幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
「リオ。聞こえるか」
名前を呼ばれている。
まぶたを上げる。
最初に見えたのは、琥珀色だった。
近すぎて、カイルの片方の目しか視界へ入らない。
少し遅れて、頬の傷。埃で白くなった栗色の髪。息を詰めるように結ばれた口元が見えた。
生きている。
そこまで考えてから、ようやく息ができた。
「……倒した?」
自分の口から出た声に、身体が先に驚いた。
高い。
喉を傷めた声ではない。
響く場所そのものが違う。
舌の上で音が軽く、話した感覚だけが声より一拍遅れて追いついてくる。
カイルの眉が動いた。
「倒した。もう終わった」
「そっか」
それなら、よかった。
床へ寝かされているのだと思っていた。
違った。
背中に腕が回っている。
カイルが上体を抱き起こしていた。
肩には灰白の外套が掛けられている。
自分のものではない。
カイルの外套だ。
その内側が、ひどく暖かい。
顔へ何かが落ちてくる。
髪だった。
払おうとして、手が止まる。
指が細い。
節が小さい。
手の甲に見慣れた傷がない。
その指に絡んだ髪は、銀色に近い灰色だった。
掴んで持ち上げても、先が胸元から離れない。
こんなに長い髪を、ボクは知らない。
「……何、これ」
また、知らない女の人の声がした。
すぐそばで、リゼットが息を呑んだ。
その手が額へ触れる。
淡い金色の治癒光が視界の端へ広がり、身体の表面をゆっくり走った。
ガレスは少し離れたところで盾を床へ置いていた。
いつもなら何か一言挟むのに、今は黙っている。
カイルを見る。
カイルも黙っていた。
さっきまで魔王へ剣を向けていた人間とは思えない顔だった。
眉は寄っている。
けれど視線は、ボクの顔から髪へ、肩へ、また顔へと戻り、どこに置けばいいのか決められないように揺れている。
その顔を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
そんなにひどいことになっているのだろうか。
痛みは、もう薄れていた。
だから余計に怖い。
自分では、何が変わったのか分からない。
「カイル」
呼ぶ。
カイルの腕に力が入った。
「ボク、どこか……ひどい怪我、してる?」
カイルの視線が、ようやくボクの目へ止まった。
いつもなら先に答えてくれる。
大丈夫なら大丈夫と。
駄目なら、次に何をすればいいかを。
そのカイルが、すぐには何も言わなかった。
ずり落ちかけていた外套をボクの肩へ掛け直す。
その手が、一度止まる。
「リオ」
「何」
カイルは口を開いた。
けれど言葉になる前に、リゼットが低い声で言った。
「まず、身体を診るわ。話はそのあと」
ボクは自分の細い指をもう一度見た。
床には、落とした杖がある。
そのすぐ横で、掌ほどの観測環が、もう光を失っていた。
◇
髪が邪魔で、目が覚めた。
寝返りを打とうとすると、肩の下で何かが引っ張られる。
鎧戸の隙間から薄い朝日が寝台の端へ落ちていた。洗った布と薬草の匂いが、まだ部屋に残っている。
首を動かしてもついてきたので、手探りで引き出したら、指の間から長い髪が滑り落ちた。
薄い朝の光を受けた、銀灰色の髪。
しばらく、それを見ていた。
夢ではなかったらしい。
そう考えた途端、眠気がなくなった。
身を起こそうとして肘をつくと、寝間着の中で、今までなかった重みが動いた。思わず胸元を見下ろす。
柔らかい布は、ボクの知っている身体とは違う形に持ち上がっていた。
息を止める。
止めたところで、何も変わらない。
恐る恐るもう一度息を吸うと、その形も一緒に動いた。
「……本当に?」
聞く相手もいないのに、声が出た。
寝起きで掠れてはいたけれど、昨日、魔王城で聞いた声と同じだった。少し低めの女の人の声。
言い方はいつもの自分なのに、耳へ戻ってくる音が違う。
自分の喉に手を当てていると、扉が開いた。
「あら。起きていたのね」
リゼットだった。
いつもの白い法衣ではなく、灰緑の上着に袖を通している。
編んだ髪にも、もう埃はついていなかった。
リゼットが水差しを机へ置く音を聞いて、ようやく自分が寝台にいるのだと実感した。
「ここ、どこ?」
「城の南麓にある療養所。日が暮れる前に、輸送隊と合流できたの」
「みんなは」
「無事よ。ガレスは荷物を取りに行っている。カイルも、ついさっきまでここにいたわ」
それなら、と息を吐いた。
吐いてから、自分の胸元へ視線が戻る。
リゼットはそれに気づいたらしく、椅子を寝台へ寄せた。
「どこか痛む?」
「……痛くはない。変な感じはするけど」
「目眩は?」
「今のところ、ない」
「起き上がるのを、少し手伝うわね」
背中に手を添えてもらい、寝台の頭側へ寄りかかる。
身体が軽いのか重いのか、どちらとも決められなかった。
いつものつもりで腕を動かすと、肩が先に動いてしまう。
寝間着の袖が、手の甲まで落ちてきた。
見覚えのない、白い袖だった。
「これ……」
「私の予備よ。ほかに、すぐ使えるものがなくて。着替えは私が手伝ったから、気にしないで」
「うん。ありがとう」
もう一度礼を言おうとして、何に対して言えばいいのか分からなくなった。
ボクが眠っている間にも、誰かが傷を診て、身体を拭いて、こうして寝かせてくれたのだ。
何も知らずに目を覚ました自分だけが、昨日の続きに追いついていない。
リゼットは急かさず、コップへ水を注いでくれた。
受け取った指が、やはり細い。
落としそうで両手を使うと、リゼットはコップの底へ指を添え、ボクが持てたのを確かめてから手を離した。
「リオ。昨夜、魂紋を調べたの。出征前の記録とも照合したわ」
魂紋。
人の身体へごく弱い魔力を通したとき、魂を経由して返ってくる反応には、一人ずつ固有の揺れ方がある。
強い、弱いという話ではない。波の間隔、戻る順番、わずかな偏り。その組み合わせは生涯ほとんど変わらないため、神殿や術学院では本人確認の記録として使っている。
名前や顔が変わっても、同じ魂なら同じ癖が返る。
逆に言えば、魂紋で分かるのは「誰か」であって、「どんな身体であるべきか」ではない。
「……同じだった?」
「ええ。あなたのものよ。別の誰かが混ざっている反応も、今のところない」
水を一口飲む。
冷たさが喉を下りていく感覚は、知っているものだった。
「そう」
それしか言えなかった。
自分では、自分のつもりでいる。
何を考えているかも、昨日まで何をしていたかも分かる。
けれど、身体がこんなことになってしまえば、それだけでは足りない気がしていた。
少なくとも、中にいるのはボクらしい。
「鏡は、ある?」
リゼットが一度だけボクを見て、それから荷物の中を探した。
渡されたのは、蓋のついた小さな手鏡だった。開く前に、膝の上へ置いてしまう。
何を覚悟すればいいのか、よく分からなかった。
それでも見なければ話が進まないので、指で蓋を持ち上げた。
知らない女の人が、ボクと同じ顔で困っていた。
いや、同じ顔というのもおかしい。
頬の輪郭は滑らかになっているし、顎も、鼻も、以前より小さい。
目の緑は深くなったように見えた。
肩から胸へ流れる長い髪のせいで、どこまでが顔の印象なのかも分からなかった。
ただ、眉を寄せると、よく知っている不機嫌な顔になった。
唇を動かしてみる。
鏡の中の女も、同じように口を開いた。
「……ボクだ」
声に出すと、余計に変な気分だった。
知らない人に見えるのに、見ているうちに自分の癖が混じってくる。
前髪を指で払おうとして、長さが違うのでうまくいかない。
その手つきまで、鏡の向こうにそのまま映っていた。
「髪、邪魔でしょう。結んでおく?」
「うん。お願い」
鏡を閉じると、リゼットが寝台の後ろへ回った。
髪をまとめられた瞬間、肩が上がった。
頭の後ろへこんなに重さがあったことはない。
リゼットは引っ張らないように指を通し、余っていた布紐で緩く束ねてくれた。
その間、ボクはコップを持ったまま、聞こうかどうか迷っていた。
結局、リゼットの方から口を開いた。
「身体の変化については、もう少し詳しく調べたいの。昨夜はまず、命に関わるものが残っていないかを確認したから」
「……戻す方は、そのあと?」
「ええ。あなたにも、観測結果を見てもらいたい」
すぐに戻せる、とは言わなかった。
リゼットは、できないことをできるとは言わない人だ。
だからボクも、その場では続きを聞かなかった。
◇
朝食を半分ほど食べた頃に、ガレスが戻ってきた。
扉を通るために少し肩を狭める、いつもの入り方だった。左腕には包帯が巻かれていたけれど、その腕に荷物をいくつも提げている。
リゼットが眉を寄せた。
「そちらの腕は、あまり使わないでと言ったでしょう」
「重いものは右で持っている」
「軽ければいいという話ではないの」
「……そうか」
ガレスは素直に荷物を置いた。
最後に、背中から一本の杖を下ろす。
ボクは、思わず寝台の上で姿勢を正した。
「それ」
「ああ。柱の陰に転がっていた。傷は増えたが、折れてはいない」
差し出された杖を、両手で受け取る。
黒い木肌には、新しい擦り傷がいくつもついていた。その奥に、握る場所の少し上の凹みも、柄に巻いた革の端も残っている。
長年使っている、自分の杖。
手の中に収めると、太さが一段増えたように感じた。
「本もあるぞ」
ガレスが荷物袋を示す。
「袋の内側に防水の術を入れておいてよかったね」
「あれがなければ、水浸しだった」
「だから必要だって言ったのに。重くなるだけだって――」
「言ったのはカイルだ」
「そうだった」
ガレスの口元が少し緩んだ。
つられて、ボクも笑った。
笑った声は、まだ耳慣れない。
けれど二人は、そこには何も言わなかった。
杖を膝へ置き、荷物袋の紐へ指をかける。
結び目が固くなっていて、うまくほどけない。
爪を差し込もうとしていると、リゼットが朝食の皿をボクの前へ戻した。
「本より先に、そちら」
「もう食べたよ」
「半分残っているわ」
「……あとで食べるから」
「あとで本に夢中にならないならね」
それは、あまり約束できなかった。
◇
カイルが来たのは、昼前だった。
扉を叩く音で、ボクには分かった。一拍置いて三回。それから返事を待つ間に、向こうで服が擦れる音がする。
「入って」
言ってから本を閉じると、扉が開いた。
鎧を脱いだカイルが立っていた。
暗い茶色の上着に、いつもの黒い下衣。洗った髪の一房が跳ねている。
昨日の血も埃もなくなって、頬の古い傷が見えるようになっていた。
その顔を見た途端、胸の奥が緩んだ。
帰ってきたのだ、と、ようやく思えた。
「カイル」
「……リオ」
返事までに、変な間があった。
カイルは扉を閉めたあと、寝台から二歩ほど離れたところで止まった。
いつもなら、そのままボクの読んでいる頁を覗くくらい近くまで来るのに。
「どうしたの」
「いや。起きてて大丈夫か」
「リゼットが、疲れなければいいって」
「そうか」
そこまで言って、また黙る。
ボクは自分の袖を見た。
さっき、食事の汁でもつけただろうか。何もなさそうだったので顔を上げると、カイルの視線が少し遅れて逸れた。
ああ、と分かった。
見慣れないのだ。
ボクでさえ、鏡を見るたびに変な感じがする。
二十年以上知っている相手が、突然知らない女の姿になったら、どこを見ればいいのか分からなくなるのかもしれない。
「呼びにくい?」
「何が」
「名前。さっき、ちょっと変だったから」
カイルが眉を寄せた。
「呼びにくくはない」
「なら、いつもどおりでいいよ。名前は同じなんだから」
少し考えてから付け加える。
「変えるつもりもないし」
ほかのものは、勝手に変わってしまった。
名前くらいは、そのままでいたかった。
カイルはしばらくボクを見て、それから、今度は間を置かずに呼んだ。
「リオ」
「うん」
「……本、読めてるんだな」
「それは読めるよ。頭はボクだもの」
ようやく、カイルの口元にいつもの笑いが戻った。
ボクは膝の上の本を持ち上げ、その下から荷物袋を引っ張り出した。
「これ、ほどいて。さっきから固くて」
「ああ」
カイルが近づき、袋を受け取る。
太い指が結び目を少しずつ緩めるのを見て、そういえば自分の手が変わる前から、固い紐はこいつに頼んでいたと思い出した。
今さら遠慮することでもない。
「そこ、座れば」
寝台の端を叩く。
カイルの手が、止まった。
「……ここか?」
「うん。椅子、リゼットが向こうへ持っていったから」
部屋の隅には椅子があった。けれど、わざわざ取りに行くほどのことでもない。
カイルは寝台とボクを見比べてから、ずいぶん端へ腰を下ろした。大きな身体でそんなところに座ると、かえって窮屈そうだった。
ボクは袋から観測用の手帳を取り出し、頁をめくる。
「昨日の床の術、覚えてる?」
「赤く光ったやつか」
「そう。それがね、途中で柱の方に魔力を回してたんだけど、ただ結界を張っていたわけじゃないみたいで」
話し始めると、息がしやすくなった。
何が起きたか分からないまま考えるより、分かるところから順番に並べる方が、ずっといい。
手帳へ線を引きながら説明しているうちに、背中を支えていた枕がずれた。座り直すのも面倒だったので、隣の肩を借りる。
昔から、疲れたときにはそうしていた。
カイルはボクよりずっと丈夫だし、長い説明の途中で急に立ち上がったりもしない。
ただ今日は、肩の位置がいつもより高かった。
「……リオ」
「うん?」
「つらいのか」
「ちょっと疲れただけ。あと、姿勢がまだよく分からなくて」
カイルの上腕に頬の横を寄せたまま、手帳の下側を指で押さえる。
「で、この線なんだけど。ここが、外の魔力を――」
途中で言葉を止めた。
カイルが、動かない。
本当に動かない。手帳を覗こうともせず、片手を膝の上へ置いたまま、背筋だけが不自然に伸びていた。
顔を上げてみる。
近いところにある耳が赤かった。
「カイル?」
「……何だ」
「そっち、具合悪いの?」
返事がなかったので、手帳を伏せた。
昨日はボクだけでなく、こいつも相当無理をしていた。リゼットは治療したはずだけれど、休まなくていいわけではない。
額を確かめようと、手を伸ばす。
カイルの目がこちらを向いた。ボクの指が額へ触れる、その直前に。
「大丈夫だ」
「でも、顔が」
「熱はない」
そこでカイルは、ボクの手首へそっと指を添えた。
止められて、余計に心配になる。
「本当に?」
「ああ」
いつもなら、一度そう言えば、それで十分だった。
けれど今日のカイルは、返事ひとつに間があった。
ボクの手首に触れていた指が離れる。
その動きまで、ガラスの道具を机へ戻すときみたいに慎重だった。