幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
魔王のいる部屋の前で、ガレスは恋人に襟を直してもらっていた。
城の最上階。玉座の間へ続く石扉の前には、崩れた天井から灰色の光が斜めに落ちている。足元には拳ほどの瓦礫が転がり、壁の亀裂からは冬のように冷たい風が吹き込んでいた。
「少し屈んで。そう、そのまま」
リゼットの指が、鎧の首元に収まった銀の留め具を外す。
下に巻き込まれていた布を引き出してから、今度は肌に触れない位置で留め直す。
その間、ガレスは盾を持っていない方の手をリゼットの背中へ添えていた。
足場が悪いのは確かだった。
けれど襟はもう直っている。
「……今、することかな」
隣のカイルにだけ聞こえるように言うと、カイルは石扉を見たまま口の端を上げた。
「気になったんだろう。擦れると痛いしな」
「ガレスの手、まだ背中にあるけど」
「ああ」
「襟、もう直ったよね」
「直ったな」
それから二人で、少しだけ黙った。
旅の二年目に付き合い始めたあの二人は、三年目になってもこうだった。せめて魔王城では控えてほしい。
明日からいくらでも二人で過ごせるようにするために、ボクたちはここまで来たのだから。
「カイル、手」
「右か?」
「左。手袋も外して」
差し出された左手を取り、革手袋の縁を引く。
汗で指に貼りついていたので、結局ボクが一本ずつ指を押さえて脱がせた。
手の甲には、城へ入る前に描いた青黒い線が残っている。
親指の付け根から手首へ一本。そこから三つに分かれ、指の骨を避けるように細い弧を描く。
補助術式だ。
カイルの魔力を通すと、流れの強さや向きがボクへ返る。こちらから短い合図を送ることもできる。
線の一本が、親指の付け根で擦れて薄くなっている。
「ここ、擦ったでしょ」
「さっき壁を登ったときだな」
「術式がある方の手を使わないでって言ったのに」
「右は剣を持ってた」
「いったん預ければいいじゃないか」
腰の小瓶から導墨を指先に取る。
魔力を通しやすい銀粉を混ぜた、術式用のインクだ。
消えかけた線をなぞると、冷たかったインクがカイルの肌の上で淡い青へ変わった。
カイルの手がわずかに動く。
指を絡めるようにして固定した。
「動かさないで」
「分かった」
返事のあと、本当に動かなくなる。
こういうところは助かる。
説明の途中で勝手に分かったつもりにならないし、任せたことには余計な手を加えない。
幼馴染だからという理由だけで、三年間も命を預けられるわけではない。
三年前、王都で組まれた討伐隊で、カイルは聖剣の勇者、ボクは学院の術式解析担当。リゼットは治癒術師、ガレスは守護騎士だった。
役目が違う四人だから、三年間ここまで来られた。
「リオ、カイル。そろそろいいか」
ガレスの声に顔を上げると、既に扉へ向き直っていた。リゼットだけが、ボクの手元を見て何か言いたそうにしている。
「もう終わる。ここの線が切れると、カイルの状態だけ読めなくなるから」
「ええ。大事な線ね」
「そうだよ」
何だか含みのある言い方だったけれど、説明している時間はなかった。
最後の節点を指で押さえ、魔力を一滴だけ流す。
カイルの手の甲を青い光が走った。
ほぼ同時に、ボクの首元でも金属が淡く光る。
観測環。
革紐で首から下げた掌ほどの銀輪で、カイルの補助術式とつながっている。流れが強まれば熱を持ち、乱れれば震え、急に向きが変われば冷たくなる。
「光った?」
カイルが聞く。
「うん。今はまっすぐ来てる。これで、いつもどおり」
手袋を返して、自分の杖を持ち直す。
「頼む」
「そっちもね」
カイルが短く笑った。
栗色の髪は埃で白くなり、頬には乾いた血がついている。
それでも笑うと、これから魔王に会うことまで大した問題ではないように見えてしまう。
王都では、この顔を見たくて何かとカイルへ話しかける人がいた。本人がその気になれば、休みの日の予定くらい簡単に埋まるはずだ。
なのに、誘いを断ってボクの部屋へ来ては、読んでいる本を横から覗く。
あれでは恋人なんてできないだろうと思う。
思うけれど、カイルが持ってくる夜食はおいしいので、追い返したことはなかった。
「行くぞ」
ガレスの一言で、余計な考えが消えた。
ガレスが盾を前へ出し、肩で石扉を押す。
扉の底が床を削った。
低い音が廊下へ響き、指二本ぶん、拳一つぶんと隙間が広がっていく。
最初に流れてきたのは、風ではなかった。
濃い魔力だった。
冷水の中へ顔を入れたときのように肌が縮む。
首元の観測環が、かすかに震えた。
玉座の間は、想像していたより広かった。
扉から正面の玉座までは三十歩ほど。
左右に黒い石柱が四本ずつ並び、その外側には人が二人並んで歩ける程度の通路がある。天井は中央から崩れ、雲の低い空がむき出しになっていた。
床一面には、黒い石へ赤金色の線が埋め込まれている。
飾りではない。
巨大な術式だった。
線は柱の根元へ集まり、そこから玉座の周囲へ伸びている。目で追えるものだけでも何十本ある。その下にも、石の中を通る魔力の気配があった。
その中心に、一人の女が立っていた。
黒い衣服。床へ届く長い髪。額には細い冠。
魔王ヴァルネア。
何度も遠くから感じてきた魔力が、今は同じ部屋の中にある。
肌を押されるような圧迫感に、杖を握る指へ力が入った。
「四人で来たか」
声は、拍子抜けするほど静かだった。
カイルが剣を抜く。
銀色の刀身が冷たい空の光を拾った。
その動きに合わせて、ガレスが扉から五歩前へ出る。
カイルはその右後ろ。
ボクは左後ろ。
リゼットはさらに一歩下がり、四人全員を見渡せる位置を取った。
何度も繰り返した配置だった。
魔王の右手が上がる。
床の赤い線が、一斉に明るくなった。
「右、二歩!」
光ったのは足元だけではない。
右側の柱の根元から、細い線が床の下をこちらへ走ってくる。
ガレスが一歩右へ踏み込み、盾を斜めに構えた。
直後、床が裂けた。
黒い石の槍が三本、斜め上へ突き出す。
一番手前の一本が盾へ当たり、甲高い音を立てて横へ逸れた。二本目はガレスの肩を外れ、背後の柱へ突き刺さる。
石片が雨のように落ちた。
「正面、開いた!」
カイルが走る。
魔王まで残り十五歩。
今度は床ではなく、玉座の前に半透明の膜が立ち上がった。
白く濁った硝子を三枚重ねたような結界だ。
カイルの剣が一枚目へ触れ、白い火花が弾ける。
止まった。
「三重だ!」
ボクは杖の石突きを床へ当てる。
その横を黒い火の塊が飛んだ。
リゼットが片手を振ると、薄い白膜が一瞬だけ広がり、火は膜の表面を舐めて天井へ逸れた。熱だけが頬へ残る。
カイルは結界の一枚目へ剣を押しつけたまま、足を止めている。
ガレスはその左で盾を上げ、次に来る攻撃の向きを探していた。
誰も、ボクが考え終わるまで待ってはくれない。
直接見るだけでは、結界を動かす術式の全体は分からない。
だから魔力をほんの少し床へ流し、返ってくる反応を読む。
術式の線には、集める、伝える、現象を起こす、結果を返す、と役割がある。
玉座の間の術式は、柱を経由して結界へ魔力を送っていた。
ただし一か所だけ、返ってくるのが遅い。
左から二本目の柱。
その柱を通った魔力だけが、一呼吸ぶん遅れて床へ戻る。
視界の端で、魔王が腕を払った。
床の赤線がまた跳ねる。
「後ろ!」
リゼットの声。
ボクは杖を残したまま半歩だけ身をずらした。さっきまで踵があった場所から黒い棘が突き出し、長衣の裾を掠める。
布が裂けた。
見る暇はない。
「カイル、正面を押さないで! 左の柱へ寄せる!」
「どうする?」
「結界に、守る場所を間違えさせる」
力で三枚とも壊す必要はない。
ボクの得意なのは、完成した魔法を大きな力で押し潰すことではなかった。
術式再構築。
動いている術式を読み、必要な接続だけ切り替える。壊すのではなく、流れ先を変える。
杖の先で床を擦る。
赤金色の線の上へ、青い補助線を一本。
左の柱から結界へ向かう導路――魔力の通り道――を途中で拾い、何もない床へつなぐ。
線が触れた瞬間、杖へ強い抵抗が返った。
「ガレス、三秒!」
「ああ!」
ガレスの盾へ黒い刃が二度落ちた。
身体ごと後ろへ押される。
リゼットの治癒光が背中へ広がる。
ボクは青い線を最後の節点へ押し込んだ。
結界が揺れた。
三枚のうち、一番外側の膜だけが左へずれる。
誰もいない柱の前を守るように、位置を変えた。
「今!」
カイルが空いた隙間へ踏み込む。
残り二枚。
魔王が指を振る。
薄い黒刃が横薙ぎに飛んだ。
「伏せて!」
カイルが身体を落とす。
刃が栗色の髪を掠め、後ろの柱を削った。
そのまま踏み込み、二枚目へ剣を叩き込む。
今度は割れた。
白い膜が硝子のように砕け、光の破片になって消える。
だが三枚目が残る。
「あと一枚!」
「見えてる!」
ガレスが前へ出る。
魔王から放たれた黒い塊を盾で受け、そのまま横へ押し流した。
ガレスの靴底が床を削る。
リゼットが名前を呼んだ。
旅の途中で聞く柔らかな声ではない。怪我人を前にした治療者の声だった。
ボクは首元の観測環へ指を触れた。
温かい。
カイルの補助術式を流れる魔力が増えている。
聖剣へ力を集めているのだ。
長くは保たない。
「待って。あと少し」
最後の結界へ魔力を流す。
背後で盾が鳴る。
一度。
二度。
三度目は音が低かった。ガレスが受けきれず、靴底がこちらへ一尺ほど滑る。
リゼットの光がその肩へ飛び、砕けた鎧の隙間を白く埋めた。
カイルの剣は、最後の膜へ押し当てられたまま白く震えている。
早くしろ、と誰も言わない。
言われなくても分かっていた。
返ってきた反応は三本。
三本とも同じ太さに見える。
けれど、中央だけ魔力の戻り方が違った。
二本は囮。
触れた者へ攻撃を返すための罠だ。
本物も安全ではない。
本物の線へ触れれば、そこからボクへ逆流するように組まれている。
「嫌な性格」
口にすると、少しだけ頭が冷えた。
罠なら、返す先がある。
ボクは本物の線を切らない。
流れ込んでくる反撃だけを、隣の囮へつなぎ替える。
杖を半回転。
青い線を一本切り、別の節点へ結ぶ。
黒い火花が杖の先へ走った。
次の瞬間、それはボクへ来ず、何もない床へ流れた。
床石が一枚、爆ぜた。
魔王の目が、初めてボクへ向く。
「遅い」
最後の結界が消えた。
ボクは杖で床を二度叩く。
二度――任せた、の合図。
青い光が補助術式を走り、カイルの左手へ届く。
カイルは振り返らない。
必要がないからだ。
聖剣が白く膨れ上がる。
カイルが踏み込む。
魔王の胸へ、剣が突き立った。
その瞬間だけ、音が遠くなった。
魔王が一歩、後ろへ下がる。
黒い衣服の胸元から白い光が漏れる。
冠が額から外れた。
石の床へ落ちる。
乾いた音がした。
終わった。
そう思って、息を吐きかけたときだった。
首元の観測環が、今まで一度もなかった冷たさに変わった。
同時に、魔王が笑った。
胸を聖剣に貫かれたまま、口元だけが動く。
カイルが剣を引こうとする。
抜けない。
黒い線が刀身へ絡み、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
「カイル、離れて!」
ガレスが前へ出る。
けれど距離がある。
リゼットの防壁がカイルの前へ展開するより、床下の術式が立ち上がる方が速い。
熱い、ではない。
氷を直接首へ当てられたような冷たさ。
「待って」
床を見る。
さっきまで赤金色だった術式が、黒く染まっていた。
しかも表面の線ではない。
床石の下。
今まで観測に返ってこなかった、さらに深い層に別の術式が隠されている。
黒い線が玉座から走る。
柱を通らない。
結界も通らない。
一直線に、カイルへ向かっていた。
「カイル!」
呼んだときには、黒い光が床から立ち上がっていた。
速い。
防壁を作る時間はない。
仮に作れても、あれは外から身体を焼く類の攻撃ではなかった。
光の先端が、針のように細い。
身体ではなく、もっと内側へ入り込もうとしている。
術式の中身までは読めない。
ただ一つだけ分かった。
接続先だ。
黒い術式は、カイルを標的としている。
そしてカイルの左手には、まだボクの補助術式が残っている。
一本の道がある。
なら、道の先を変えられる。
ボクは観測環を握った。
さっきまで、カイルの魔力を読むためだけに使っていた接続だ。
術式の向きを反転する。
カイルへ向かう導路の途中へ、ボクの線を割り込ませる。
切る。
つなぐ。
接続先を変える。
術式再構築は、本来こんな速度でやるものではない。
図面もない。確認もできない。
それでも、線だけは見えた。
カイルへ伸びていた黒い光が、途中で折れた。
こちらへ向く。
カイルの目が見開かれた。
ボクへ走ろうとして、一歩目でガレスの腕に止められる。
「行くな! まだつながってる!」
正しい。
今カイルがこちらへ触れれば、せっかく変えた接続がもう一度乱れる。
リゼットがボクの名前を叫ぶ。
白い治癒光が飛んでくる。
黒い光と触れたところで弾け、細かな火花になって散った。
胸の真ん中へ、氷の塊を押し込まれたような衝撃が来た。
息を吸おうとしたのに、肺がどこにあるのか分からなくなる。
杖が手から落ちた。
「リオ!」
カイルの声。
来なくていい。
まだ終わっていない。
そう言いたかったのに、喉から出たのは短い息だけだった。
黒い術式が身体の内側へ入ってくる。
魔力とは違った。
魔力なら、流れる方向と量がある。
これは形のない指で、自分というものを直接探られているようだった。
セナ村の川。
借りた本の頁。
子供の頃に焦がした机。
カイルの笑い声。
記憶へ触れながら、さらに奥へ入り込もうとする。
そこは駄目だ。
ボクは胸元の観測環から続く補助術式を、今度は自分の内側へ折り返した。
外へ開いていた導路を閉じる。
侵入してくる黒い術式の周囲へ、自分の魔力で細い輪を作る。
押し返せない。
だから広がらせない。
扉を閉めて、向こう側から押さえる。
身体のあちこちが痛む。
どこが傷ついているのかさえ分からない。
それでも、侵入してくる道だけは分かる。
そこを塞ぐ。
視界の端で、カイルがこちらへ踏み出した。
駄目だ。
ボクは床についた指を二度動かした。
任せた。
いつもの合図。
伝わったか確かめる余裕はなかった。
次に見えたのは白い光だった。
こちらではなく、魔王へ向かう。
聖剣が最後の黒い光を断ち切った。
身体の中に入り込んでいた感触が、一気に遠ざかる。
それと同時に、身体を支えていた力まで消えた。