幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
朝食のパンが焦げていた。
カイルはいつもどおり、焦げた端から食べている。
焦げた匂いが食卓に残る向こうで、窓の外から荷を積む音がする。出発の朝なのに、部屋の中だけはいつもとほとんど変わらなかった。
今日から六日、カイルは王都を離れる。
そう分かっているのに、食卓が普通すぎて実感が追いつかない。
「その卵、食べないのか」
「食べる」
「さっきから動いてない」
「考えてたから」
口へ運ぶ。
塩気が強い。
水差しへ手を伸ばすより先に、カイルが杯へ注いだ。
いなくなれば、自分ですればいい。
できることと、寂しくないことは別らしい。
「二日目の宿、前に泊まったところ?」
「ああ」
「煮込みが辛い店だよね」
「よく覚えてるな」
「カイルがボクの分まで食べたから」
あの店の辛さは程度を間違えていた。
カイルは平気な顔で二人分を食べ、ボクは代わりにパンをもらった。
「今度は先に聞く」
「ボク、いないんだから、そのままでいいでしょ」
「そうだった」
何でもない返事だった。
カイルもパンを持ったまま、少しだけこちらを見ていた。
ボクは何も考えないようにしてパンをちぎって口に運んだ。
◇
荷車は宿舎の門前に来ていた。
セーラたちが地図を確かめ、御者が馬の首を撫でている。
巡回路の幅や橋の状態を見て回る、いつもの仕事の延長だ。
魔王の城へ向かう朝とは違う。
こんなに言うことへ困るはずはなかった。
カイルが荷を積み終え、戻ってくる。
外套の留め具が横へずれていたので、指で直した。
「まだ出ないの?」
「もう少し。馬具を見てる」
「ふうん」
留め具から手を離す。
指先に、胸元の温かさが残る。
夜は眠ってほしい。
頼まれたことを全部引き受けすぎないでほしい。
できれば、ボクのことも思い出してほしい。
最後の一つは心の中に留めた。
「こっちの準備は任せた」
「うん。ミルネから数値が来たら、リゼットたちにも相談する」
「早める必要がありそうなら、宿へ知らせを」
「町の伝達所から送る。カイルの予定を変えないといけないときだけ」
仕事の確認なら、いくらでもできる。
確認が尽きた。
門の前で、二人とも用事がなくなる。
「……じゃあ」
ボクから手を出した。
別の道を偵察するときにもした、短い握手のつもりだった。
カイルが取る。
掌が重なり、指が回る。
それだけで終えるはずなのに、どちらも離さない。
手袋をしていない手は温かい。
関節の硬いところも、親指の付け根の古い傷も知っている。
小さくなったボクの手が、その中へ収まる。
「リオ」
呼ばれて見上げた。
好きだ。
早く帰ってきて。
約束した夜より先に、聞いてしまいたい。
どれも喉まで来て、出なかった。
「六日後」
「うん。待ってる」
そこだけは言えた。
◇
セーラに呼ばれ、カイルが返事をする。
手を緩める。
カイルの指が最後に指の根元へ触れ、離れた。
馬の方へ歩く背中を見て、ようやく気づく。
「カイル、手袋」
「……忘れてた」
「昨日、予備まで確認したのに」
「手を出されたから」
「ボクのせいにしないで」
笑ってしまう。
カイルも困った顔で笑った。
自分も留め具を直すために手袋を外し、片方だけ握ったままだった。
カイルに見つかる。
何か言われる前に急いで着けた。
「早く行って」
「さっきまで、行くなって顔だった」
「そんな顔してない」
「そうか」
寂しくないとは言わなかった。
門を出る直前、カイルが今度は手袋をした手を上げる。
ボクも上げた。
荷車が角を曲がるまで、そこにいた。
◇
一日目。
仕事は普通に進んだ。
学院で予備部品を確かめ、職人が作った外付け導路の継ぎ手を試す。
図面より素直に収まり、思わず声が出た。
「これ、いい」
隣へ顔を向けかけて、止める。
そこにいたのはナディアだった。
ナディアも嬉しそうに頷いている。
「数を作れれば、現地で石を削る量が減りますね」
「うん。これ、カイルにも――」
言いかけて、別に言い直す必要もないので、そのまま続けた。
「帰ったら見せる」
◇
二日目。
手帳の印が増えた。
継ぎ手。
新しい測り方。
学院の中庭にいた、妙に太い鳥。
最後の一つは魔法と何の関係もない。
消そうとして、残した。
◇
三日目。
夕食のあと、斜め向かいの扉を見た。
いないと分かっていても、一度は見てしまう。
椅子を動かす音も、窓を閉める音も、なくなってから気づくものばかりだった。
本を開く。
頁をめくる。
門前で離した手を思い出す。
思い出せば六日くらい平気になると思っていた。
逆だった。
早くまた触れたくなる。
◇
四日目の朝、ミルネから短い報告が届いた。
定期観測の値が、決めておいた目安を越えた。
塔が突然暴れ始めたわけではない。
冬の流れが、今年は早い。
今動けば、余裕を残して停止できる。
そのために、前の調査で目安を決めた。
学院で確かめると、ナディアも同じ場所へ指を置いた。
「予定を二日前へ。街道の連絡と溝の清掃は済んだそうです」
「部品も明日には向こうへ届く」
「到着日に接続試験、その翌日に停止ですね」
誰かが無理をして追いつく日程にはしない。
カイルも予定どおり戻ってから出発すれば間に合う。
伝達所からは、帰着後に打ち合わせをしたいという知らせだけ送った。
文面を見て、手が止まる。
ほかにも伝えたい。
でも、人に取り次いでもらう連絡へ「寂しい」と書く気にはなれなかった。
辛い煮込みを二人分食べないように、と一行足しかけてやめる。
それは帰ってから言う。
顔を見て言いたかった。
◇
リゼットとガレスへ予定を伝えると、すぐ地図が開いた。
二人の式の支度には影響しない。
診療所や訓練場の相談も、現地で少し進められるという。
「リオの余裕は?」
リゼットが聞く。
「ある。準備はナディアと分けてる。昨日も寝た」
「今日は、って言われなくてよかった」
顔へ出る前に言えたと思ったのに、見抜かれていた。
ガレスが作業域の図を指す。
「二体動いたら、広い方へ出す。カイルが後ろへ戻るときも、俺がここにいる」
「うん。放流の線とは重ならない側へ」
「分かった」
ガレスが引き受ける二体の位置と、カイルが戻る道を、同じ図へ書き足した。
◇
五日目。
予定どおりなら、明日帰る。
手帳の印は十一個になった。
夜、二つ消した。
太い鳥は残した。
◇
六日目。
学院から戻ると、宿舎の前に空の荷車があった。
足が速くなる。
車輪には六日分の乾いた泥がこびりつき、馬の汗と革の匂いもまだ残っている。帰ってきたばかりだ。
もう王都にいる。
急がなくても会える。
分かっているのに、廊下の角を曲がる速度までおかしい。
カイルは先に巡回の報告へ行っていた。
結局、最初に会ったのは打ち合わせの部屋だった。
目が合う。
「リオ」
「……おかえり」
言えた。
声は思ったより小さかった。
リゼットとガレスも待っている。
ボクはすぐ、学院から持ってきた図面を机へ出した。
「前倒しは聞いた」
「うん。この値なら、今のうちに動かした方がいい」
「迂回路は使える。幅も今回測ってきた」
仕事の話なら頭は動く。
足りなかった情報を書き込み、現地へ伝えることをまとめる。
その間、カイルは勇者で、ボクは魔法使いだった。
カイルの頬に土が残っている。
少し日に焼けていた。
気づいているのに、今は言わなかった。
◇
打ち合わせが終わる。
カイルは荷を部屋へ運び、ボクは図面を片づけ、明朝の集合を確かめた。
それから斜め向かいの扉を叩く。
開いた顔が、少し驚いた。
「忘れたことがあった?」
「うん。仕事じゃなくて」
部屋へ入る。
椅子には旅の外套。
机の脇に、まだ開けていない袋。
冷えた布と薪の匂い。
人が帰ってきた部屋の空気だった。
「おかえり」
「ああ。ただいま」
「さっき、ちゃんと言えなかったから」
「聞こえたよ」
「でも、もう一回言いたかった」
カイルが黙る。
手帳へ溜めた話より先に、言うことがあった。
「待ってた」
喉が熱くなる。
カイルは荷袋から手を離し、近くへ来た。
「俺も、先に会いたかった」
「学院に来ればよかったのに」
「行き違いになるかと思って」
「次は帰る時間を教えて」
「道で変わるぞ」
「だいたいでいい」
笑う。
その顔を見た途端、六日が急に長かったことを身体が思い出した。
抱きつきたくなる。
まだ、できない。
代わりに袖へ触れた。
カイルの手が、その指を包んだ。
◇
夕食は二人で軽いものを食べた。
最初に聞いたのは辛い煮込みの話だった。
「店の主人、覚えてた」
「二人分出された?」
「出されかけた。一人だって言った」
「ちゃんと学習したね」
「次は辛くないのを作るってさ」
「ボクの話したんだ」
「ああ」
当然みたいに答える。
ボクも継ぎ手と測定の話をした。
それから、太い鳥の話も。
「それ、魔法関係ある?」
「ない」
「何で手帳に」
「カイルに見せたかったから」
言ったあとで、二人とも一度黙る。
カイルが先に笑った。
「見たかった」
今度はこちらが笑う。
カイルは紙包みを出した。
古い街灯の模様の写しだった。
「前に描いたやつ。今回は紙を当てて取らせてもらった」
「裏側もある」
「見たいだろうと思って」
「見たい」
返事が速すぎて、また二人で笑った。
椅子を寄せる。
肩が触れる。
六日ぶん溜めた話は、その夜だけでは終わらなかった。
「続きは、塔から帰ってから」
「ああ」
「今度も、四人で帰ろうね」
カイルが頷く。
自分の部屋へ戻ると、斜め向かいから椅子を動かす音がした。
次に、窓の掛け金。
ボクは手帳を開き、話せた三つの印を消した。九個あった印は六個になった。次は何から話そうかと、残った欄へ目を戻した。