幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
訓練場の前まで来ると、剣のぶつかる乾いた音が塀越しに聞こえた。土埃と革の匂いが、開いた門から道へ流れている。
カイルを迎えに行ったつもりはなかった。
学院からの帰り道が、訓練場の前を通るだけだ。
門の脇で、カイルが三人の騎士と地図を見ていた。
そのうち一人、セーラという女性が橋の位置を指す。
訓練場へ出入りする若い兵は、カイルの横を通るたび「勇者殿」と頭を下げる。
本人はそのたび小さく頷くけれど、地図を見ているときまで敬礼されるのは落ち着かないらしく、「仕事中は普通でいい」と何度も言っていた。
次の兵も頭を下げたので、カイルは説明を諦めて地図の続きを指した。
「この橋、雪の前に一度見たいんです」
「ああ。幅も測り直した方がいい」
「次の休み、もし空いていれば――」
「その日、ボクと約束してる」
口が先に動いた。
四人がこちらを見る。
声が出たあとで、ようやく気づいた。
「失礼しました。では別の日で」
「いや、仕事なら――」
「緊急じゃない」
カイルが地図へ目を戻す。
「別日で調整しよう」
普通に話が続いた。
ボクだけが、急に自分の声の大きさを思い出した。
◇
帰り道、先に口を開く。
「……邪魔した?」
「してない」
「仕事でしょ」
「別の日でいい仕事」
「約束、覚えてたんだ」
「当然だろ」
「何するか決めてないのに」
「だからって予定が消えるわけじゃない」
同時に、さっきの自分の言い方は好きではなかった。
「ボク、カイルの休日を自分のものみたいに言った」
カイルは少し考えた。
「俺は嫌じゃなかった」
「それはカイルが変」
「そうかもな」
「でも、仕事なら仕事って言って。邪魔したくない」
「ああ」
「その代わり、別の日にして」
カイルの口元が上がる。
「結局、予定は欲しいんだな」
「調整してるんだよ」
笑われた。
今度は胸の中がむずむずして、言い返すのをやめた。
◇
次の休日は、ボクが決める番だった。
カイルが楽しい場所。
剣。訓練。肉。
並べるとひどい。
ガレスに聞く。
「本人に聞け」
「それだとボクが決めたことにならない」
「……面倒だな」
正しい。
教えてもらった鍛冶工房へ連絡した。
古い武具の見学ができる。
その近くに食堂。道具屋。橋の装飾。
四つ並べ、三つ消した。
鍛冶工房だけ残し、午後の欄は空けておいた。
◇
当日、鍛冶工房は入口から熱かった。
槌の音が床を通って身体へ来る。
カイルは最初の説明から真剣だった。
柄の見本を掌で確かめ、重さの違いを何度も比べる。
「こっちは戻しやすい」
「手が大きいな。普通なら少し余る」
「俺にはちょうどいいです」
楽しそうだった。
それだけで、昨日地図とにらみ合った時間が報われる。
工房の端に、重さを調整する金属輪が並んでいた。
「これ、杖にも――」
「リオ」
「何」
「今日は剣」
「分かってる」
「今、持ち帰ろうとしただろ」
職人まで笑った。
◇
見本の剣は、展示会で持ったものより重かった。前に教わった握り方にしても、先が少し下がる。
カイルの掌が、触れないぎりぎりの位置へ来る。
「持てる」
「知ってる。落としたら受けるだけ」
カイルに柄の支え方を確かめてもらう。指を少し深く掛けると、今度は先を下げずに持てた。
近くにある手は気になった。
それでも、説明はちゃんと頭へ入った。
◇
途中で送風機が止まった。
職人たちの声が変わる。
「術式?」
つい聞いた。
「補助だけな。主は足踏みだ」
古い増幅術式の接点が熱で歪んでいた。
「仮なら直せる」
「魔法使いさん、今日は客だろ」
カイルが横で笑う。
「触りたい顔してます」
「カイル、どっちの味方」
結局、許可をもらって応急処置をした。
カイルは工具を渡す。
「これ?」
「違う、細い方」
「全部同じに見える」
「勇者なのに」
「勇者は鍛冶屋じゃない」
予定していた見学は途中で止まった。
それなのに、カイルは退屈そうではない。
「今日、カイルの好きなものを見る日なのに」
「見てる」
「剣でしょ」
「リオが知らない工房の魔法をいじってるのも、だいぶ面白い」
返事が出なかった。
自分が選んだ予定から外れているのに、失敗した感じがしない。
◇
昼食は本当に失敗した。
量が少ない。
料理が来た瞬間に分かる。
「……追加頼もう」
「まだ食べてないぞ」
「絶対足りない」
「全部知ってなくていいだろ」
カイルが笑った。
「今日、ちゃんとしようとしすぎだ」
図星だった。
工房も店も時間も、全部うまく選べれば、自分が一番カイルを知っていると証明できる気がしていた。
それなのに、目の前へ来た料理の量さえ当てられなかった。
「……肉と豆の煮込み、追加」
「はいはい」
「半分もらう」
「それ、俺の追加だろ」
「次はボクが頼む」
「次、あるんだ」
カイルが言って、自分で笑った。
「あっていいだろ」
「……うん」
その一言で、きれいに予定を立てたかった気持ちがほどけた。
次があるなら、今日全部を当てなくていい。
◇
午後は店を一つだけ見た。
カイルが革の書類留めを買う。
「それ欲しかったの?」
「ああ。今の紐、すぐほどける」
「知らなかった」
「言ってないからな」
当たり前の返事だった。
それを知る時間まで、次に残っている。
包みをボクの袋へ入れ、宿舎へ戻った。
部屋で荷物を出してから、その包みが残っていることに気づく。
「あ」
斜め向かいへ持っていけばいい。
でも今行けば、今日の続きをまた話したくなる。
以前なら、そのために本か用事を一つ足した。
今日は包みだけを持って、扉を叩いた。
「忘れ物」
「ありがとう」
「あと」
言葉が続く。
「今日、楽しかった?」
カイルが包みから顔を上げた。
「楽しかった」
「工房、途中で止まったけど」
「それも含めて」
「お店、量が足りなかったけど」
「追加したやつがうまかった」
それならいい。
「じゃあ、おやすみ」
「それだけ?」
「それだけ」
今度は理由を増やさず、自分の部屋へ戻った。
◇
修復を頼んでいた絵が届いた。
包みを開くと、新しい木枠と乾いた紙の匂いがした。絵の表面には薄い保護布が掛けられ、紐をほどくまで中の二人は見えない。
十五歳のボクとカイル。
セナ村の宿で描いてもらった記念画だ。
紙は補強され、枠も替わっている。
傷は残っていた。
指が、傷の縁で止まった。
新品みたいにされていたら、たぶん別の絵を受け取ったように感じた。
◇
カイルの部屋へ持っていく。
「直ったのか」
「うん」
机を空ける。
二人で覗く。
絵の中のボクは、黒に近い灰色の短い髪だった。
肩の位置はカイルと大きく変わらない。
顎の形も、今より角張っている。
「この顔、覚えてる」
カイルが言う。
「何」
「画家に動くなって怒られてた」
「カイルが笑わせたからでしょ」
「袖の焦げ隠せって言っただけだ」
「それを描いてる最中に言うから」
笑う。
絵の中のカイルは、画家ではなくボクを見ていた。
腕がボクの肩へ回っている。
当時は重いとしか思わなかった。
今同じようにされたら。
考えかけて、やめた。
「背、違うね」
「ああ」
「カイルは今の方が大きい」
「筋肉が増えた」
「横に」
「鍛えてる」
いつもの返しだった。
昔の自分を見る時間が、追悼みたいにならずに済む。
◇
カイルは絵を窓際へ置いた。
陽の光が反射して、なかなか場所が決まらず何度も位置を変える。
「飾るの?」
「ああ」
「ボクの部屋じゃなくて?」
「置かせてほしい」
頼まれるとは思わなかった。
「いいけど」
そこで、余計なことを言った。
「今の方が好みなら、昔のボクは要らないんじゃない?」
カイルがすぐ振り向いた。
「そんなことない」
速かった。
冗談として逃げる場所がなくなる。
「それは別だろ」
「……何が」
「この絵は、このときの俺たちだ」
そのままの言葉だった。
ボクは絵を見る。
今の顔を好みだと言ってほしい。
見て困ってほしい。
でも、昔の自分まで、もう使わないものみたいに片づけられるのは嫌だった。
勝手だ。
どちらも自分なのに、自分の中でさえ同じようには扱えない。
鏡にはもういない姿を、誰かの記憶には残してほしいと思う。
カイルが木片を絵の下へ挟んだ。
「今の絵も描いてもらうか」
「え」
「四人で」
リゼットとガレスも含めて。
「二枚になるよ」
「二枚置けばいい」
それだけ言って、また反射しない位置を探し始めた。
ボクも机の本を動かした。
カイルは絵の角度しか気にしていない顔をしていた。
◇
置き場所が決まってから、昔の話になった。
旅へ出て最初の長い道。
カイルが靴擦れを隠したこと。
ボクが名前の似た薬草を買ったこと。
「今なら間違えない」
「この前、図面間違えた」
「それとこれは違う」
「間違いは間違い」
「嫌なやつ」
二人で笑う。
絵の中の二人は、リゼットにもガレスにも会っていない。
魔王の顔も知らない。
今のボクの身体も知らない。
学院へ行っても、休みに戻ったらまたここで会おうと話していた。
カイルが椅子を寄せて、肩が触れそうになる。
前なら、絵の通りに腕を回してもらっても何とも思わなかった。
カイルが額縁の角度を直す。
「そこだと光る」
「もう少し右」
二人で椅子ごと動き、最後は机の端へ落ち着いた。
絵の中では、まだ男同士だった。
その前に並んで座るボクたちの肩は、今は高さが違っていた。
◇
数日後、朝から下腹が重かった。窓は曇っていて、着替える前にまず湯を頼んだ。
ロッカで初めて血を見た朝ほどの驚きは、もうない。手帳の印より一日早い。
そう書き足して、温めた陶器を膝へ置いた。
痛いものはまだ痛い。
でも、正体は知っている。
食堂の机へ、四人分の紙を広げた。
戦いの相談ではない。
冬から先の仕事と、リゼットとガレスの結婚式。
「こういう地図を四人で見るの、変な感じ」
ボクが言うと、ガレスが頷いた。
「前はだいたい敵がいたからな」
「今は式場があるわ」
リゼットが指した。
カイルが茶を取ろうとして、ボクの膝の陶器を見た。
何も聞かず、自分の分を注いだあと、湯差しだけこちらへ寄せる。
ボクも何も言わず、冷めたら使うことにした。
◇
学院から研究契約の案が届いた。
ミルネを拠点に、湖周辺の旧設備を調べる仕事だ。
勇者の同行者として置いてもらう席ではない。
リオ・フェルンの名前で届いている。
その行だけ、何度読んでも目が止まる。
「カイルは?」
聞くと、カイルも紙を出した。
湖畔から街道を巡る案を進めている。
「同じ町だね」
返事が早すぎた。
カイルの視線が紙から上がる。
「まだ決まってない」
「ボクも」
「でも、そうなったら便利だな」
「……うん」
便利。
確かに便利だ。
好きなときに部屋へ行ける。帰る時間を合わせられる。
頭の中では、それが先に出た。
◇
リゼットが紙を一枚裏返した。
「ミルネの診療所、最初は三部屋で始めることになったわ」
「三部屋?」
「診察が二つ。奥が処置用。治療師は私を入れて三人から」
紙には、必要な薬と器具の数まで書き込まれている。
もう「ミルネへ戻るか」を相談している段階ではなかった。
「開けるのは?」
「戦勝祭が終わって、向こうへ戻ってから。最初の一月は週に一度、王都から応援が来る予定」
ガレスも別の紙を広げる。
「俺は巡回隊の訓練を週二回。月に一度は王都側とも合同でやる」
「教官の話、形を変えて残ったんだ」
「ああ。向こうから来てもらうだけじゃなく、俺も何度か王都へ出る」
リゼットが予定表を覗く。
「その日は遅くなる?」
「帰れない日もある」
「分かった。私も夜番がある日は書く」
それぞれの仕事の欄へ、それぞれ別の印が増えていく。
進む場所を決めたあとには、帰る時間を決める話が残るらしい。
「それで、家は?」
ボクが聞くと、リゼットが別の図面を出した。
「診療所とは分けるわ」
「向こうにも寝泊まりできるんでしょ?」
「できるわ。でも、私は仕事場に住みたくないの」
ガレスが口を挟む。
「俺は最初、同じ建物でもいいと思ったんだが……。リゼットがな」
「だって夜中に患者さんが来たら、私、ずっと診療所の人になるでしょう」
「……それで別にした。と」
「あなたも訓練場に住まないでね」
「住まない」
「仮眠は?」
「それは許せ」
リゼットが笑った。
◇
新居の間取りを見る。
玄関の横に、ガレスの装備を置く小さな土間。
台所から離れたところには、リゼットが記録を持ち帰ったときに使う机。
寝室は一つ。客間は一つ。
「まだ四人だね」
ボクが言うと、リゼットが首を傾げた。
「仕事は別々になるわよ」
「夕食くらいは一緒にできるぞ」
「毎日は嫌よ」
リゼットが言う。
「え」
「新婚なのに毎日四人で食べるの?」
ガレスが黙る。
ボクとカイルも黙った。
リゼットが笑う。
「冗談。たまになら嬉しいわ」
でも、言われて初めて気づいた。
同じ町にいても、仕事へ出る時間は違う。帰れない夜もある。それでも、二人は帰る場所を一つにするための図面を見ていた。
ボクはカイルがミルネへ行くと聞いた時点で、斜め向かいの扉まで一緒に運ぶように考えていた。別の家へ帰る可能性を、ほとんど考えていなかった。
理由はない。
今だって同じ宿舎にいるのは、戦後処理の都合だ。
「リオ?」
「何でもない」
口から出た。
今日は、その言葉が本当に便利だった。
◇
夜、カイルの部屋へ行く。
本棚にボクの本がある。
机には前に買った革の留め具。
ここへ来る理由ならいくらでもある。
「塔の図面、明日見てほしいところある」
「分かった」
本当は別のことを聞きたかった。
ミルネへ行ったら、どこに住む。
誰と暮らす。
ボクはどのくらい近くにいていい。
どれも、今聞く質問ではない。
カイルも自分の書類を見ていた。
「俺も、住む場所はまだ考えてない」
急に言った。
ボクは顔を上げる。
「聞いてないけど」
「ああ」
「……そう」
それだけで終わった。
二人とも目線は自分の紙へ戻る。
十分経っても、ボクは同じ行を何度も読んでいた。