幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
翌朝、髪を結ぼうとして、両腕を途中で下ろした。
痛いというほどではない。
紐を後ろへ回すと、昨日使った肩が重い。両手を上げたまま結び目を作るのが難しかった。
片側ずつなら大丈夫だった。
鏡の前で少し苦労していると、朝食に呼びに来たカイルが扉から顔を出した。
「手伝うか」
「結べるようになったの?」
「前よりは」
前、というのがどの程度なのか知っている。
ボクは青緑の紐を渡した。
後ろへ立ったカイルが、髪を集める。
手つきが慎重すぎて、くすぐったかった。
「引っ張っていいよ」
「痛かったら言え」
「うん。……それで、カイルの腕は?」
「筋肉痛。リゼットにも見てもらった」
鏡の中で、カイルが肘を曲げる。
袖の端に、薄い色の痣が見えた。
固定観測環を支えていたところだ。
ボクは鏡越しに、その場所を指した。
「次に持つとき、布をもっと厚くする。下へ、肘を預けられるものもあった方がいい」
「俺が動けなくならない高さで頼む」
「分かってる」
髪が一度、ほどけかけた。
カイルが黙る。
「……今のは、ボクが話しかけたせい?」
「いや。俺が下手なせい」
「正直でよろしい」
笑うと、鏡の中の目がこちらを見た。
眉尻が僅かに下がっている。
髪を持つ指は離れない。
ボクはその顔をもう少し見ていたくて、急かすのをやめた。
◇
塔の前の道が開いたのは、昼前だった。
夜から朝にかけて、放流床の熱は下がっていた。
第二貯槽につないだ据置観測器の指針も動いていない。
外から来る流れは、新しい導路へ収まっている。
最後にベルクさんと歩いて確かめ、柵を脇へ寄せた。
最初に通ったのは、野菜を積んだ荷車だった。
御者が、遠回りをしなくて済むと手を上げる。
荷台から大根が一本落ちかけ、ボクたちより先にガレスが押し戻した。
昨日までの大きな仕事が、そんなところへ繋がっていた。
「何してるの」
ボクが聞くと、ガレスは大根を見た。
「見ての通りだ」
「式の椅子を確かめに行ったんじゃ」
「その途中だ。人を呼ぶなら、飯もいるらしい」
「知らなかったの?」
「人数分の飯が、こんなに大ごとだとはな」
隣のリゼットが、紙を一枚、ガレスの胸へ押しつけた。
「だから、招く人数を先に決めたの」
「決めた。そのあと、こいつが一人増えた」
御者を指す。
御者が照れたように笑った。
リゼットは紙へ目を落とし、何かを書き加えた。
主役の二人は、忙しそうだった。
だけど、招く人の話になると、声だけ少し軽くなる。
ボクも、明かりの調整を今夜のうちに済ませよう。
そう思って、隣へ目をやる。
カイルはボクを見ていた。
「何?」
「結び目、昼まで持ったな」
大事な成果らしい。
ボクは後ろへ手をやって、少し歪んだ紐へ触れた。
「夕方までは、このままにする」
カイルの口元が緩んだ。
そんな顔をされると、こちらも外しづらい。
◇
夕方、報告の控えをカイルの部屋へ届けた。
宿の小さな机には、旅の荷物が半分だけ収まっている。
明日の朝、王都へ戻る。
戻れば、戦勝祭の準備と最後の報告だ。
「ここ、署名をもらえる?」
カイルが椅子を引く。
ボクは横へ立ったまま、紙の位置を直した。
カイルが名前を書くのを見る。
昔から、最後の線が少し長い。
「終わり?」
「うん」
紙を受け取った。
用事は終わった。
受け取った紙を鞄へしまい、口を開いた。もう図面を出して話を延ばすつもりはなかった。
カイルが筆を置く音がした。
ボクがまだいることに気づいて、顔を上げる。
「リオ?」
「……仕事の話、終わった」
「そうだな」
「手伝ってほしいことも、もうない」
「それで?」
待っている顔だった。
カイルは筆を片づけずに待っている。机の紙を見ている間は言えそうになくて、ボクは顔を上げた。
「抱きしめてほしい」
カイルの手が止まった。
筆から離れたはずの指が、机の上で不自然に開いている。
聞こえなかった、とは言わなかった。
ボクの方が耐えられなくなって、続けた。
「昨日の、身体を支えてほしいっていう話じゃなくて」
「分かってる」
「寒いとか、そういうのでも」
「分かってるから、少し待って」
椅子を引く音が、いつもより大きかった。
立ち上がると、急に近い。
座っているときなら見下ろせた目が、頭の上へ行く。
この差に、まだときどき驚く。
昔もカイルの方が背は高かったけれど、ここまでではなかった。
「嫌だった?」
「嫌なら立たない」
「……それは、そうか」
カイルが腕を上げた。
途中で、腕が止まる。
「その、どこまで?」
「どこまでって」
「背中に手を回していいのか、それとも――」
「抱きしめてって、言ったでしょ」
言いながら、ボクの方から一歩入った。
カイルの胸に額が触れた。
固い。服の下にある身体の厚みが、そのまま分かる。
知っているはずだった。
泳ぎに行ったことも、狭い場所で押し合ったことも、眠っているカイルの上を跨いだことだってある。
でも、今のボクの身体が覚える厚さは、知らないものだった。
遅れて、背中に手が来た。
片方は肩甲骨の下。
もう片方は、腰より少し上。
指の位置を、数えられる気がした。
「……これでいいか?」
「……もう少し」
何を、と聞かれなかった。
腕が狭くなる。
服の間に残っていた隙間がなくなって、息を吸う場所までカイルの匂いになった。
いつもの石鹸と、外套の乾いた布と、それ以外の、カイルの匂い。
ボクはカイルの上着を掴んだ。
こちらの胸元まで触れてしまう。
気づいた途端、肩が固まった。
カイルの腕が緩む。
「大丈夫か」
「離さなくていい」
反射で言った。
言葉が出た瞬間、首まで熱が上がった。
腕が緩む気配の方に、身体が先に反応した。
うまく説明する余裕がなくて、ボクは上着を掴む指に力を入れた。
「……顔は、見ないで」
「今の位置だと、見えない」
「じゃあ、そのままで」
頭の上で、短く息を吐く音がした。
笑ったのかと思ったけれど、違った。
耳を寄せているところが、速い。
「カイル、心臓」
「聞かなくていい」
「ボクのせい?」
「ほかに何があるんだよ」
少し乱暴な返事だった。
胸の内側へ、熱が一気に広がった。
ボクがここへ入ってきただけで、いつも余裕のある呼吸が乱れている。
靴下の枚数まで知っている相手なのに、腕を回す場所に迷っている。ボクも、背中へ触れようとした手をどこへ置くか決められなかった。
少しだけ顔を上げた。
「見ないでって言ったのに、自分は見るのか」
「カイルが、どんな顔してるか気になった」
「今、見るな」
「やだ」
ここまで近くから、困った顔を見たかった。
カイルが目を閉じる。
額が、ボクの髪へ軽く触れた。
「リオ」
「うん」
「分かっててやってるだろ」
昔なら、何のこと、と聞けた。
今は聞けない。
「少しは」
答えたあと、背中の指が動いた。
撫でるほど大きな動きではない。
そこにあることを確かめるような、小さな動きだった。
ボクは、その指がもっと動けばいいと思った。
思って、いよいよ顔を埋めた。
◇
しばらくして、カイルが窮屈そうに肩を動かした。
「あのな」
「もう駄目?」
「腕は平気。リオが、俺の裾を握ってる」
見ると、上着の下の方をしっかり握っていた。
カイルが姿勢を変えようとするたび、布が引っ張られていたらしい。
「言ってよ」
「離されたくないのかと思った」
間違っていないので、何も言えなくなった。
指をほどき、代わりに背中へ回した。
両腕を全部使っても、思っていたほど余らない。
「こっちなら?」
「……その方が、ずっと困る」
「困るだけ?」
聞いた途端、抱く腕に力が入った。
「嬉しいよ」
耳の近くで言わないでほしかった。
顔を隠せる場所を探して、結局、カイルの胸へもう一度、額を寄せた。
背中へ回した手だけは、そのままにした。
「約束の日、ちゃんと話すから」
顔を伏せたまま言った。
「ああ」
「今、これで分かったことにしないで」
「しない」
抱きしめてもらって満足して、伝えるべきことをまた先へ送るのは嫌だった。
この腕を、次も欲しい。
欲しいと、何度でも言える関係になりたい。
カイルの手が髪の上を滑り、結び目の近くで止まった。
「紐、曲がってたな」
「カイルが結んだんだよ」
「知ってる」
「……明日は、もう少し上手にして」
「練習する」
「その言葉、今は禁止」
「髪は別だろ」
「じゃあ二回まで失敗していい」
「今朝は二回目で成功した」
「左右の長さ、違った」
腕の中で言い合っているうちに、髪紐の話へ戻っていた。