幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
地面に引いた円の真ん中へ、水を一滴落とす。
頭上では朝の洗濯物が風を受け、白い影が測定円の上を横切った。昨夜の雨を含んだ土から、湿った匂いが上がる。
円そのものに魔力はない。
ただの測定用の目印だ。
ボクが使っているのは、ごく単純な水の魔法だった。
杖の先で空気中の水分を集める。小さな球にまとめる。狙った位置で支えを切り、落とす。
その三つの命令を杖の中の短い術式へ通し、魔力を流すと、初めて水滴という現象になる。
術式は命令。魔力はそれを動かす力。起きた現象が魔法。
こんな基礎なら、目を閉じていてもできると思っていた。
実際、以前はできた。
今は、円の右側へ落ちる。
一度目。
二度目。
三度目。
毎回、中心から指二本ぶん右だった。
同じずれ方なら、集中力より姿勢か道具の問題だ。
「目印を右へ動かせばいいんじゃないか」
「それじゃ測定にならないよ」
木箱に腰掛けたガレスが、もっともな顔で頷く。
療養所の裏庭は、洗濯物の乾く匂いがした。
魔王城へ出発したときには武器の整備に使われていた場所で、今は怪我人が少しずつ歩く練習をしている。
ボクの借りた一角だけ、地面に円が並んでいた。
リゼットに外へ出る許可をもらったのは、今朝だった。
腕に通した灰色の上着は、昨夜からリゼットに手伝ってもらって、袖を内側へ折り留めてある。
長衣も焦げた裏地を外して補修した。
鏡の中では知らない魔法使いに見えたけれど、袖口のインク汚れは自分のものだ。
「角度だと思う。身体が小さくなったのに、前と同じ位置へ杖を出してるから」
「柄を短くするか?」
「まだ。その前に、握る場所を変えてみたい」
ガレスは手元の金具を二つ並べた。杖の柄へ取り付ける錘だ。
ガレスの持つやすりが動くたび、細かい金属粉が布の上へ落ちる。
左腕にはまだ包帯が残っていたけれど、昨日リゼットに注意されたような無理な持ち方はしていなかった。
ボクは杖を少し短く持つ。頭で覚えている位置へ手を戻そうとするせいで、かえって肩に力が入った。
「誰かに支えてもらえば」
「うん。そうしたい」
ガレスの方へ振り返りかけたところで、裏口からカイルが出てきた。片手には書類、もう片方には水の入った瓶がある。
ちょうどいいときに来た。
「カイル、こっち」
「どうした」
「手、貸して」
カイルは書類をガレスの横へ置き、瓶を木箱の上へ載せた。それから何の説明も求めずに、ボクの差し出した腕を取った。
説明を最後までしなくても手が出てくる。
けれど、支える位置は違った。
「そこじゃなくて。もう少し下」
「肘か?」
「ううん、手首の裏。親指はこっち」
カイルの手を取り、自分の手首の下へ動かす。剣を握る硬い指が、以前より広い面積に触れたように感じた。
いったん杖から片手を離し、カイルの手を見た。
「……大きいね」
「何が」
「手。前からこんなだった?」
「たぶん、変わってない」
そのとおりだ。変わったのはボクだった。
見比べていると気分が沈みそうだったので、カイルの掌へ自分の手首を預け、地面の円へ向き直った。
「支えるだけ。ボクが動かしても、反対へ力を入れないで」
「分かった」
杖の先へ魔力を流す。
先端の銀線が淡く光り、空気中の水分が透明な粒になって集まる。
粒同士が吸い寄せられ、親指の爪ほどの水球になる。
小さな球の底に、裏庭の白い洗濯物が逆さに映った。
カイルの指が動いたので、手首の裏へ意識を向ける。
「それくらい。今の角度を覚えてて」
放した水は、さっきより内側へ落ちた。
原因は、やはり構え方だ。魔力の出方まで変わったわけではないと分かり、思わず声が弾んだ。
「ほら。やっぱり、魔力じゃない」
「見えてる」
「じゃあ、もう少しだけ――」
説明しながら顔を向けると、思っていたより近くにカイルの顎があった。
カイルはボクの斜め後ろへ立っていたらしい。
以前なら横を向くだけで目が合ったはずなのに、今は見上げないといけない。
カイルの視線が、ボクの顔へ落ちる。
返事が来ない。
「聞いてる?」
「ああ」
「ボクの顔に術式が書いてあるわけじゃないんだけど」
ガレスが咳をした。金属粉でも吸い込んだのだろうか。
カイルは短く息を吐いて、地面の円を見た。
「次は、どっちへ」
「内側。合図するね」
声で説明すると長くなるので、補助術式をつなぐ。手の下で三度、小さな光を脈打たせた。
支えて。
旅の途中から四人で使ってきた合図だった。
二度なら任せた、三度なら支えが必要。
大声を出せないときにも、剣や杖が触れていれば伝えられる。
カイルが、ぴたりと手を止めた。
その位置から少しずつ腕を動かしていく。
カイルはボクの動きを妨げず、頼んだ分だけ重さを受けてくれた。
こういう作業を初めて頼んだわけではない。
戦いのあと、腕が震えるほど魔法を使った夜にも、同じように支えてもらったことがある。
水滴は、円の中央に落ちた。
「そこ」
声が思ったより大きくなった。
もう一度。同じ場所へ落ちる。三度目も同じだった。
ボクは笑って、カイルの腕を軽く叩いた。
「できた」
「ああ。できたな」
カイルも笑った。その顔がいつものものに戻ったのが嬉しくて、もう一つ円を指す。
「次、あっち。距離を延ばしても同じか確かめたい」
「先に休憩だ」
木箱の方から声が飛んできた。
ガレスが瓶を持ち上げている。いつの間にか、やすりが布の上へ置かれていた。
「まだ、そんなに」
「リオの肩が上がっている」
「……よく見てるね」
「見ていれば分かる」
言い返しにくいことを言われた。
カイルの手を軽く押す。
「もういいよ。ありがとう」
カイルはすぐに離した。けれど、その直後、自分の指を一度握って開く。
何となく目が留まった。
「痺れた?」
「いや」
「力を入れすぎたんじゃない? そんなに重くないはずだけど」
「重くはなかった」
それきり口を閉じて、水の瓶を渡してくる。
よく分からない。
ボクは瓶を受け取り、中央へ落ちた水滴をもう一度見た。
◇
午後には、錘の位置も決まった。
ガレスが作ってくれた薄い金具を柄へはめると、杖を持ったときに肩へかかる重さが変わった。わずかな調整なのに、身体の方が早く分かる。
庭の端に置いた木片を、浮かせて、戻す。
水を集め、薄く広げ、蒸気にする。
勢いの強い魔法はまだ使わなかった。
小さなものを正確に扱えるようになってからでいい。
リゼットも、ボクがその順番を守っている間は止めなかった。
「新しい杖にはしないのね」
休憩のとき、リゼットがそう聞いた。
ボクは膝の上の黒い木を撫でる。
「これが使えるなら、これがいい」
「ええ」
「新しいのを選ぶのは、もっと楽しいときにしたいから」
リゼットは一度目を伏せてから、水差しへ手を伸ばした。
「では、今日のところは使い慣れたものね」
それ以上のことを言わないのが、助かった。
庭へ戻る前、リゼットは自分の編み髪を確かめるように触った。ガレスが井戸端で何かを洗っているのを見て、そちらへ歩いていく。
ボクは二人の背中を見送ってから、机の上の計測表へ数字を書き込んだ。
魔力は同じ。
息継ぎは少し浅く。
右手の位置は、前より指二本分だけ内側。
できることが増えると、身体が戻らないという話を、しばらく忘れていられた。
そのことまで悪いと思わなくていいのだろう。まだうまく納得はできないけれど、少なくとも、今日の水滴はちゃんと円の中へ落ちた。
紙を押さえていると、影が差した。
カイルが、ボクの落とした布紐を拾っていた。髪をまとめていた紐だ。作業の途中で緩んだらしい。
「これ」
「ああ、ありがとう。そこ置いといて」
「髪が紙に触れてる」
「え」
振り向いた拍子に、長い髪が記録表へ滑った。まだ乾いていないインクのすぐ手前を、カイルの指がすくう。
髪を引かれて、ボクは首を止めた。
「動くな。今、紐を」
「うん」
背後で布が擦れる。
髪をまとめられている間、ボクは数えかけた数字を目で追った。カイルはリゼットほど手際がよくなくて、途中で一度束を持ち直した。
「きつくないか」
「平気。もうちょっと上でもいい」
「分かった」
出来上がった束は、少し右へ寄っていた。
けれど紙には落ちてこない。
「これで書ける。ありがと」
礼を言うと、カイルが返事の代わりに頷いた。
振り返ると、カイルは笑わずに、まだボクの髪を見ていた。曲がっているのが気になったのかもしれない。
「別に、これでいいよ。誰かに見せるわけでもないし」
「……そうか」
そこから先、カイルは何も言わなかった。
◇
夕方、道具を部屋へ運び終えたとき、廊下からガレスの呼ぶ声がした。
カイルは今夜、当番の交代を手伝うことになっているらしい。
療養所にはまだ負傷した兵士が多く、立てる人間は順番に雑用を引き受けていた。
返事をして扉へ向かう横顔を見て、ボクは目を細める。
「今日、昼寝した?」
「してないが」
「昨日もあんまり寝てないでしょ」
「昨日よりは寝た」
「それ、答えになってないよ」
カイルは笑ってごまかした。
少なくとも、ボクの知っているカイルは、眠いときほど人の頼みにすぐ頷く。考えるのが面倒なのだろう。
任せればこなせてしまうから、周りも気づきにくい。
「終わったら、ちゃんと休んで」
「ああ」
「こっち来ればいいよ。ボクの部屋、夜は静かだから」
魔法の本はあるし、寝台の脇も空いている。椅子を並べれば、長い脚を伸ばす場所くらいできる。
そういうつもりで言ったのに、カイルは扉へかけていた手を止めた。
「……ここで?」
「うん。何か問題ある?」
カイルは、一度ボクを見た。
それから寝台を見て、もう一度ボクを見た。
今度は何なのだろう。
休めと言っただけでそんな顔をされる理由が、ボクには分からなかった。