幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
ミルネで一緒に暮らし始めて、一年半ほどが過ぎた。
結婚式の日まで、カイルは三度、ボクに確認した。
「本当にセナ村でいいのか」
「いい」
「王都なら、式場も人も全部向こうで用意できる」
「だから嫌なんだよ」
三度目は、式の前日の夜だった。
先にセナ村へ着いていたボクは、実家の机いっぱいに広げた紙を片づけていた。カイルも向かいの家から来ている。
明日使う誓約書と、学院から持ち帰った観測記録が同じ机に載っている。
カイルが呆れたように、記録の束だけを持ち上げた。
「これ、明日じゃなくていいだろ」
「今日のうちに一行だけ書きたかった」
「一行で終わってない」
「途中で面白くなったから」
「知ってる」
その返事がいつもどおりで、少し笑った。
明日、結婚する。
二十年以上知っている相手と。
恋人になってからも、それなりに時間が経った。
一緒に暮らして、同じパンを重ねて買って、机の位置で揉めて、仕事で何日も離れて、帰ってきたら抱きしめるようになった。
それでも「結婚」という言葉だけは、まだ少しだけ大きかった。
「カイル」
「ん?」
「明日になっても、ボク、急に気が利くようにはならないよ」
「知ってる」
「朝、起きない日もある」
「知ってる」
「魔法の話を始めたら、たぶん途中で止まらない」
「それも知ってる」
「……何なら知らないの」
カイルが考える。
「明日、リオがどんな顔するか」
「見れば分かるでしょう」
「だから見たい」
また、そういうことを言う。
昔なら、適当に流していた。
今は、流せない。
「ちゃんと見てて」
「ああ」
返事が早かった。
セナ村で式をすると伝えたとき、母とエリナさんはほとんど同時に「それがいい」と言った。
父とローディンさんは、その翌週には川原の広さを見に行ったらしい。
ボクたちより先に、ずいぶん準備が進んでいた。
◇
翌朝、セナ村の川は晴れていた。
初夏の水は光を細かく跳ね返し、岸辺の草にはまだ朝露が残っている。
子供の頃、飛行灯を落とした場所から少し上流。
平らな草地へ椅子が並び、簡素な白布が風で揺れていた。
前列には、父と母、ローディンさんとエリナさんの席が並んでいる。
二十年前、ボクとカイルが泥だらけで帰るたびに二人まとめて叱っていた四人が、今日は揃ってここにいる。
王都で開けば、もっと大きな式にできた。
大神殿の広間も使えたし、四英雄の婚礼だと言えば、王宮だって何かしら口を出しただろう。
全部断った。
ここがよかった。
十五歳まで毎日のように歩いた道がある。
カイルと喧嘩した川原がある。
術式を書き損じて街灯を消した場所もある。
ボクが魔法使いになる前から、ボクを知っている場所だった。
「リオ」
後ろから呼ばれる。
振り返ると、リゼットが立っていた。
淡い色の礼装に、髪を低くまとめている。
「髪、最後に見る?」
「もう三回見た」
「四回目」
「大丈夫」
「なら、顔だけ」
頬へ触れられる。
「何」
「少し赤い」
「暑いから」
「そういうことにしておく」
笑われた。
少し離れたところでは、ガレスがアルトと何か運んでいる。
ナディアは川辺に浮かべた小さな灯具を見て、勝手に術式を確認していた。
「それ、今日くらい触らないで」
声を掛けると、ナディアが顔を上げる。
「見るだけよ」
「ボクもそれ言って、だいたい触る」
「あなたと一緒にしないで」
その横を、村の子供たちが走っていく。
王都から来た学院の術師が道を空け、ボクへ頭を下げた。
「魔法使い様、おめでとうございます」
「ありがとう」
すぐ後ろで、アルトが笑う。
「リオ、そこの紐踏んでるぞ」
「先に言ってよ」
礼装の裾を持ち上げる。
学院の術師が少し驚いた顔をした。
王都では、魔法使いリオ・フェルン。
ミルネでは、観測所のリオ。
ここでは、昔から変なものを分解していたリオだ。
どれか一つに決める必要はなかった。
◇
着たのは白ではなく、深い青緑の礼装だった。
長衣の形は普段の服に近い。
ただ、生地だけがずっと軽く、歩くと裾が水のように揺れる。
銀灰色の髪は後ろで一つにまとめた。
紐の色は黒にしようと思っていたのに、結局、青緑を選んだ。
カイルが最初に褒めた色だった。
鏡の前で迷った黒い紐は、予備として鞄へ入れてある。今日はこの色を見てほしかった。
川辺の向こうから歓声が上がる。
カイルが来た。
濃い色の礼装。
剣は持っていない。
聖剣も、今日は預けてある。
何も持たない手が、こちらへ伸びる。
ボクはその手を取った。
昔から知っている手だった。
川を渡るときも。
石段を上るときも。
魔王城で術式をつないだときも。
何度も触った。
今日は、指を絡める前に少しだけ緊張した。
「何」
カイルが小声で聞く。
「別に」
「手、冷たい」
「カイルは熱い」
「緊張してるからな」
「するんだ」
「するよ」
少し安心した。
◇
式そのものは短かった。
大神殿から来た祭司が、二人の名前を読み上げる。
カイル・アスター。
リオ・フェルン。
勇者でも、魔法使いでもなく、最初に呼ばれたのは名前だった。
誓約書へ署名する。
カイルの字。
その下へ、ボクの字。
二つ並んだのを見て、思ったより胸が詰まった。
「誓いますか」
そう聞かれて、カイルが先に答えた。
「誓います」
迷いがなかった。
次にボクを見る。
川の音が聞こえる。
遠くで、誰かが咳をした。
風が髪を一房だけ頬へ運ぶ。
カイルの指が動きかけて、止まった。
今は式の途中だからだ。
それが少しおかしかった。
「誓います」
自分の声は、思ったより普通だった。
もっと震えるかと思っていた。
でも、そのあとカイルがこちらを見た。
目が合う。
そこで急に、何を言ったのか分かった。
これからも、この人と生きる。
今までだって、そうするつもりだった。
言葉にしただけだ。
なのに、言葉にしたから変わるものもある。
「口づけを」
祭司に言われた。
近くで、ガレスが咳払いをする。
リゼットが肘で止めた気配がした。
ボクはカイルを見る。
「短くしないでよ」
小声で言う。
カイルの目が少し見開かれた。
「今言うのか」
「今だから」
笑い声が後ろで漏れた。
カイルが顔を近づける。
もう鼻は当たらない。
何度もしたから、角度を知っている。
唇が触れる。
いつもより少し長い。
離れたとき、拍手と歓声が一度に来た。
母とエリナさんは揃って目元を押さえていた。
父とローディンさんは、その隣で笑っている。
アルトの声が一番大きかった。
「長い!」
「うるさい!」
反射で言い返した。
皆が笑った。
カイルも笑っていた。
勇者の笑顔ではなかった。
ボクしか知らなかった顔を、今日は大勢が見ていた。
少し惜しい。
でも、まあいい。
これから毎日見られる。
◇
宴は夕方まで続いた。
村の料理と、王都から持ってきた菓子と、ミルネのパンが同じ卓上に並んだ。
ガレスは三度皿を取りに行き、リゼットに二度止められた。
ナディアは学院の人間と、いつの間にか固定観測環の話を始めていた。
「今日くらい仕事しないで」
言うと、全員がこちらを見る。
「あなたが言う?」
「今日はしてないよ」
机も図面もない。
たぶん。
そのとき、川辺で青い光が上がった。
飛行灯だった。
一つではない。
村の子供たちと学院の術師が作った小さな灯りが、十個ほど水面の上へ浮かんでいる。
どれも人の背より低い。
風に押されると少し傾き、それから戻る。
ミルネで直した飛行灯の補正式を、簡単にしたものらしい。
「誰がやったの」
ナディアが目を逸らす。
「ナディア」
「図面を少し貸しただけ」
「勝手に?」
「祝いなんだからいいでしょう」
言い返そうとして、やめた。
水面の上を灯りが流れている。
昔は一つ飛ばすだけで川へ落とした。
今は十個浮いている。
その横に、カイルが立つ。
「綺麗だな」
「うん」
「昔より」
「昔のも悪くなかったよ」
「全部落ちたけど」
「最後は光ってた」
「水の中でな」
肩で押した。
カイルが笑う。
ボクも笑った。
◇
夜は、村の外れにある小さな宿へ泊まった。
皆は明日まで残る。
ボクたちだけ先に抜けた。
誰にも止められなかった。
むしろ、リゼットに早く行けと背中を押された。
部屋へ入る。
扉が閉まる。
急に静かになった。
昼間ずっと聞こえていた人の声がなくなる。
窓の外には川の音だけがある。
寝台は一つ。
恋人になってから、一年半ほど。キスは何度もしたし、抱きしめられたまま眠りかけた夜もある。それでも、その先へは進まなかった。
一緒に暮らし始めた冬、キスのあとでカイルの手が背中を下りてきたことがある。服の裾へ触れたところで、ボクはその手を押さえた。
「……まだ、待って」
カイルの手が止まった。
「分かった」
ボクの肩へ額をつけたまま、しばらく動かなかった。やがて髪へ口づけて、腕を緩めた。
そのあとも隣へ座ったまま、朝の巡回で通る道の話をした。声はいつもどおりだったけれど、膝の上で組んだ指は、しばらくほどけなかった。
春になっても、キスのあとに一度離れて、また戻ってくる夜があった。
それでも、カイルの手が服の内側へ入ることはなかった。
カイルが上着を脱ぐ。
ボクも髪の紐へ手を掛けた。
結び目が、うまくほどけない。
「貸して」
後ろへ回られる。
指が髪に入る。
昔は、髪を結ぶだけであれほど慌てていた。
今は手つきがずっと早い。
紐がほどける。
髪が背中へ落ちた。
「慣れたね」
「何年やってると思ってる」
「最初、曲がってた」
「覚えてる」
「ボクも」
鏡を見る。
礼装を着た自分がいる。
銀灰色の髪。
前とは違う身体。
もう見慣れた部分もある。
今でも、不意に知らないもののように感じる朝もある。
ボクは鏡の中で、ほどけた髪を肩から後ろへ逃がした。カイルに触れてもらいたいと思った場所が、少しだけ見えた。
カイルが鏡越しにこちらを見る。
「リオ」
「うん」
「嫌なら、今日は何もしなくていい」
やっぱり言った。
たぶん言うと思っていた。
ボクは振り返る。
「ずっと、触れたかった?」
カイルの目が少しだけ細くなる。
「触れたかった」
「何も言わなかった」
「言ったら、急かすだろ」
「ボクが?」
「俺が」
少しだけ、息が止まった。
「……長かった?」
「長かったよ」
返事に、間がなかった。
カイルが近づく。
まだ触れない。
「今夜は、待てそうにない」
低い声だった。
普段のカイルなら、絶対に先に言わない言葉だった。
胸の奥が熱くなる。
怖くないわけではない。
知っているカイルが、ボクに触れたくてここにいる。そう思うと、ボクも今ある距離を縮めたくなった。
「嫌なら言うよ」
「ああ」
「だから、先回りしてやめないで」
カイルが頷く。
ボクから一歩近づく。
胸元へ手を置く。
鎧も聖剣もない。
ただのカイルの身体だった。
首へ腕を回す。
耳元まで顔を寄せる。
息が触れる距離で、少しだけ声を落とした。
「いいよ」
カイルの呼吸が止まる。
「……めちゃめちゃにして」
言った自分の耳まで熱くなる。
離れようとした腰を、今度は強く引き寄せられた。
「そういうこと言われたら、落ち着けない」
「落ち着かなくていい」
首へ回した腕に、少しだけ力を入れた。
「カイル、こっち見て」
返事の代わりにキスをされた。
一度。
二度。
三度目は、最初から長かった。
背中へ回った腕の力が、いつもより強い。
逃がさないというより、ようやく触れていい場所を確かめるみたいだった。
礼装の留め具へ指が掛かる。
一つ外れるたび、昼間まできちんと形を保っていた布が少しずつ軽くなる。
肩へ落ちた髪を払われる。
首筋へ唇が触れた。
思っていたより近いところから息が漏れて、ボク自身が一番驚いた。
カイルの手が止まる。
「……リオ」
「止めないで」
今度は聞き返されなかった。
腰を抱く腕へ、自分から身体を預ける。
寝台の縁が膝の裏へ触れ、次の瞬間には敷布が大きく沈んだ。
髪が広がる。
近すぎるカイルの顔が、灯りの下ではっきり見えた。
勇者でも、相棒でもない。
二十年以上知っているのに、今まで一度も見たことのない顔だった。
「そんな顔するんだ」
「誰のせいだ」
「ボク」
「分かってるなら、もう少し静かにしてくれ」
「無理」
言った途端、また口を塞がれた。
灯りを消す前から、川の音は遠くなっていた。
暗くなってからも、触れられる場所だけは分かった。
肩。
背中。
腰。
指を絡めれば、そこだけは昔と同じだった。
けれど呼吸も、声も、身体の熱の集まり方も、昔とは違った。
途中で何度も名前を呼ばれた。
ボクも呼んだ。
知っている相手の、知らなかった呼吸を覚えた。呼ばれるたび、繋いだ指を握り返した。
その先は、二人だけが知っていればよかった。
◇
朝、目を開ける前に、身体が昨夜を思い出した。
腰の奥と腿に、普段とは違う鈍い重さが残っている。
寝返りを打とうとして、思わず息が止まった。
「……痛」
小さく漏らす。
隣で布が動いた。
「リオ?」
カイルの声は、まだ眠そうだった。
目を開ける。
昨日きれいに整えられていた寝具は、見る影もなかった。
敷布は大きく皺になり、毛布は半分床へ落ちている。
枕も一つ、寝台の足元まで移動していた。
白い布の一部には、昨夜ついた汚れと、薄い血の跡が乾いて残っている。
見た瞬間、顔が熱くなった。
「……カイル」
「何」
「……見ないで」
「もう見えてる」
「そういう意味じゃない……。全部見られたのに、恥ずかしいのは恥ずかしい……」
自分で言って、余計に顔が熱くなる。
昨夜、自分で何を言ったかまで一気に思い出す。
『めちゃめちゃにして』
布団を頭まで引き上げた。
「今さら隠れるのか」
「朝は別」
カイルが笑った。
その笑い声が少し腹立たしい。
でも、布団の端から出ていく気にはならなかった。
「痛むか?」
声が近くなる。
「……ちょっと」
「それは……悪かった」
「謝ってほしいとは言ってない」
すぐ答えた。
カイルが黙る。
布団の中で、手を探す。
見つけて引いた。
「じゃあ、どうしてほしい」
「こっち」
「こっち?」
「もう少し」
腕が伸びてくる。
自分からその中へ潜った。
胸へ額を押しつける。
カイルの身体は温かかった。
昨夜は、それだけでも落ち着かなかったのに、今は逆だった。
「今日は、帰らなくてもいい?」
「帰るところ同じだろ」
「そういう意味じゃなくて」
腕へ少し力を入れる。
「もう少し、ここにいたい」
言ってから、自分でも驚いた。
こんなふうに甘える言葉を、朝から自分が言うとは思わなかった。
カイルの手が、背中をゆっくり撫でる。
「いるよ」
「……うん」
「仕事は?」
「今日くらい、いい」
「珍しいな」
「うるさい」
そう言いながら、離れなかった。
頬を胸へ押しつける。
耳の近くで心臓が鳴っている。
昨夜より、ずっと落ち着く音だった。
しばらくして、カイルの指が髪へ入る。
「昨日、短くなかった?」
聞かれた。
「……全然」
「よかった」
「待っていられないって、本当だったね」
カイルが視線を逸らした。
「言っただろ」
「言うの、遅かった?」
「それは違う」
返事は早かった。
「昨日、言ってくれてよかった」
胸の奥が、少しだけ痛いくらいに縮む。
「……そういうこと言うと、また離れたくなくなる」
「今日はいいだろ」
今度はカイルの方から抱き直された。
窓の向こうでは、昨日と同じ川が流れている。
机には誓約書の控えが置いてある。
床には、昨夜脱いだ礼装がまだ畳まれずに残っている。
寝具も、あとで片づけなければならない。
身体にも、昨日までなかった痛みがある。
全部、昨夜の続きだった。
きれいな言葉だけで残す必要はなかった。
少し痛くて。
かなり恥ずかしくて。
それでも、今はカイルの腕の中がよかった。
「帰ろうか」は、昼になってから言えばいい。
今はまだ、ここにいる。
帰るところは、もう同じなのだから。
本編はこれにて完結です。ただし、おまけとして後日談があります。