幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
執務室の机には、俺の帰還後の予定表が三枚重なっていた。窓の外では訓練場の掛け声が遠く響き、ペン先だけが紙の上を一定の速さで進む。
予定表へ、自分のための印を付けた。
リオと出かける日だ。
「その日は難しいのか」
担当官に聞かれた。
「別の日なら」
「珍しいな。帰還してから、私用で断られたのは初めてだ」
「そうでしたか」
あまり考えず返した。
相手は日を変え、話は終わった。
それだけだった。
戦争中は、予定を選ぶ感覚がなかった。
必要なところへ行き、終われば次へ行く。
休める日は休むが、誰かと使うために一日を空けることはほとんどない。
できなかったのではなく、しなかったのだと今になって分かる。
リオは昔から、俺が戻る時間を気にしていた。
魔法を見せたい。買った本の話をしたい。一緒に飯を食いたい。
どれも、後でもできることばかりだ。
俺も後でいいと思っていた。
後で、が必ず来ると思っていたからだ。
魔王城で一度、それがなくなるところだった。
今は、先に予定へ書く。
それくらいしていい。
◇
仕事の候補は三つあった。
王都常駐。
訓練支援。
湖畔を拠点に街道と防衛施設を見る仕事。
最後の紙へ、ミルネの名前がある。
前から興味はあった。
魔王を倒したあと、道がどう変わるのかを見たかった。
壊れた橋を直し、危険な道を閉じ、新しい巡回を作る。
剣を使わない仕事でも、自分にできることはある。
リオの計画書にも、同じ町があった。
同じ町なら嬉しい。ただ、リオの行き先が変わっても、自分はここで働きたいと思えるか。候補の紙を読み直した。
紙を重ねるたび、ミルネの文字へ目が戻った。
「湖畔の案を詳しく聞きたい」
担当官へ伝えた。
「出張は多いぞ」
「分かっています」
「一度に十日ほど戻れないこともある」
十日。
以前なら短い。
今は、斜め向かいの扉を十日見ないことになる。
「問題ありません」
答えた。
出張中の連絡方法を聞いてから、担当官の部屋を出た。
◇
帰り道、髪紐の店で足が止まった。
深い青緑。
昨日、リオの髪に使った色だ。
同じものを持っている。
買う必要はない。
歩き出す。
三歩でまた止まった。
「何してるんだ、俺は」
声に出したら、店の女主人と目が合った。
「贈り物?」
「違います」
「そう」
即答したせいか、それ以上聞かれなかった。
結局、買わなかった。
ただ、昨日指へ巻いた髪の感触が残っていた。
柔らかく、思ったより滑る。
あれも「練習」だったから、触れられた。
髪をまとめて、首の後ろへ指が触れたとき、リオの肩が小さく動いた。
その瞬間、自分の指まで止まりそうになった。
髪を結んでいるだけだ。
そう思って、もう一度触れた。
好みの顔だから、近いと意識する。
最初は、それだけで説明できると思っていた。
でも、あのとき顔はほとんど見えていなかった。
それでも、細い首筋に触れたことも、髪を自分の指へ巻いたことも、妙にはっきり残っている。
相手がリオだったからだ。
冷たかっただけだと言っていた。俺のせいで肩が動いたのだと、勝手に喜ぶことはできない。
◇
宿舎へ戻ると、リオは談話室にいた。
ナディアと器具を挟んで話している。
「ここの遅れ、むしろ長時間なら利点になります」
「短い揺れを捨てて平均だけ取るのか」
「そう。それなら一人でも測れる」
楽しそうだった。
こういう顔は昔から好きだった。
今は、そこへ欲が一つ増えた。
こっちを向いてほしい。
馬鹿らしい。
仕事の話をしているだけだ。
声を掛けず通り過ぎようとしたところで、リオが気づいた。
「あ、カイル。おかえり」
顔がこちらへ向く。
肩の力が、先に抜けた。
単純だ。
ナディアの方へ戻らず、もう少し俺を見ていてほしかった。用事を遮りかけた自分に気づき、抱えていた書類を持ち直す。
「ただいま」
「あとで話ある」
「俺も」
「じゃあ夕食のあと」
すぐ器具へ戻った。
待つと疑っていない。
その当然を、俺は失いたくなかった。
◇
夕食のあと、仕事の話をした。
湖畔の案を詳しく聞いていると言うと、リオは地図へ顔を寄せた。
「ミルネからこの道、冬は使える?」
「雪次第だな」
「硝子運ぶなら、こっち?」
「たぶん」
同じ町になることより、先に道具の輸送を考えている。
リオらしい。
「ボクも、まだ決めてない」
「ああ」
「決まったら先に言う」
顔が上がった。
「俺も言う」
約束というほどではない。
肩の奥に残っていた力が抜けた。
そのあと、器具の話を延々聞いた。
「簡単に言うと」
「今のでだいぶ分かった」
「本当?」
「一定の状態なら、遅い方が都合いいんだろ」
「そう!」
声が大きくなった。
それを聞くと、もう少し分かりたくなる。
昔から聞いてきた魔法の話だ。今は説明が途切れると、続きを促すより先にリオの顔を見てしまう。
その間も、机の端に置いた予定表の印が目に入っていた。
◇
部屋へ戻ると、扉の下から紙が差し込まれていた。
リオの字。
――次の休み、午後も空いてる? 見たい店がもう一つある。
笑ってしまった。
予定表には、最初から一日分の印を付けてある。
返事を書く。
――一日空けてある。
持っていくと、扉を開けたリオが紙を見て笑った。
「じゃあ、急がなくていいね」
「ああ」
そのために空けた、と言おうとしてやめた。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ」
扉が閉じる。
自分の部屋へ戻ってから、予定表の印を一度なぞり、机の引き出しへしまった。
◇
ボクの寝台の上が、服で見えなくなっていた。濃紺、灰色、深い緑。王宮へ着ていけそうなものだけを出したはずなのに、椅子の背まで布が掛かっている。
王宮から届いた案内には、礼装で来るようにと書いてあった。
ボクは荷物を全部出した。
使えるものがない。
男だった頃の服は肩も丈も合わない。
帰還途中に揃えた服は動きやすいが、戦勝の祝宴には地味すぎるらしい。
翌朝、候補にした長衣を抱えて仕立屋へ行った。カイルも、自分の礼装を頼むために一緒だった。
「これじゃ駄目?」
灰色の長衣を持ち上げる。
仕立屋のエッダは、困った顔をしなかった。
ただ、最初だけは入口で深く頭を下げた。
「魔法使い様のお召し物を任せていただけるなんて」
「様は、なくていいです」
「では、採寸の間だけでも普通のお客さまとして」
そう言って巻尺を持った瞬間から、本当に普通の客として扱ってくれた。
「駄目ではないですよ。ただ、祝う席なら、あなたが着たいものを一着作ってもいいでしょう」
「着たいものが分からない」
「それなら、分からないところから始めましょう」
押し付けない人だった。
返事を急がなくていいと分かると、ようやく並んだ布へ目を向けられた。
◇
布を何枚か見せてもらう。
紺。
深い青緑。
黒に近い紫。
形の絵も並んでいる。
「ズボンの方が楽?」
「動くなら」
「踊る予定は?」
「……あるらしい」
横にいたカイルが咳払いをした。
祝宴では、簡単な踊りもある。
練習する話をしたのは昨日だ。
「笑わないで」
「笑ってない」
明らかに笑っている。
長い裾の服が一枚あった。
胸元は浅い。
袖がある。
腰から下は広いが、脚へまとわりつかないよう割れが入っている。
「これ、走れる?」
「走るんですか?」
「必要なら」
エッダは少し考えた。
「全力なら、お勧めしません。でも階段を急ぐくらいなら。裾の内側を軽くしましょう」
「杖は」
「細い帯を作れます」
「小さい道具入れも」
「付けましょう」
選ぶ理由が増えた。
女らしく見える服、ではなく、自分が着て困らない服へ変わっていく。
それなら試してみたいと思った。
カイルを見る。
「カイルは?」
「リオが着たいなら」
「似合うか聞いてる」
一拍もなかった。
「似合う」
「まだ布しか見てないのに?」
「色は似合う」
青緑だった。
最近、そればかり選んでいることに気づく。
「……じゃあ、これ」
自分で決めた。
カイルの返事が混ざっていないとは言わない。
◇
仮縫いができた日に、もう一度仕立屋へ行った。試着室で袖を通す。
後ろの留め具へ手が届かない。
以前の肩幅なら届いた気がして、腕を伸ばしたまま少し苛立つ。
「無理にしなくていいですよ」
エッダが留めてくれた。
「届かないこと、まだ忘れる」
「毎日使う動作ではありませんから」
そう言われて、納得する。
鏡の前へ立つ。
知らない女の人、とはもう思わない。
自分だ。
ただ、服が変わると身体の輪郭が別の順番で目に入る。
細い肩。
腰の位置。
裾へ隠れた脚。
「座ってみましょう」
いつものように脚を開くと、布が変な方向へ引っ張られた。
「あ」
エッダが笑う。
「叱りませんよ」
「顔に出てた?」
「少し」
座りやすい位置を一緒に探す。
膝を少し寄せ、裾の余りを横へ逃がすと、腰を浮かせずに済んだ。
もう一度座り直し、今度は布を引っ張らずに立てた。
何度か歩く。
裾を持つ場所を決める。
杖へ手を伸ばす。
実用上の問題が一つずつ消えていくと、鏡を見る余裕が出た。
「見せてみます?」
誰に、とは聞かなくても分かった。
頷いたあと、急に胸が落ち着かなくなる。
◇
カイルは入口近くで、自分の礼装の袖を直していた。
ボクが出る。
顔を上げたカイルは、袖の留め具に掛けた指を外さないまま、こちらを見ていた。
「……何か言って」
「似合ってる」
「それ、さっき聞いた」
「思ってたより」
「何」
困った顔になった。
「……綺麗だった」
返事をしようとして、鏡の中でカイルと目が合った。さっきまで服の裾ばかり見ていたのに、もう一度そこへ戻すのは惜しい。
「……これにしてよかった」
「ああ」
カイルがやっと袖から手を離した。ボクはその手へ、着替えに使った衝立の布が引っかかっているのを見つけた。
「袖、そっちも見せて」
「俺?」
「カイルも試着中でしょ」
エッダが巻尺を持ってこちらへ来た。
「では、お二人で歩いてみてください。腕を取るなら、その幅も見ておきましょう」
カイルの礼装は、濃い紺に白い縁。
旅の装備より肩の線がはっきり見える。
自分ばかり見られていると思っていたのに、こちらも見てしまった。
「カイルも、変」
「悪い意味か」
「違う。……ちゃんとして見える」
「普段は?」
「普段も一応」
笑われた。
エッダは二人の裾を見て、広い方の通路を示した。
カイルが手を出した。
「平らだけど」
「知ってる」
古書市の帰りを思い出す。
ボクは自分から腕へ手を添えた。
「借りないとは言ってない」
腕の高さが合うと、長い裾でも歩幅を決めやすかった。
◇
一往復する。
歩ける。
座れる。
杖も取れる。
鏡には、青緑の服の自分と、その隣のカイルが映っている。
「気に入った?」
聞かれた。
もう一度鏡を見る。
「うん」
本当だった。
カイルがどう見るかだけではない。
色も好きだし、動きにくくないよう直してもらえるのもいい。
その上で、さっきみたいな顔をもう一度見られるなら、もっといい。
「当日、楽しみだ」
店を出てから、カイルが言った。
「今日見たでしょ」
「また見たい」
どう返せばいいか分からず、前を向く。
「当日、裾踏まないでよ」
「踏むのはリオだろ」
「カイルが踏むかもしれない」
「俺のせいにする気か」
青緑の服は店へ預けたまま、二人で宿舎へ戻った。