幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
目が覚めると、喉が痛かった。起き上がっただけで頭も重い。机には、報告書の最後の頁が残っている。
「最悪……」
声を出したせいで、もう一度唾を飲み込むのにも時間がかかった。
寝台の縁へ両足を下ろしたけれど、机へ行く前に横へ戻った。
◇
リゼットが来た。
「今日は休みなさい」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてあるわ」
「報告の最後だけ」
「駄目」
「読み直すだけ」
「駄目」
「じゃあ、誰かに」
「寝るのが今日は仕事。治癒術師として譲りません」
強い。
熱もかなり高いらしい。
リゼットの見立てでは最近の疲れが出た結果とのことだった。
「薬、苦い?」
「苦い」
「別のない?」
「あるにはあるけど、もっと苦い」
諦めて飲んだ。
本当に苦かった。
涙目でリゼットを見たけど、無言の微笑みが返ってくるだけだった。
一時間もしないうちに喉の痛みが和らいだので、次の分も、逃げずに飲むことにした。
◇
昼前、カイルが食事を持ってきた。
「食べられるか」
「食べやすそうか匂いで分からない?」
「分からないから聞いてる」
根菜と鶏肉の煮込み。
一口食べる。
「……薄い」
「病人用」
「味がしない」
「さっきまで喉痛かったんだろ」
「味は喉で感じない」
「文句言えるなら大丈夫そうだな」
少し腹が立った。
でも全部食べた。
寝衣の襟がずれる。
カイルの視線が窓へ逃げた。
ボクは黙って直した。
「……今の、忘れて」
「何も見てない」
「嘘下手」
「病人に喧嘩売られてる」
「誰のせい」
熱のせいで、普段より遠慮がなくなる。
◇
「帰るの?」
盆を持ったカイルへ聞いた。
言ってから、子供みたいだと思った。
「仕事が少し。終わったら戻る」
「……そう」
一人で眠れる。
水もある。
戻ると聞いて、毛布を握っていた指がほどけた。
「何時」
「二時間くらい」
「遅い」
「仕事なんだよ」
「知ってる」
面倒なのは分かっている。
カイルは笑い、毛布を顎まで引き上げた。
「寝てろ」
「カイル、リゼットみたい」
「嫌な比較だな」
それはリゼットが聞いたら怒ると思う。
◇
次に目を開けると、カイルは戻っていた。
椅子で書類を読んでいる。
「いつ来た」
「さっき」
「本当?」
「三十分前」
「さっきじゃない」
「寝てたから同じだろ」
「ほら」と言いながら水を渡される。
いつもよりゆっくり飲んだ。
温度がちょうどいい。
「何か話して」
「何を」
「何でも」
カイルが困ったような顔で悩んでいる。
戦いの計画ならいくらでも出るくせに、どうでもいい話を頼むと弱い。昔からそうだった。
「昼、ガレスが香草を入れすぎた料理食ってた」
「それ面白い?」
「本人は面白くなさそうだった」
「もっと」
「新人が左右違う手袋で訓練に来た」
「それ昨日も聞いた」
「じゃあ寝ろ」
「嫌」
何をしたいのか、まだ決まらない。
声だけは聞いていたかった。
カイルが諦め、子供の頃の話を始めた。
村の祭でガレスほど大きな犬に追われたこと。
「そんな犬いなかった」
「リオが泣いた」
「泣いてない」
「泣いてた」
訂正しているうちに眠くなる。
たぶん、それが狙いだった。
◇
夕方、椅子が動く音で目が覚めた。
反射で手を伸ばす。
カイルの袖を掴んだ。
「水替えるだけ」
「……うん」
分かっているのに、すぐ離せない。
カイルが寝台の脇へ座る。
顔が近くなる。
「そばにいると、寝やすい」
熱があるせいだと思いたかった。
だけど、本当だった。
カイルの呼吸が止まった。
「そういうこと、弱ってるときに言うな」
ボクは顔を上げた。
「何で」
「帰りたくなくなる」
聞いたことのない低い声だった。
胸の中が急に起きる。
弱っているときに、そういうことを言うな。
言いたいのはこっちだった。
「……じゃあ、帰らなければ」
口が勝手に答えた。
カイルが困る。
ボクも困る。
二人で数秒黙り、先に笑ったのはカイルだった。
「水だけ替えさせろ」
「うん」
袖を離す。
カイルは水を替えて戻ると、椅子を寝台へ寄せた。さっき読みかけだった書類を膝へ置く。
◇
翌朝、熱は下がった。
リゼットにはもう一日休めと言われた。
今日は素直に従う。
午後、カイルが扉から顔を出した。
「入っていいか?」
昨日は当然のように入ってきたのに、今日は聞く。
「うん」
椅子へ座る。
昨日の話には触れない。
しばらく本当に普通だった。
「夜も来ていいか」
今度はカイルが聞いた。
熱はない。
だから、返事を別のもののせいにはできなかった。
「来て」
カイルはそれだけで頷いた。
◇
風邪が治って三日目、杖の調整を再開した。
長く使うと、最後だけ角度がずれる。
防衛塔へ行く前に直しておきたい。
カイルの机へ浅い水盤を置く。
黒い器の底には白い目盛りを引いてあり、その中央へ薄い真鍮の輪を立てる。
測定環だ。
携帯観測環と同じく魔力の流れを拾う道具だけれど、こちらは手で角度を変えながら使う。
輪を通った魔力を水面へ映し、二つの光のずれを見ることで、杖から出る魔力の偏りを測る。
「測定環、持って」
「ここ?」
「そこ。下の布をつまんで。勝手に握りやすい角度へしないでね」
「毎回言うな」
「毎回直すから」
いつものやり取りだった。
それなのに、椅子を寄せると身体が少し固くなる。
病気の夜を覚えている。
帰りたくなくなる。
熱はもうない。
その言葉まで、熱のせいにはできない。
◇
光を二本、同じ速さで回す。
片方が遅れれば、手元の出力が崩れている。
「左、遅い」
「何秒?」
「一秒もない」
「正確な数字で」
「無茶言うな」
笑う。
少し楽になる。
指の位置を直すため、カイルの手へ触れる。
触れたところだけ、妙に温度が分かる。
「ここ。力抜いて」
「抜いてる」
「まだ」
指を押す。
カイルの呼吸が変わった。
気づいた瞬間、口元が勝手に上がる。
最近はこちらの調子を崩されてばかりだった。
「もっと近くで見て」
「見えてる」
「本当に?」
わざと覗き込む。
前なら、カイルが目を逸らした。
今日は逸らさない。
「……リオ」
「何」
近い。
名前を呼んだ口が、すぐそこにある。
視線が落ちる。
何を見たのか、自分で分かる。
カイルの手の中で、測定環が少し傾いた。
水盤の光が一つ消える。
「測定環」
「分かってる」
どちらも直さない。
廊下で誰かが笑った。
遠い。
部屋の中では、何も動かなかった。
カイルの目が、ボクの目から口元へ落ちる。
意味を分からないふりはできない。
ここから少し近づけばいい。
カイルが来るかもしれない。
自分がどうするのか考えた。
逃げる、ではなかった。
待つ。
その答えが先に出た。
ぞっとした。
嫌だからではない。
このままだと、決めたことを何でもない顔で越える。
あとで『練習だった』と戻る場所もなくなる。
ボクは慌てて身体を引いた。そのせいで椅子が床を擦る音がやけに大きく鳴った。
カイルは動かない。
「……ごめん」
「……大丈夫だ」
◇
片づける。
数値を書こうとして、どこまで測ったか分からなくなった。
「今日、やめるか?」
さっきまでなら、やめると言われた瞬間に言い返していた。
今は、その一言で肩の力が抜けた。
「うん」
測定環を布で拭く。
水盤を空にする。
布を絞る音まで耳についた。
扉へ向きかけて、足が止まった。
「カイル」
「ん?」
「……嫌だったわけじゃない」
声が小さくなる。
カイルはすぐ頷かなかった。
数秒待ってから、言った。
「分かった」
「本当に?」
「分かったから、追わなかった」
ボクが椅子を引いた音を、カイルも聞いていた。
「……ありがとう」
◇
自分の部屋へ戻る。
机へ額をつけた。
冷たい。
カイルの呼吸を乱して、先に目を逸らさせるつもりだった。
口元が固まるところを見て、少し笑うつもりだった。
なのに、近づいてくる気配を待っていた。
待っている自分に気づいた瞬間、背中が冷えた。
逃げた。
もう、あいつだけを慌てさせる遊びには戻れない。
そこまで分かったところで、机の上に報告書があることに気づいた。
明日提出だ。
「……最悪」
何がどうでも仕事は減らない。
顔を上げ、ペンを取った。
同じ行を三回書き直した。
◇
翌朝、学院でナディアと組み立てた据置観測器は、思ったより早く動き始めた。
机の端へ固定した金属箱から、細い支柱が一本伸びている。
先端には測定環と同じ輪が固定され、その横の白い盤面に黒い指針が一本ついていた。
手で測定環を支えなくても、輪へ入った魔力の強さを内部のばねが指針へ伝える。
手持ちの測定環と区別するため、ボクとナディアは据置観測器と呼ぶことにした。
瞬間的な揺れを追うのは苦手でも、一定時間の平均を見るなら、人の手よりずっとぶれない。
「反応は少し遅い。でも平均を見るなら安定する」
ナディアが盤面の指針を見ながら言う。
「一人で測れるのも大きいわね」
「うん」
机へ固定すれば、誰かに測定環を持ってもらわなくていい。
カイルの予定へ合わせなくていい。腕が疲れたか聞かなくていい。角度を直すために手へ触れなくてもいい。
便利だ。
だけど、なぜか便利だと思えなかった。
「リオ」
「何?」
「魔力、流してない」
「あ」
指針が止まっている。
ナディアはそれ以上聞かなかった。
助かる。
◇
昼過ぎ、管理者の立ち会いで、城壁から見つけた街灯の導路を点検した。
壊れていたのは大きな仕組みではなく、古い継ぎ目一つだった。
管理記録と照らし合わせ、交換する部分を決める。
それだけで終わる。
大事故でも新発見でもない。
誰も困る前に直すための、小さな仕事。
でも、ボクはこういうのが好きだった。
亀裂の位置を測り、使われている材料を確かめ、修理の順番を考えている間、昨夜のことは出てこなかった。
予定していた箇所を測り終え、記録に判をもらう。カイルの部屋で数値を忘れた昨日とは違って、今日の欄は最後まで埋まっていた。
◇
夕方、宿舎へ戻る。
カイルの部屋の前を通る。
扉は閉まっている。
用事はない。
据置観測器は一人で使える。
街灯の報告は学院へ出した。
明日の予定も共有してある。
完璧だった。
そのまま自分の部屋へ入る。
三十分後、本を一冊持って廊下へ出た。
扉の前で止まる。
用事を作った。
自分で分かる。
数秒立ったあと、本を部屋へ戻した。
もう一度出る。
今度は何も持たなかった。
◇
扉を叩く。
「どうした」
「……来ただけ」
言った自分の方が、声の置き場所を失った。
カイルは少し目を見開く。
「入る?」
「うん」
以前なら隣へ置いていた椅子を、今日は向かいへ置く。
カイルは何も言わない。
「据置観測器、できた」
「よかったな」
「一人で測れる」
「便利だ」
「うん」
短い会話で終わる。
なんだか少し気まずくなって街灯の話をする。
「この前見たやつか」
「そう。大した故障じゃなかった」
「大したことになる前に見つけたんだろ」
顔を上げた。
その言い方が好きだった。
事故にならなければ成果が見えにくい仕事を、ちゃんと仕事として扱ってくれる。
話が終わる。
帰る理由も、残る理由もない。
カイルが訓練場の新人の話を始めた。
剣を逆向きに吊って、本人が一番困っていたらしい。
「どうやって抜くの」
「抜けなかった」
「何しに来たの」
「初日だから許してやれ」
笑う。
そこで初めて、昨夜以来まともにカイルの顔を見た。
まだ、口元へ視線が行く。
胸の奥が一拍遅れる。
でも、離れたいわけではなかった。
◇
帰るとき、カイルが棚を見た。
「本、持って帰る?」
三冊、ボクの本がある。
「何で」
「据置観測器できたから、こっちで作業しなくてもいいだろ」
息が浅くなった。
「置いてていい?」
「ああ」
「邪魔?」
「全然」
「じゃあ置く」
それだけ言う。
扉へ手を掛けてから、振り返った。
「明日も来ていい?」
カイルが少し笑った。
「毎日聞くつもり?」
「今だけ」
「いいよ」
部屋へ戻る。
自分の机の向かいに置いた椅子を見る。
以前より遠い。
少し考え、横へ移した。
完全に元の位置ではない。
明日、カイルが来るなら、この方が図面を見やすい。そう思った。