幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
ミルネの防衛塔は、前に来たときより冷えていた。
王都から三日。
湖畔の風はもう冬の匂いがして、丘の石段には朝の霜が白く残っている。
塔そのものは、外から見ると三階建ての四角い石造りだった。
けれど本当に厄介なのは地上ではない。
ベルクさんに開けてもらった鉄扉から、螺旋階段を二階分ほど地下へ降りる。
空気が一段ずつ湿っていき、最後の踊り場では、石壁に細かな水滴がびっしり付いていた。
中央の地下室には、腰ほどの高さの石槽が二つある。
手前が第一貯槽。
戦時中、守護像を動かすために魔力を一度溜め、必要な量だけ地上へ送るための槽だ。
その奥、床を半段掘り下げたところに第二貯槽がある。
こちらはもっと古い。
冬になると湖側から自然に流れ込む魔力を受け止め、第一貯槽へ少しずつ渡すために作られていた。
ナディアが据置観測器を床へ置いた。
王都で作った、測定環を支柱へ固定した箱型の器具だ。手で輪を支えなくても、感知輪から返る反応の平均を盤面の指針で読める。
今日は槽の中の残量を読む。弱い探査の魔力を銀線から送り、戻ってきた反応の強さを測る。
輪形の感知部を第一貯槽の銀線へ噛ませると、箱の上についた黒い指針がゆっくり右へ動く。
「指針、上がってます」
「供給は止めてるのに?」
「速くはないです。……でも、止まってもいない」
指針は一目盛り進み、止まり、しばらくしてまた半目盛り進んだ。
人為的な補給なら、もっと一定に増える。
どこか別の場所から、少量ずつ入り続けている動きだった。
ボクは図面を床へ広げた。
持ってきたのは現在の配置図と、修繕帳に挟まれていた旧図面だ。同じ塔を描いているのに、貯槽のつなぎ方が違う。
新しい図面では、第二貯槽が第一貯槽の補助槽としてしか描かれていない。
古い図面には、その奥からさらに西へ伸びる一本の導路があった。
導路。
魔力を流すための道だ。
石の溝、金属線、導糸。形はいろいろあるけれど、役割は水路と変わらない。
「これだ」
古い図面の端を押さえる。
ずっと気になっていた線を、ようやく実物へ重ねられた。
◇
「第二貯槽は、戦争のときに増設したんじゃない」
ボクは杖の先へ小さな灯りを作り、奥の石壁を照らした。
湿った壁には、幅二本指ほどの溝が横へ走っている。
その中へ黒ずんだ銀線が埋め込まれていた。
「もともと、冬に湖側から入る分を受けるための槽だったんだ」
ナディアが図面と壁を見比べる。
「じゃあ、出口は?」
「昔はこっち」
杖の光を左へ滑らせる。
壁の途中で、銀線が石の補修材に埋もれて消えていた。
「古い図面だと、砕石場まで抜けてる。第二貯槽がいっぱいになる前に、余った魔力を外へ逃がす放流路だった」
ベルクさんが顔をしかめる。
「今は塞がってるのか」
「少なくとも、この壁から先へは流れてない」
「いつからだ」
「そこまでは、まだ分からない」
補修材を杖で軽く叩く。
鈍い音だった。
「でも、供給を切ったのに値が上がってる理由は説明できる。湖から来た分が、出口を失って第二貯槽へ溜まってる」
「冬になれば、もっと増える?」
「たぶん」
言ってから、観測器の指針を見る。
「……たぶん、で済ませないために来たんだけどね」
ナディアが頷いた。
「流入量と、残ってる出口の抵抗を測りましょう」
「うん」
まず数字にする。
それから直し方を決める。
◇
地上へ出ると、冷たい風で頬が一気に乾いた。
カイルは塔の周囲へ地図を広げ、ベルクさんと道を確認していた。
ガレスは守護像から街道までの距離を歩いて測っている。
リゼットは作業中に人を退避させる場所を見ていた。
地下で魔力の流れだけ見ていると忘れそうになる。
設備を止めるということは、塔の中だけで終わる仕事ではない。
「砕石場、今は人入ってる?」
ボクも地図を覗く。
「作業は止まってる」
カイルが指で西側の道をなぞった。
「ただ、村の子が近道に使うことはあるらしい」
「作業する日だけ閉められる?」
「札と柵を出せばできるって」
「じゃあ、放流先の候補にできる」
風で地図の角が持ち上がる。
カイルの手首へ指を置き、紙ごと押さえた。
触れたあとで、指先の温度に気づく。
今は仕事が先だった。
「古い溝、幅どれくらい」
「昨日見た。狭いところで、人一人が横向きに通れるくらい」
「一気に流すには細い」
「掘り直す?」
「石の状態を見てから。新しい導路を外付けした方が早いかもしれない」
カイルは頷き、ベルクさんへ作業区域の杭を頼む。
ベルクさんが人を呼びに戻る間に、カイルは砕石場へ入る道を二本とも地図へ写した。ボクはその余白へ、放流路の候補を重ねた。
◇
午後、古い放流溝を実際に歩いた。
砕石場へ向かう斜面の途中で、石組みは半分崩れていた。
底には落ち葉と砂が溜まり、雨水さえ途中で小さな水たまりになっている。
ボクはしゃがみ、石の継ぎ目へ指を入れた。
「これ、一度に流したら割れる」
カイルが上から覗く。
「何回に分ける」
「最低三回。できれば五回」
「一回ごとに、どれくらい待つ?」
「外へ出た魔力が安定するまで……」
頭の中で流量を割る。
古い石が耐えられる熱も入れる。
「結構長い」
「一日じゃ終わらない?」
「終わらない」
「泊まり、増える?」
「たぶん」
カイルが曇った空を見上げた。
「次の巡回と重なるなら、日程をずらせるか確認する」
「仕事なのに?」
「こっちも仕事だ」
「ボクの付き添いじゃなくて?」
「護衛と立入管理。ちゃんと申請する」
言い方に笑った。
そこまで線を引くところも、カイルらしい。
◇
夕方、停止試験を一度だけ行った。
据置観測器は平均を見るには便利だけれど、石の中で一瞬だけ起きる細かな揺れまでは拾いにくい。
「ここだけ、手で読む」
革袋から測定環を出す。
掌より一回り大きい金属の輪。
手で持つぶん、わずかな震えや温度の変化を直接読める。
カイルが手を出した。
「こう?」
「もっと左。布を巻いてあるところ」
「ここ?」
「そう。動かさないで」
「まだ動かしてない」
「先に言ってる」
ナディアが後ろで笑った。
「本当に、息合ってますね」
「何年やってると思ってるの」
返してから、別の意味に聞こえたかもしれないと思った。
仕事中なので放っておく。
ボクは測定環の反対側へ指を置き、弱い魔力を流した。
輪の内側に青白い膜が張る。
壁へ埋め込まれた導路へ光が入り、奥へ走った。
カイルの手の中で、測定環が小さく震える。
「今」
カイルの指へ自分の指を添える。
一度。
二度。
二度目だけ、少し大きい。
その直後、壁の向こうで、石が擦れるような低い音がした。
「止めて」
カイルがすぐ手を離す。
光が消えた。
「何かあった?」
「奥の石が動いた。古い放流路が、まだ完全には死んでない」
「もう一回やる?」
「やらない。次は補強してから」
測定環を袋へ戻し、壁から離れる距離を図面へ書き込んだ。次はこの線の内側へ人を入れない。
◇
夕食では、ナディアと話し続けた。
古い術式が持っている「遅れ」は、劣化ではなく安全装置だったのかもしれない。
一度に流れ込んだ魔力を、第二貯槽で少し待たせてから第一へ渡す。
水門と同じだ。
話しているうちに、煮込みから湯気が消えた。
皿の横へパンが滑ってくる。
カイルだった。
「食え」
「今いいところ」
「冷める」
「もう冷めてる」
「だから」
ナディアが笑う。
「食べた方がいいですよ」
二対一になった。
仕方なく食べる。
◇
夜、カイルの部屋へ帳面と銀貨二枚、それから導糸を持っていった。
導糸は、銀粉を染み込ませた細い糸だ。
強い魔法には使えないけれど、弱い魔力なら実際に流せるので、机の上で導路の模型を作るときに便利だった。
「追加確認?」
「違う。今日、面白かったところ」
「ナディアとずっと話してたやつ?」
「そう。でもカイル、途中から道の話してたでしょ」
机へ銀貨を二枚置く。
「こっちが第二貯槽。こっちが第一」
導糸を二枚の間へ渡す。もう一本を第二貯槽の銀貨から外へ伸ばした。
「この、余った分を逃がす出口が塞がってる」
外へ伸ばした導糸の端を折り返す。
「これ押さえて」
「また環役?」
「今日は導糸役」
「格下がった」
「重要だよ。離したら説明できない」
カイルが素直に導糸を押さえた。
ボクは別の導糸を銀貨の横へ置く。
「新しい道をここへ作る。まず溜まった分を外へ逃がす。そのあと、湖から来る分も、塔に入る前にこっちへつなぎ直す」
「止めるんじゃなくて、逃がす?」
「そう」
少量の魔力を導糸へ流す。
青い光が銀貨の間を進み、途中から横へ分かれた。
「一度に止めると、中に残ってる分の行き場がなくなる。だから先に出口を作る」
カイルが導糸を押さえたまま頷く。
そこまで分かれば十分だった。
「明日、補強の位置を決める。そのあと資材を揃えて、本当に止める日を決める」
「止めたあとは、帰れる?」
「帰るよ」
言ってから、付け足した。
「カイルと」
カイルの視線が、導糸からボクへ移った。
ボクは帳面へ目を落とした。
耳が熱い。
でも、言い直す気はなかった。
「ボクの魔法で、ちゃんと止める。カイルの仕事も終わらせる。そして、一緒に帰る」
「ああ」
短い返事だった。
欲しかった返事でもあった。
「あと一個、聞いて」
「一個?」
「……二個」
「増えた」
結局その夜は、三個話した。
翌日はナディアと流入量を測り、補強する石組みと、新しい導路を付ける場所を決めた。ベルクさんへは定期観測を頼み、値が目安を越えたら学院へ知らせてもらう。
停止の手順と必要な部材を持ち帰ることにして、昼過ぎに塔を離れた。道はまだ閉めず、停止作業の日まで町の人が通れるようにした。
◇
帰りの馬車は、日が傾くたび窓の色が変わった。車輪の規則的な揺れと、眠ったナディアの呼吸だけが近くにある。
ナディアは膝から落ちそうになる帳面を、眠ったまま押さえている。
向かいのカイルが笑いを堪えている。
「ボクもああなると思った?」
「思った」
「ボクは鞄に入れる」
「そこじゃない」
靴の先でカイルの靴を押した。
昔からするようなやり取りなのに、触れた靴先だけが妙に気になった。
面倒だ。
◇
一日目の宿。
夕食まで時間があった。
中庭へ誘う。
「話がある」
言ったのに、外へ出てから一周した。
何も言えない。
カイルは急かさない。
「俺から先に言っていいか?」
とうとうカイルが聞いた。
「駄目」
「何で」
「ボクが言うって決めたから」
「分かった」
また歩く。
「……やっぱり少し待って」
「待ってる」
返事があまりに穏やかで、立ち止まって杖の紐を握り直した。
◇
石の縁へ座った。
隣をぽんと叩く。
カイルも座る。
「練習のこと」
「ああ」
「もう、やめる」
カイルの肩が動いた。
「違う」
すぐ言う。
「出かけるのやめるとか、手を繋がないとかじゃない」
「……うん」
「練習って呼ぶのをやめたい」
言えた。
そこまで言うと、続きが少し楽になった。
「練習が言い訳になってることは、もう分かってる」
「ああ」
「分かってても、便利だから使ってた。恥ずかしくなったら戻れるし」
「俺も」
カイルが言った。
そこは、もう二人とも知っていた。
「でも、塔で一緒に帰るって言ったあとで、まだ練習って呼ぶのは違うと思った」
カイルが黙って続きを待つ。
「これからは、会いたいなら会いたいって言う。手を繋ぎたいときも、そう言う」
「うん」
「カイルも」
「言う」
「じゃあ決まり」
二人で笑った。
笑っているところで、夕食の鐘が鳴った。
もう少し座っていたかった。
「行く?」
「腹減った」
「ボクも」
立つ。
肝心なことはまだ言えていない。でも、練習の話はここで終わりにした。二人で中庭を出る。
食堂ではナディアが起きていて、翌朝の出発を早めたいと言ってきた。
「途中の石橋に古い紋があるらしいです」
「見たい」
ボクが言う。
「「言うと思った」」
カイルとナディアの声が重なった。
「……何」
「何でも」
二人とも笑っている。
夕食を食べる。
帰りは部屋の前まで一緒に歩いた。
◇
夜、部屋へ戻る前に廊下で足を止めた。カイルもこちらを向く。
言い直すことは、もうない。隣にある手へ、小指を伸ばした。
触れた指に気づいて、カイルの掌がこちらを向く。
「こっちは?」
「練習じゃない」
「じゃあ取って」
カイルが手を握った。
同じ手なのに、言い訳が一つなくなっただけで熱く感じる。
◇
翌日、石橋で本当に一時間止まった。
古い紋は橋を保護するものではなく、水位を記録する目印だった。
「期待外れか?」
「全然。これも面白い」
「何でも面白いな」
「カイル、ボクのこと知らなかったの」
「知ってた」
王都へ着くまで三日。
途中で菓子を半分にした。
馬車で寝た。
魔法の話をした。
カイルは途中で一度、完全に聞いていなかった。
「今聞いてなかった」
「聞いてた」
「最後何言った」
「……橋」
「全然違う」
普通だった。
王都へ着いた夕方、荷物を置く前にカイルが聞いた。
「今日、まだ歩ける?」
「疲れてる」
「じゃあ茶」
「それなら」
「茶、何にする」
カイルが聞く。
「濃いやつ」
「名前で言え」
「カイルがいつも飲むやつ」
「それで分かると思ってるのか」
分かるくせに、と言いながら宿舎の扉を開けた。