幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
翌朝、リゼットは観測盤を寝台の脇へ運んできた。
木枠に薄い硝子板を六枚重ねた、膝ほどの大きさの診断器だった。
廊下の向こうで器を重ねる音がする。窓辺の硝子には夜の冷気が残り、観測盤を寄せるリゼットの指先まで少し赤かった。
中央には掌を置く丸い窪みがあり、その周囲を細かな目盛りと銀線が囲んでいる。
魔王城で首から下げていた観測環とは用途が違う。
観測環が、つないだ一点の魔力を追うための小さな感知具なら、観測盤は身体や大きな術式全体へ弱い魔力を通し、返ってきた反応を面として映す道具だ。
掌を置くと、硝子の中へ細い光が何本も浮かぶ。
身体のどこを魔力が通り、どこで反応が弱く、どこに異物があるのか。切った身体を見る代わりに、光の偏りで内側を読む。
王都の神殿で見たものより小型だったけれど、仕組みは同じだ。
リゼットが持ってきた紙には、昨夜の観測結果が写してあった。
その隣に、ボクの出征記録の写しを並べる。
名前。
年齢。
魂紋。
魂紋の欄には、波形を簡略化した細い線が印刷されている。
昨日の検査で返ってきた揺れと、出征前の記録は一致した。
身体が変わっても、「リオ・フェルン本人」という確認だけは変わっていない。
紙に書かれたリオ・フェルンは、二十三歳の男のままだった。
「まず、残っている傷を治すわね」
リゼットがボクの左腕を取った。
肘の少し下に、擦り傷がある。魔王城で倒れたときにできたものらしい。命に関わる傷を先に治したので、こうした小さなものは残っていた。
リゼットの手の下で、柔らかい光が広がる。
薄い痛みが消え、赤くなっていたところが周囲と同じ色になった。
細い腕。
滑らかな皮膚。
治ったあとにも、そこにあったのは今のボクの身体だった。
「……もう一度、観測してもいい?」
「ええ」
掌を硝子へ置く。
光の線が硝子の下から立ち上がる。
ボクは窪みへ置いた掌から、ほんの少しだけ魔力を流した。
強い魔法を使うわけではない。観測盤の銀線へ魔力を預け、身体の内側を一周して戻ってくる反応を読むだけだ。
胸の辺りには細い枝が多い。
腹の奥では光がゆっくり広がり、手足へ行くほど一本の線へまとまっていく。
リゼットが昨夜取ったものと、ほとんど同じだった。
異物の反応はない。
ほかの誰かの魂もない。
身体の形を、外から無理に押さえつけている術もない。
しばらく見てから、ボクは硝子へ置いた指を動かした。
観測盤の光も、それに合わせて動いた。
「変化を維持してる術式が、ないんだね」
「ええ」
「今も、何かに変えられ続けてるわけじゃない」
「そういう反応は出ていないわ」
リゼットの向こうに、カイルとガレスがいた。
二人とも口を挟まず、こちらを見ている。
ボクはもう一度、治ったばかりの腕へ視線を落とした。
分かりたくなかった。
けれど、分かってしまった。
「外だけじゃなくて?」
「内臓も含めて。私が診られる範囲では、今の身体として矛盾なく繋がっているわ」
その言葉を聞いたとき、ボクは頷いただけだった。
内臓まで、という意味を細かく考える余裕はなかった。戻せるかどうか、それしか頭になかったからだ。
「だから、治癒が効くんだ」
リゼットが、ゆっくり頷いた。
治癒の魔法は、ただ傷を塞いでいるわけではない。その人の身体が本来どうあるべきかを読み取り、損なわれたところを補っている。
今、ボクの傷は治った。
この身体へ、正しく戻った。
「基準の方が……変わってる」
自分で言うと、ひどく簡単な話に聞こえた。
ボクの身体に何かが被さっているのなら、それを外せばよかった。呪いが今も働いているなら、その術式を止めればよかった。
けれど、もう終わっている。
変化したあとだけが残っている。
リゼットは観測盤の光を弱めて、ボクの顔を見た。
「魂に結びついた、身体の基準そのものが変わっているの。私の治癒は、それに沿って働く。強い魔法を使っても、戻す先は同じよ」
カイルが、わずかに身体を動かした。
「王都の神殿なら」
「同じことになるわ。扱える魔力量が増えても、以前の身体へ戻す情報がないの」
リゼットの声は静かだった。
ボクを安心させるために柔らかくした声ではなく、間違いなく伝えようとする声だった。
「リオの方が詳しいと思うけど記録の魂紋は、本人かどうかを確かめるためのものよ。さっき見た、あの固有の揺れ方ね。でも、そこに身長や骨格や性別が書かれているわけではない。身体を再現するための設計図にはならない。呪いとして取り除けるものも、残っていない」
ガレスが目を伏せる。
カイルは、まだリゼットを見ていた。
ボクだけが、硝子の縁に残った小さな汚れを見ていた。昨日、誰かが触れた指の跡だろうか。そこだけ光が滲んでいる。
拭いた方がいい。
そう思ってから、今考えることではないと気づいた。
「リオ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
リゼットの灰青色の目が、まっすぐこちらを向いていた。
「あなたを、元の身体には戻せない」
リゼットはそこで一度、観測紙を伏せた。
「急に身体そのものが変わっているから、しばらくは体調の波も見ておいて。眠気でも痛みでも、前になかったことがあれば記録して。今の身体に何が普通なのか、私たちにもまだ全部は分からないから」
「分かった」
そのときは、それも検査の続きだと思っていた。
頷こうとした。
喉が動いただけで、うまくできなかった。
「……うん」
声は一拍遅れて出た。
分かっている。
説明を聞く前から、同じ答えに辿り着いていた。反論できることも、追加で確かめたいことも、今は思いつかなかった。
それなのに、もう一度調べたら違う結果になるのではないかと、硝子へ手を戻しかけた。
途中で止める。
リゼットは、その手を見ないふりをしてくれた。
「少し、一人にしてもらってもいい?」
言うと、ガレスが最初に立ち上がった。
リゼットが観測盤を片づける。カイルはボクの手元へ水の入ったコップを寄せてから、二人のあとに続いた。
扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかっても、ボクはしばらく同じ姿勢で座っていた。
◇
寝台の脇には、畳まれた服があった。
ガレスが持ち帰ってくれた、ボクの服だった。
濃紺の長衣は、胸のあたりが焦げている。その下に重ねていた灰色の上着は、リゼットが洗ってくれたらしく、土の汚れが薄くなっていた。
手を伸ばして、一番上の上着を取る。
袖口の内側に、小さな補修跡があった。
旅に出てから二度、自分で縫ったところだ。
最初は糸を引きすぎて腕を通しにくくなり、結局、カイルに解いてもらった。
針仕事までこいつの方が上手いのかと腹が立って、二度目は見せずに直した。
今見ると、やはり縫い目が歪んでいる。
袖へ、片腕を通しかけた。
布の中で指先が迷った。
手首があるはずのところに、まだ袖が続いている。もう少し腕を伸ばしても、以前のようには指が出なかった。
そのまま、動けなくなった。
昨日、寝間着の袖が余っていたときは、借りものだからだと思えた。
杖が太く感じても、そのうち慣れるだろうと思えた。
どこかで、戻るまでのことだと思っていた。
上着から腕を抜く。
畳み直そうとして、肩の位置が分からなくなった。いつもなら何も考えずにできるのに、どこを折ればいいのか、手が止まる。
膝の上へ、そのまま置いた。
二十三年、使ってきた身体だった。
好きか嫌いかなど、毎朝考えていたわけではない。
手を伸ばせば届く場所が分かっていて、歩くときに足元を確かめる必要もなくて、自分の声に驚かずに済む。
それが、もうない。
これから先も、ない。
指を握る。
膝に落ちた髪が、手の甲を撫でた。
邪魔だと思って耳へかけたのに、俯くと、また落ちてきた。
そんなことが、ひどく腹立たしかった。
髪くらい、どうにでもなる。結べばいいし、短く整えてもいい。服だって仕立て直せばいい。頭の中には、できることがいくつも浮かぶ。
どれも、今欲しい答えではなかった。
目の奥が熱くなって、上着を握る指に力が入った。
◇
扉が鳴ったときには、窓から差す光の位置が変わっていた。
二度。
そのあと、間がある。
「リオ」
カイルだった。
返事をしようとして、喉を鳴らした。
まだ、この声で泣きそうになったところを聞かれるのは嫌だった。
「……入って」
扉が開く。
カイルは盆を持っていた。
湯気の立つ器と、小さくちぎったパンが載っている。
部屋へ入ると、ボクの膝にある服へ一度視線を落とし、それから机の空いたところへ盆を置いた。
「温かいうちに食べろって」
「リゼット?」
「ああ。食欲がなければ、汁だけでも」
ボクは頷いた。
カイルは椅子を引き寄せ、寝台の隣へ座った。
何も言わなかった。
その沈黙がありがたくて、同時に落ち着かなかった。
普段なら、ボクが本を読んでいればカイルも黙っている。
そういう時間はいくらでもあった。
今は、何か言わなければ、さっきの話が部屋いっぱいに広がってしまいそうだった。
「変だね」
カイルが顔を上げる。
「何が」
「怪我は治ったのに。これ以上、治すところもないって」
言いながら、左腕を持ち上げた。
傷は、もうどこにあったかも分からない。
「ボク、昨日より元気なんだ。朝ごはんも、ちゃんと食べられたし」
「ああ」
「魔力だって、減ってない」
そこまで言って、続きが出なくなった。
元気なら、どうすればいいのだろう。
痛ければ、痛いと言えた。
具合が悪ければ、寝ていればよかった。
けれど健康な身体で、元に戻れないと言われたとき、自分が何を訴えればいいのか、ボクには分からなかった。
カイルの手が、膝の上で一度握られた。
「俺に向いてた術だった」
低い声だった。
ボクはカイルを見る。
「知ってる」
「リオが引き受けなければ」
「うん」
カイルは、そこで黙った。
ボクも、簡単に大丈夫とは言えなかった。
今、大丈夫と言ったら、この先つらくなっても、同じことを言い続けなければならない気がした。
「あのとき、そっちには届かないと思ったんだ。剣を抜くより、あの術の方が速かった」
「……ああ」
「ボクの術は、もうつながってたから。動かすなら、ボクの方が間に合った」
カイルは何も言わずに聞いていた。
ボクは膝の上の服を見下ろす。
「こうなるって分かってたわけじゃないよ」
「分かってる」
「何でも平気で引き受けられるわけでもないからね」
「分かってる……」
二度目の返事は、掠れていた。
それを聞いて、ようやく自分が責めたいわけではなかったのだと分かった。
ただ、怖かったことを、知っていてほしかった。
「……次、変な術が来たら、そっちがどうにかして」
「ああ」
「ちゃんと、ボクにも分かるようにね」
「そうする」
カイルの肩から力が抜けた。
ボクは上着を持ち上げ、今度はどうにか畳んだ。置くところを探していると、カイルが手を差し出したので、そのまま渡す。
カイルは服をほかの荷物の上へ重ねた。
仕舞い込んだり、どこかへ持っていったりはしなかった。
それを見て、息を吐いた。
「カイル」
「うん」
「ボクさ」
言いかけて、寝間着の袖を指で引いた。
これも、いつまでも借りてはいられない。旅をするなら服が要るし、靴も、今の足に合うものを用意しなければならない。
そういう先のことを考えると、自分まで知らない誰かになるような気がした。
「この先、女の人が着るような服を着てても」
カイルが、ボクの方へ向き直る。
「今までみたいに、話してくれる?」
口に出してから、ひどく頼りない質問だと思った。
でも、ほかのことはリゼットにも聞ける。身体のことも、生活で困ることも、聞けば教えてもらえるだろう。
これは、カイルにしか聞けなかった。
カイルはすぐには答えなかった。
ただ、昨日みたいに目を逸らすこともなく、ボクの顔を見ていた。
「リオ」
「……うん」
「昨日の話、途中だっただろ」
何のことか、一瞬分からなかった。
「床の術が、柱を通ってたってやつ」
ボクは、机に置いた手帳へ目を向けた。
開いたままの頁に、描きかけの線がある。昨日は疲れて、あのあと途中で眠ってしまったのだった。
「あれ、まだ全部は分かってないよ」
「分かってるところからでいい」
「長くなるけど」
「いつもそうだろ」
少しだけ、腹が立った。
確かにそうだけれど、言い方というものがある。
そう思えたことに気づいて、胸の奥が、ゆっくり緩んだ。
「そっちが途中で分からなくなるから、説明が増えるんだよ」
「じゃあ、分かるように頼む」
「注文が多いなあ」
声が少し震えたので、最後は顔を伏せた。
カイルは気づいていたと思う。
そこには何も言わなかった。
◇
汁を半分ほど飲んでから、ボクは壁に立てかけられた杖を見た。
「それ、取って」
「使うのか」
「少しだけ。疲れたらやめる」
カイルは頷いて、杖を渡してくれた。
柄に指を回す。
やはり、感触は以前と違う。手の中で収まりの悪い場所を確かめながら持ち直すと、カイルが何か言いかけた。
けれど口を閉じ、ボクが落ち着くまで待ってくれた。
息を吸う。
肺に空気が入る深さが、以前とは違った。
いつものところまで吸おうとして、肩に力が入る。
いったん吐いてから、楽に呼吸できる量を探した。
難しい術を使うつもりはなかった。
まずは、明かり。
何度も使ってきた、小さな魔法。
杖の先へ魔力を送る。途中で揺れたので、指の力を緩めた。
淡い光が、一つ生まれた。
薄い青を含んだ、白い光。
見慣れた色だった。
寝台の上へ浮かべると、カイルが顔を寄せる。目に映った明かりも、記憶の中にあるものと同じだった。
「……ついた」
確かめるように言う。
「ああ」
ボクは光を見たまま、もう少しだけ魔力を流した。大きくしなくていい。ただ、揺れないところまで整える。
光の縁が、丸くなった。
そこでようやく、ずっと力が入っていた肩を下ろせた。
「窓際の灯り、まだ消したままでいいよ」
「これを使うのか」
「うん。しばらく、このままがいい」
カイルは頷いて、引きかけていた椅子を元の場所へ戻した。
ボクは明かりを二人の間に置いた。
細くなった自分の指にも、大きなカイルの手にも、同じ色が落ちていた。