認します』
電子翼から淡い光が伸び、レイジの身体を上から下まで走査する。
『打撲および軽度の擦過傷。生命活動に支障はありません』
「よかった……」
「船の方はどうじゃ?」
レイヴェルの問いに、フィーネは沈黙した。
「フィーネ?」
『主機関停止。全推進器、応答なし。船体中央部および艦底部が大破しています』
「……飛べる?」
『飛べません』
今度は、迷いのない即答だった。
「直せるのか?」
『この場では不可能です。格納施設級の修復設備と、大量の交換部材が必要です』
「そうか……」
レイジは壊れた艦橋を見回した。
二週間。
レイヴェルと口喧嘩をし、フィーネの指示で魔力を流し、怪物のいる研究所から部品を運んだ。
ようやく飛べるようになった船は、一度の航行で役目を終えた。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「そんな顔をするでない」
レイヴェルが言った。
「こやつは我らを、世界の狭間からここまで運んだ。十分すぎるほど役目を果たしたであろう」
「……そうだな」
帰る場所を失ったのではない。
進むべき場所へ、送り届けてもらったのだ。
レイジは壊れた制御台へ、そっと手を置いた。
「ありがとう」
返事はない。
それでも、完全に消えかけていた艦橋の照明が、一度だけ淡く明滅した。
三人は、船内に残された水と保存食、それから使えそうな小型端末を回収した。
外へ通じる昇降口は土砂で塞がれていたため、船体側面の裂け目から外へ出る。
「…………」
レイジは、しばらく言葉を失った。
森だった。
見上げるほど巨大な木々が、どこまでも続いている。
岩は深い苔に覆われ、湿った土から小さな草花が顔を覗かせていた。枝の間を色鮮やかな鳥が飛び交い、遠くからは獣のものらしい鳴き声が聞こえる。
風が吹く。
葉が揺れ、無数の音が重なり合う。
「……風だ」
「風くらいで何を感動しておる」
「だって、あそこにはなかっただろ」
「まあ、そうじゃが」
レイジは目を閉じた。
頬を撫でる風。
草木の匂い。
足の裏から伝わる土の感触。
遠くに存在する、数え切れない命の気配。
すべてが新鮮だった。
「ここには、ちゃんと命があるんだな……」
「うむ」
レイヴェルは短く答えた。
だが、彼女の赤い瞳は周囲を注意深く見回している。
「どうした?」
「この土地の魔力が濃い」
「濃い?」
「我が生きていた頃の世界でも、これほど自然に魔力が満ちた土地は多くなかった」
レイヴェルが手を伸ばす。
半透明の指先を、淡い光の粒が通り抜けていく。
「森そのものが、魔力を吸って育っておるようじゃ」
「危険なのか?」
「分からぬ。じゃが、普通の森と思わぬ方がよい」
「フィーネ。ここがどこか分かる?」
『周辺地形を照合します』
フィーネの電子翼から光が広がり、空中へ簡易的な地図が描き出された。
しかし、表示された線はすぐに乱れ、地図全体へ照合不能の文字が浮かぶ。
『一致する地形情報がありません』
「七百年前の記録だから?」
『その可能性はあります。それに、艦の長距離観測装置は墜落時に破損しました。現在使用できるのは、わたし自身の近距離観測機能だけです』
「つまり?」
『現在地を特定できません』
「…………」
「…………」
「迷子じゃな」
「世界へ着いた最初の結果が迷子?」
『遺憾ながら』
「二人とも、もう少し申し訳なさそうにしてくれない?」
「我は悪くない」
『わたしは可能な限り努力しました』
「俺だけ納得できてないんだけど……」
レイジは肩を落とした。
とはいえ、墜落した船のそばで待っていても誰かが来る保証はない。
まずは森を抜け、人のいる場所を探す必要がある。
「山を下りよう」
「それがよかろう」
『斜面の傾斜から、おおよその下方は判別できます』
「今度は信じていいんだよな?」
『下へ進むことだけは保証します』
「それ以外は?」
『保証できません』
「正直すぎる……」
三人は、深い森の中を歩き始めた。
一時間が過ぎた。
森は終わらない。
二時間が過ぎた。
見えるのは相変わらず木と岩ばかりだった。
三時間目。
「なあ……」
「なんじゃ」
「本当に下ってる?」
『高度は継続的に低下しています、マスター』
「なのに全然、山から出られないんだけど」
「それだけ大きな山なのじゃろう」
「簡単に言うなよ……」
目覚めてから二週間、格納施設と研究所の中しか歩いていなかった身体には、山道を進み続けるだけでも大きな負担だった。
何度も根に足を取られ、急な斜面では枝へ掴まりながら降りる。
「少し休もう」
「まだ三時間しか歩いておらぬぞ」
「三時間も、だよ!」
「修行が足りぬな」
「目覚めて二週間の身体に何を求めてるんだ」
「安心せい。外へ出た以上、これから存分に鍛えてやる」
「不安しかない……」
レイジが近くの岩へ腰を下ろそうとした、その時だった。
——ドンッ。
遠くから、低い音が響いた。
「……雷?」
「違う」
レイヴェルの表情が変わった。
——ドォン!
今度は明確だった。
山の向こうで、何かが爆発した。
森にいた鳥たちが一斉に飛び立つ。
『南東方向、約四キロ先に高エネルギー反応を検出しました』
「高エネルギー?」
「魔力の衝突じゃ」
レイヴェルが木々の向こうを睨む。
「何者かが戦っておる」
少し遅れて、遠くの森から黒い煙が立ち昇った。
「人がいるのか?」
『少なくとも、自然現象ではない可能性が高いです』
ようやく見つけた、人の存在を示す手がかり。
だが同時に、そこでは何か危険なことが起きている。
「行ってみよう」
「待て」
レイヴェルが鋭く制した。
「おぬし、自分の状態を忘れておらぬか?」
「状態?」
「戦えぬじゃろう」
「…………」
反論できなかった。
研究所では怪物から逃げ回ることしかできなかった。
体内にはレイヴェルの膨大な魔力がある。だが二週間の間にできるようになったのは、整備設備へ少しずつ力を流すことだけだ。
戦いに使う方法など、まだ何一つ知らない。
「力を持つことと、扱えることは別じゃ。先ほど教えたばかりであろう」
「分かってる」
「ならば——」
「でも、人がいるかもしれない」
レイヴェルが黙った。
「ここがどこなのか知りたい。それに……」
レイジは、立ち昇る黒煙を見た。
「誰かが襲われてるなら、放っておけない」
なぜ、そう思うのか。
自分でも分からなかった。
名前も、家族も、過去も思い出せない。
それでも、身体の奥に残っている何かが、見て見ぬふりをするなと告げていた。
レイヴェルはしばらくレイジを見つめたあと、小さく息を吐いた。
「まったく。仕方のない器じゃ」
「悪かったな」
「ただし、危険と判断したらすぐに退くぞ」
「分かった」
『わたしも同行します』
「フィーネは止めないのか?」
『マスターだけで向かわせた場合、目的地へ到着する前に迷う可能性があります』
「心配するところ、そこ!?」
『重要な問題です』
「否定できないのが悔しい……!」
三人は煙の方向へ走り出した。
木々の間を抜け、斜面を駆け下りる。
近づくにつれて音が大きくなっていった。
爆発。
木々が薙ぎ倒される音。
何かの咆哮。
「……っ」
レイジの足が一瞬だけ止まった。
研究所の暗い通路。
床を這う音。
振り下ろされた、七本指の腕。
恐怖が蘇る。
「レイジ」
レイヴェルの声がした。
「怖いなら、怖いままでよい」
「……え?」
「恐怖を知らぬ者は勇者ではない。ただの愚か者じゃ。怖れたうえで、進むか退くかを己で選べ」
レイジは拳を握った。
足の震えは消えない。
それでも、前を見た。
「進む」
「ならば、我もついてゆこう」
再び走り出す。
やがて木々が途切れ、山間に開けた場所が現れた。
「……何だ、これ」
そこには、一本の道路が延びていた。
だが、レイジの知識に残る道路とは違う。
地面には複雑な紋様が刻まれ、一定間隔で青白い光が走っている。その上には、車輪を持たない大型車両が浮かんでいた。
もっとも、車両の片側は大きく潰れ、黒い煙を上げている。
周囲には十人ほどの人影があった。
剣を持つ者。
槍を構える者。
銃に似た武器を向ける者。
杖を掲げる者。
機械と魔法が、当たり前のように同じ場所へ存在している。
「人だ……」
目覚めてから初めて見る、自分たち以外の生きた人間。
駆け寄ろうとしたレイジの足を、レイヴェルが止めた。
「待て。戦いは終わっておらぬ」
直後。
——グオオオオオオオオオッ!!
凄まじい咆哮が山間へ轟いた。
道路脇の森が大きく揺れる。
太い幹が折れ、木々が次々と倒れていく。
人々が一斉に武器を構えた。
「来るぞ!」
「負傷者を車両の後ろへ!」
「前衛、足を止めろ!」
怒号が飛び交う。
木々の奥から、巨大な影が姿を現した。
黒褐色の体毛。
枝分かれした二本の角。
地面を抉る、異様に発達した前脚。
肩口からは、さらにもう一対の腕が生えている。
合計六本の脚を持つ巨獣が、牙を剥きながら道路へ踏み出した。
「あれは……」
「魔獣じゃ」
レイヴェルの赤い瞳が、鋭く細められた。
「じゃが、我の知る魔獣とは、何かが違う」
レイジは息を呑んだ。
知らない世界。
知らない文明。
そして、知らない怪物。
自分たちが辿り着いた場所がどこなのか。
目の前の人々が何者なのか。
まだ何一つ分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
世界の狭間で止まっていたレイジの時間は、今ようやく——。