幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
図面の年号が同じなのに、貯槽の形が違う。
古文書室は昼でも薄暗い。厚い硝子を通った青い光の下で紙を重ねるたび、乾いた紙の匂いが立った。
貯槽は、魔力を一度溜めておく設備だ。
水を直接使うのではなく水槽へ受けてから必要な量だけ流すのと同じで、防衛塔では外から集めた魔力をいったん石槽へ蓄え、守護像や結界へ送る。
一枚では第一貯槽だけ。
もう一枚には第二貯槽まで描かれている。
「これ、建てた年じゃない」
ボクが紙を重ねると、ナディアも覗き込んだ。
「写した年?」
「たぶん。第二貯槽を後から描き足してるのかも。出口が今の図面にない」
「現地で確認ね」
「うん」
確認事項を三つ書き、四つ目へ行く前に時計を見た。
ナディアの筆が止まる。
「何か約束でもしているの?」
「……踊りの練習」
「誰と?」
「カイル」
「では、四つ目は書いておくわ。明日ここから続けましょう」
「ありがとう」
図面を見れば、まだ続けたい。
時計を見ると、帰りたい。
両方本当だった。
◇
談話室の椅子をどけると、思ったより狭かった。
「机にぶつかりそう」
「リオが逆へ行かなければ大丈夫」
「カイルが間違えなければでしょ」
始める前から揉める。
片手を取られ、もう片方の手が腰へ来た。
腰へ触れた手だけ、一拍遅れて位置が決まる。
カイルは何も言わない。ボクも、また距離が近いせいだろうと思って流した。
触れられるのは初めてではない。
でも、そこへ手を置く意味を知っていると、身体が余計なことまで覚えようとする。
「肩、上がってる」
「分かってる」
「息は」
「してるよ」
カイルが笑う。
一歩目。
右。
次。
思っていた方向と違って、靴を踏んだ。
「一回」
「数えないで」
「昨日二回だった」
「今日はゼロにする予定」
三歩後に二回目。
「何も言ってない」
「顔が言ってる」
笑い出したので、わざと踏んだ。
「今のは故意だろ」
「三回目には入れない」
「入れる」
くだらなくなって、二人で笑った。
上手くなるより先に、楽しくなっている。
休憩中、カイルへ防衛塔の図面を一枚だけ見せた。
「ここの線、前より一本多い」
「正解」
「俺でも分かる」
前に見せた図を覚えていた。
それだけで説明したくなり、結局、休憩の半分を魔法の話に使った。
「現地へ行くかもしれない」
「俺も仕事で入れるなら行く」
「仕事で?」
「仕事で」
そこをはっきり言うのがカイルらしい。
図面を押さえる大きな手を見る。
さっきまで腰にあった手だと思った途端、言葉が一つ抜けた。
「リオ?」
「続き。今の忘れた」
「リオでも忘れるんだな」
「誰のせい」
「俺?」
答えず、もう一度立った。
◇
翌晩、祝宴の広間は灯りで明るすぎるくらいだった。
青緑の礼装を着て階段へ出ると、カイルが下で待っていた。手すりへ添えていた手を離し、こちらへ一段上がってくる。
「歩けそうか」
「店では歩けたよ」
差し出された腕へ触れる前に、カイルがもう一度ボクを見た。
「綺麗だ」
今度は聞くより先に言われた。
「……ありがとう」
差し出された腕へ手を添える。
階段を降りる間、足元より腕の方を意識した。
◇
四人の名前と功績が紹介された。
身体の変化について、大げさな説明はなかった。
結界の解析。進路の確保。魔王の術式の妨害。
したことが、自分の名前で呼ばれる。
挨拶が続く。結界をどう調べたか聞かれて、相手が術師ではないことを思い出した。説明の最初の一言を考える。
返事をまとめる間、相手はボクを見て待ってくれた。言えたあとで隣を見ると、カイルが小さく頷いた。
◇
音楽が始まった。
先ほど話した担当官が手を差し出す。
「一曲、お願いできますか」
悪い人ではない。
断る理由もない。
それでも先に、カイルを見た。
「最初は、約束しているので」
言った瞬間、自分で意味を重くした気がした。
担当官は笑って下がる。
カイルが手を出した。
「そんな約束したっけ、とか言わないで」
「言わない」
手を取る。
一、二、三。
最初だけ数える。
背中へ掌が添えられ、方向を変える前に少し力が乗る。
「今日は踏まないな」
「カイルが上手いから」
「昨日は俺のせいじゃなかっただろ」
「半分は」
カイルが笑った。
外で人へ向ける、整った勇者の笑顔ではない。
眉が少し下がり、呆れているのに楽しそうな顔。
昨日、ボクの前で何度も見た顔だった。
それ、ボクの前で練習した顔だ。
妙な考えだった。
ボクのものではない。顔くらい誰に向けてもいい。
なのに、この広間にいる大勢が知らないものを、自分だけ知っていると思うと、胸の内側がわずかに浮く。
一度、髪が肩へ落ちた。
カイルの視線がそちらへ行き、足が遅れる。
「今、見たでしょ」
「分かってる」
「踏んでないから許す」
「ありがとうございます」
わざと丁寧に言われ、また笑った。
昔から、ボクが遅れれば半歩待つ癖があった。
ぬかるんだ道でも、川を渡るときでも。
今は身体も歩幅も違う。
半歩だけは、同じだった。
◇
踊りが終わり、端の席へ逃げた。
「できた」
「ああ」
「踏まなかった」
「一回」
「踏んでない」
「靴の端」
「それは接触」
「何の判定だよ」
まだ気分が軽かった。
「これなら、本当に好きな人を誘うときも困らないね」
カイルの笑みが消えた。
杯を持った手だけが止まる。
「……そういうつもりで、やってたのか」
「え」
「いや。ここで話すことじゃない」
怒ってはいない。
むしろ、言葉を選んでいる。
練習なのだから、いつか本番がある。
そういう話だったはずだ。
その続きを想像した途端、杯を持ち直した。まだ飲み物は残っていたのに、口を付ける気になれなかった。
カイルが別の誰かの手を取る。
その人の服を見て止まり、腰へ手を添え、さっきの顔で笑う。
嫌だった。
考えるより先に、身体がそう答えた。
「……ボク、変なこと言った?」
「変じゃない」
「じゃあ」
「俺の問題」
それで話を止められた。
◇
そのあと、一人と踊った。
相手は上手だった。距離も正しい。話も丁寧だった。
何も失敗しなかった。
そして、全然楽しくなかった。
途中から天井の灯りの構造ばかり見た。
曲が終わると、カイルが水を持って待っていた。
「お疲れ」
「うん」
さっきの話には触れない。
ボクも触れられなかった。
◇
帰り道、外套を貸された。
留め具が髪へ引っかからないよう、指で避けてくれる。
「疲れたか」
「うん」
「話は明日でいい」
「逃げない?」
口から出た。
カイルが、まっすぐこちらを見る。
「逃げない」
「じゃあ、明日」
「ああ」
部屋へ戻り、外套を椅子へ掛ける。
練習だと言い出したのはボクだ。
明日最初に何を言うかだけ、寝台へ入っても決まらなかった。
◇
朝、カイルの外套を返しに行った。
昨夜の祝宴から持ち帰ったまま、椅子へ掛けていたものだ。布の皺を伸ばすと、香油と薄い酒の匂いがまだ残っていた。窓から入る冷たい風に、外套の裾が揺れる。
扉を叩く。
「ありがとう」
「ああ」
カイルが受け取り、腕へ掛けた。そこまでは簡単だった。
「「昨日のこと」」
声が重なった。
二人とも止まる。
「そっちから」
「いや、リオから」
「何で」
「俺が途中で止めたから」
妙なところで律儀だ。
ボクは勝手知った椅子へ座った。カイルは外套を掛けたあとも机の角へ腰を預けたままで、すぐには座らなかった。
「本当に好きな人に使えるね、って言ったやつ」
「ああ」
「嫌だった?」
聞くと、カイルは窓の方へ一度目をやった。
「嫌というより……違う、嫌だった」
言い直した。
「俺は、あれを誰かに使うために覚えてたわけじゃない」
ボクは膝の上で指を組んだ。
「古書市へ行ったのは、リオが行きたがったからだ。あの服を褒めたのは、似合ってると思ったから。踊るのも、一緒にやるから練習した」
一つずつ置かれていく。
昨夜、ボクはそれを全部まとめて、いつか別の誰かへ渡すものみたいに言った。
「ごめん」
「責めたいわけじゃない」
「でも、道具みたいに言った」
「そこまでじゃない」
「ボクには、そう聞こえる」
カイルはすぐに「気にするな」と言わなかった。
机に置いた指を一度曲げ、考えてから口を開く。
「俺も、最初から説明してなかった」
「何を」
「他の誰かのために練習するつもりは、なかったってこと」
「何で言わなかったの」
聞いた瞬間、カイルの目が止まった。
そこへ踏み込めば、今朝の話では済まない。
ボクにもそれくらいは分かった。
「……言いにくかった」
「そう」
追わなかった。
「楽しかった?」
「昨日?」
「昨日も。古書市から、全部」
「楽しかった」
返事は速かった。
「俺は、全部またやってもいい」
指を組む力が抜けた。
「ボクも」
それだけは、考えずに言えた。
◇
朝食へ下りると、ガレスが祝宴の料理で一番うまかったものの話をしていた。
「肉」
「全部肉じゃない」
リゼットが呆れる。
「焼いたやつ」
「絞れてないよ」
「骨が付いてた」
「もっとある」
ボクが口を挟むと、ガレスは本気で考え始めた。
カイルも笑う。
昨日から続いていたものが、いったん食卓の外へ出ていく。
パン籠へ手を伸ばした。
同じところへカイルの手も来る。
二人とも止まった。
「取れば」
「リオが先でいい」
「近いのはカイルでしょ」
ガレスがパンを噛んだままこちらを見た。
「おまえら、昨日なんかあったか?」
「「何も」」
声が重なった。
リゼットだけが茶器の向こうで目を細めた。
◇
昼は学院だった。
ナディアと第二貯槽の記録を追い、四十年前の修繕帳から似た術式を見つけた。
「湖側から逆流を逃がす線かも」
「だとすると、出口が消えている方が問題ね」
「現地の図面にない」
「増築で埋めた可能性もあるわ」
紙の上では、分からないことが分かりやすい。
測る。探す。違えば戻る。
人の気持ちより、ずっと扱いやすい。
夕方、宿舎へ戻ると机に紙があった。
――夕食前に戻る。待ってる。
短い。
前なら読んで、そのまま机へ置いたと思う。
今日は最後の四文字で手が止まった。
朝の会話を思い出す。
他の誰かのために練習するつもりはなかった、とカイルは言った。
では、これは何なのだろう。
考え始めると面倒なので、紙を本へ挟んだ。
夕食へ下りる前、髪を結び直す。
青緑の紐にした。
◇
次の休日。古道具の店へ出る前に、二人で「練習」の続きを決めることにした。
「手を繋ぐ」
ボクが指を折る。
「した」
「二人で食事」
「してる」
「服を褒める」
「それ、俺が練習することなのか」
「最初は下手だったでしょ」
「言ったらリオが黙るからだろ」
「今は黙らない」
「余計困る」
そこまでは、いつもの調子だった。
次が出ない。
恋人がすること。
頭へ浮かんだものを追い出そうとした。
追い出そうとしたせいで、はっきり残った。
「リオ?」
「……キス、とか」
言った。
カイルの顔から動きが消えた。
机の上の指が、ゆっくり曲がる。
ただ単語を一つ増やしただけなのに、部屋が急に狭くなった。
「それも、練習するのか」
声が低い。
「分からないから聞いてる」
「リオは、したいのか?」
すぐに答えられなかった。
したくない、なら楽だった。
嫌ではない。
でも、したいと口にしたあとのことまで考えると、喉が動かなかった。
「練習としては、したくない」
ようやく言えた。
カイルが息を吐いた。
「俺も」
「嫌だからじゃないよ」
反射で付け足した。
言った本人が一番驚く。
「……何で今それ言ったんだろ」
「俺に聞かれても」
「嫌だと思われたくなかった」
そこまで出たら、もう戻せなかった。
「したあとで、練習だったって笑えるか分からない」
カイルは机から手を下ろし、頷いた。
「じゃあ、そこまでは入れない」
「うん」
線を一本引いただけだった。
なのに、その内側に残ったものまで前と同じではなくなった。
「手は」
「手?」
「繋ぐのは、今までどおりでいいんだよね」
自分で言って、会議みたいだと思った。
カイルが笑う。
「リオがいいなら」
「ボクはいい」
「俺も」
「じゃあ決まり」
そこで二人とも笑った。
◇
午後、古道具の店へ行った。
恋愛の練習とは関係ない用事だった。戦時中に量産された携帯灯を見たかった。
「これ、落としたら」
「硝子は割れる」
「金具は?」
「ここが曲がる。補強が薄い」
「旅には向かないね」
「今は旅しないだろ」
「仕事で使えるかもしれない」
こういう話をしていると、さっき決めた境界は遠くなる。
店を出る。
道は空いていた。
カイルが手を差し出した。
理由はない。
ボクはその手を見た。
カイルも何も言わず待っている。
「さっき決めたから?」
「それもある」
「他には」
カイルは一度だけ瞬きをした。
「繋ぎたいから」
今度はボクが止まった。
「……そういうの、急に言うね」
「聞いたから答えた」
手を取る。
指の間へ指が入る。
角を曲がるまで、ボクの方が強く握っていた。
キスはしない。
ただ手を繋いで歩く。
昨日までなら同じことだったはずなのに、今日は、何をしないと決めたのかまで二人とも知っていた。