幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
療養所の廊下には夕方の薄い光が残り、閉めきれていない窓から馬と濡れた土の匂いが入っていた。
ここで休めばいい、と言ったリオは、今の自分と同じ部屋で俺が夜を過ごすことを、深く考えていなかった。
分かっている。
あいつは以前からそうだった。
自分が本を読む間、俺が同じ部屋で眠っていても気にしない。
むしろ、用事ができたらすぐ呼べるので便利だと思っている節がある。
断るだけでよかった。
「自分の部屋で寝る」
「そう? じゃあ、明日その記録、一緒に見てね」
「ああ」
リオはそれで満足して、杖の錘を確かめ始めた。
扉を閉めてから、俺はしばらく廊下を動けなかった。
今日の昼間、あいつに手を取られた。
これまで何度もあったことだ。魔法を見せたいときも、足元の悪い場所を渡るときも、リオは俺の手がそこにあれば使う。
ただ、今日は手首が違った。
掌へ載せられた重さも、袖の縁から見えた肌も、背後から覗いた顔の輪郭も、覚えているものより細く、滑らかだった。
その顔で、聞いてる、と言われる。
俺の返事が遅いと、遠慮なく不満そうな顔をする。
それがリオの顔であることは、見ていれば分かる。分かるから、余計に始末が悪かった。
「カイル」
ガレスの声で、廊下の先を見る。
ガレスは外へ出るための上着を持っていた。
「交代の準備は俺がやる。おまえは装備を見てくれ」
「腕は」
「重いものは持たない。リゼットには言ってある」
俺の返事を待たず、ガレスは上着を羽織った。
何を見られたのだろう、と考えるのも面倒になって、俺は言われたとおり、保管室へ向かった。
◇
聖剣の鞘には、魔王城の石の粉が残っていた。
布で拭き、留め具を外し、革の裏側まで確かめる。慣れた作業をしている間は、手元に集中できる。
だが、左の手袋を持ち上げたところで、昼間の感触が戻ってきた。
リオの指は、冷えていた。
本人は水を扱っているのだから当たり前だという顔をしていたが、俺の手を取るときには、その冷たい指を迷わず絡めてきた。
手を離されたあと、自分の掌を握り直した。
痺れたのかと聞かれて、何も言えなかった。
違う。
ただ、触れていた場所を、もう一度確かめたくなっただけだ。
布を机へ置く。
部屋には俺しかいない。長い息をつく気にはなれなかった。
リオが女になった。
誰が見ても分かる事実なのに、頭の中ではまだ、別々のこととして並んでいる。
あの身体は、俺を庇った結果だ。
目を覚ましたあいつが、自分はひどい怪我をしているのかと聞いた声を覚えている。
抱えていた肩は小さくて、外套を掛け直すだけでも、どこへ手を置けばいいのか迷った。
怖かった。
あいつの声が聞こえるまで、俺は次に何をすればいいか、ほとんど考えられなかった。
それなのに、目を開けたリオの顔を見た瞬間、別のものまでそこへ混じった。
淡い髪。
少し横長の、涼しい目元。
静かにしていると、人を遠ざけそうに見える顔。
俺の好みのど真ん中だった。
昔から、ああいう容姿に弱い。髪の色も、目元も、細い顎も、笑うと少しだけ印象が崩れるところまで、いちいち引っかかった。
なんで、よりによってリオなんだ。
目の前の親友が生きている。それだけを喜べばよかった場面で、俺は、綺麗だと思った。
しかも、一度そう思ってしまうと駄目だった。
目を逸らしても、次に見ればまた同じことを思う。
知らない女なら、少し目で追って終わったはずだ。
でもこれはリオだ。二十年以上知っていて、俺の部屋へ勝手に本を置き、俺の皿から肉を取る、あのリオだった。
そのリオが、今の顔で何も知らずに俺を見上げてくる。
始末が悪いにもほどがある。
思い出すたび、手元へ視線を落とす。
なかったことにはできない。
リオが書きものをしながら耳へ髪をかけるたびに見てしまう。顔を上げて俺を呼ぶまで、横顔を追っている。
そうして見ていると、あいつは必ず俺に何かを頼むのだ。
瓶を開けて。本を取って。この線を覚えて。
最後には、肩を貸して。
ただ綺麗な女を見かけただけなら、会釈をして距離を置けば済む。
リオは、その距離の内側に最初からいる。
俺の上着のどのポケットに紐が入っているかまで知っているくせに、今の自分が俺のそばへ来ると何が起こるかは、全く知らなかった。
保管室の扉が開いて、ガレスが入ってきた。
「こっちは終わった」
「早かったな」
「人数の確認だけだからな」
ガレスは向かいの机へ腰を下ろし、盾の革紐を調べ始めた。
しばらく、金具の触れ合う音だけが続いた。
「リオ、よく喋っていたな」
ガレスは盾を見たまま言った。
「ああ」
「魔法が使えて、少し落ち着いたんだろう」
「そうだな」
それは、俺にも分かった。
水滴が円の中央へ落ちたとき、リオの顔から、ずっと残っていた力が抜けた。やっぱり魔力じゃなかったと、こちらへ見せるように笑った。
あの顔を、もう一度見たい。
そう思ったあとで、今の姿で笑うとあんなふうになるのか、と考えてしまった。
「無事で、よかった」
口に出せたのは、それだけだった。
ガレスは頷いた。
「ああ」
ガレスは余計なことを聞かなかった。
ありがたいはずなのに、口の中に残った言葉はそのままだった。
◇
部屋へ戻る頃には、療養所の廊下は暗くなっていた。
窓の外で、馬を水場へ連れていく音がする。開けたままの窓を閉じ、明日の輸送予定を壁の札で確かめてから、自室へ向かった。
その途中で、別の扉が細く開いた。
「カイル」
俺は立ち止まった。
リオが、扉から顔を出していた。
昼間は後ろで束ねていた髪を、もうほどいている。
借りた寝間着の上に、灰色の上着を肩から羽織っていた。
袖へ腕を通していないせいで、片方が落ちかけている。
「まだ起きてたのか」
「ちょっと、考えてたら眠れなくなって」
「何を」
「今日の調整。杖の重さを変えたでしょう。それで、息継ぎの方も同じように――」
そこまで言って、リオは俺の顔を見た。
「眠い?」
「……少し」
「じゃあ、短くする」
断る方へは進まないのが、リオだった。
俺も、それを分かっていて立ち止まっている。
部屋へ入ると、机の上に二冊の本が開いていた。寝台の上にも手帳があり、枕元には昼間使った錘が並んでいる。
どこに寝るつもりだったのか、聞きたくなった。
「それ、取って。銀色の方」
「寝る場所に金具を置くな」
「なくさないから」
「踏んだら痛いだろ」
「寝るときは退けるよ」
そう言いながら、リオは何も退けずに寝台へ座った。
仕方なく俺が金具を集め、机の端へ並べる。するとあいつは、当然のように礼を言って、空いた場所へ手帳を広げた。
椅子を引く。
リオが不思議そうな顔をした。
「そこだと、遠くない?」
「見える」
「まだ何も見せてないけど」
そのとおりだった。
俺は椅子を少しだけ前へ出した。リオは納得したらしく、頁の隅へ指を置く。
爪の形が変わっていた。書きものをしていた指の横には、薄いインクがついている。
見ている場所を間違えていると自分に言い聞かせ、図面へ目を戻した。
「呼吸に合わせて全部の魔力を出すから、姿勢がずれるんだと思う。杖の方で少しずつ受けるようにすれば、毎回同じだけ息を吸わなくてもいい」
「さっきより、長い術が使えるのか」
「長いというか、細かいことが続けてできる。例えば、浮かせた水の形を変えながら、別のものを動かすとか」
話しているうちに、リオの声がはっきりしてくる。
目が冴え、言葉が早くなる。俺が分からなくなって眉を寄せると、そこだけ説明をやり直してくれた。
いつものリオだった。
俺の肩からも、少しずつ力が抜けた。
何か特別な話し方をする必要はない。分からないところを聞き、分かったら頷けば、あいつは嬉しそうに先へ進む。
それでもときどき、長い髪が肩から前へ落ちる。そのたびに俺は、話の途中で視線を動かしてしまった。
「ここまで、大丈夫?」
「ああ」
「本当に? 何か、途中で考えてたでしょ」
「別のことだ」
「じゃあ、あとで聞く」
聞かれても答えられないことだった。
リオは片膝を立てかけ、それから寝間着の裾を見て、もとの座り方へ戻った。その小さな動作に、俺は目を逸らした。
本人も、まだ何もかも慣れていない。
知らないふりをした方がいい場面と、手を貸した方がいい場面を、俺も覚えなければならなかった。
しばらくして、リオが欠伸を噛み殺した。
説明する指が止まり、そのまま頁の縁を撫でる。
「今日は、ここまでにしよう」
「あと、ひとつだけ」
「明日もあるだろ」
言うと、リオは不満そうに口を曲げた。
昔から知っている顔だった。自分がまだ話したいことを、俺なら聞くと思っている顔。
俺は、その顔に弱い。
見た目が変わる前から、ずっとそうだ。
好みなのは、今の姿だ。
けれど、頼まれると断れないことまで、今になって始まったわけじゃない。
魔法の話を最後まで聞くことも、眠そうなら肩を貸すことも、昔からしてきた。
そこへ、目を逸らしたくなる今の姿が重なった。
昔から知っている相手なのに、見慣れない。
見慣れたいのに、慣れてしまうのも惜しい。
そんなことを考えている自分が、一番面倒だった。
「……ひとつだけな」
「うん」
手帳をこちらへ向けるため、リオが寝台の端へ寄った。届かなくて、もう少し寄る。長い髪が肩から滑り、俺の手の甲へ触れた。
「椅子、そんなに遠くなくていいのに」
「ここでいい」
「じゃあ、こっちに座れば? 手帳、持たなくて済むよ」
空いている寝台を、ぽん、と叩かれる。
俺はその手を見た。
そこへ座れば、あいつはまた肩を借りるだろう。眠くなれば凭れかかり、俺が動かなければ、そのまま眠るかもしれない。
望んでいる自分がいた。
それを、あいつの気安さだけのせいにはできなかった。
「ここで、聞いてる」
そう答えると、リオは首を傾げた。
やがて諦めたように手帳を持ち直し、説明を続ける。
俺は、椅子を動かさなかった。
窓の外から人の声が減っていく。
リオは明日見せたい魔法の話をしていた。俺はそれを聞くためにここへ来たはずなのに、手帳を押さえる指がときどき気になった。
◇
退院する朝、カイルはボクの荷物袋を二つとも馬車へ運ぼうとした。
玄関前には荷車が二台並び、馬具の金具が朝の冷気の中で小さく鳴っている。出発する人の声のあいだを、荷物だけが次々に馬車へ消えていった。
「ひとつ返して」
「どっちだ」
「大きい方」
「本が入ってるぞ」
「ボクの本だからね」
差し出した手へ、小さい袋が載る。
ボクはカイルを見上げた。馬車の荷台を確かめるふりをしていたので、上着の裾を掴んでこちらへ向かせた。
「大きい方って言った」
「分かってる」
「分かってないじゃないか」
魔王城を出てから、二週間ほど経っていた。
歩くことにも杖を使うことにも、だいぶ慣れた。
長衣の裾は療養所の針仕事が得意な人に手伝ってもらい、石畳へ引きずらない長さになっている。
靴には革の中敷きを足し、次の町で新しいものを買うことにした。
まだ自分の身体に驚く瞬間はある。けれど、荷物が持てないほど弱ったままではなかった。
ただ、その朝は起きたときから、まぶたが重かった。
腰の奥にも、長く座った翌日みたいな鈍い重さがある。
馬車で何日も移動するのだから、そんな日もあると思っていた。
「ひとつなら持てるよ」
「分かってる」
「それ、さっきも聞いた」
カイルは、今度はボクの顔を見た。
「今日は長く揺れる。出る前から疲れることはないだろ」
「荷台まで、十歩もないんだけど」
ガレスが向こうで馬の手綱を確かめている。リゼットは世話になった人へ挨拶をしていた。ボクたちの話には、誰も口を出さない。
しばらくして、カイルが大きい袋を返した。
受け取ると、想像していたより肩へ重さがかかった。少し腹が立った。けれど持てない重さではない。
自分で荷台へ載せ、座る場所を空ける。
「ほら」
「ああ」
それだけ返されると、勝ったような気がしなかった。
◇
南へ向かう道には、帰還する荷車が連なっていた。
療養所へ来るときには何も覚えていなかったので、山の向こうへ魔王城が見えなくなるのを、ボクは初めて見た。
黒い塔は、雲の下で思っていたより小さかった。
あそこから、もう何も来ない。
誰かが大声でそう言った。別の荷車から歓声が上がり、ボクたちの馬車へ手が振られる。
カイルは立ち上がらず、座ったまま応じた。名前が呼ばれ、そのあとガレスとリゼットの名前も続く。
ボクの名前を呼んだ兵士は、こちらを見ると一瞬だけ迷った。
それから、療養所で事情を聞いていたのだろう、帽子を取って頭を下げた。
「魔法使い殿も、お帰りになりますか」
「……うん。王都まで」
返事が小さくなった。
慣れない人に見られるのは、以前から得意ではない。まして今は、相手が何に驚いているのかまで考えてしまう。
カイルがボクの横へ座り直した。
「リオの本が増える前に、着きたいところだ」
「増やしてないよ。あそこで買う場所もなかったし」
「物資担当に、術式の本を借りただろ」
「あれは返した」
「写した紙は」
「……借りた本は返した」
兵士が笑った。
笑われたことより、カイルが勝手に荷物の中身をばらしたことに文句を言いたくなって、そのうち兵士の視線が気にならなくなった。
馬車が動き出す。
車輪の振動を座面に受けながら、ボクは袋の口をもう一度確かめた。写した紙は、もちろん全部持っている。
昼前、先頭の荷車が小さな橋の手前で止まった。
御者たちが道を塞いでいる。木の橋は無事だったけれど、両岸に立つ二本の結界標のうち、西側だけが荷車の識別札へ赤い光を向けていた。
標は胸ほどの高さの石柱で、上部に丸い硝子が埋め込まれている。戦時中、東西の標が互いに合図を返し、両方が正常なら味方の荷車を通す仕組みだった。
片方の返事が途絶えると、残った方は相手が壊されたと判断する。今は味方の印まで疑っているらしい。
「戻る荷車も通れないの?」
馬車から降りると、ガレスが頷いた。
「守備兵が東側を止めたら、西側の光が強くなったそうだ」
「対になってるからね」
橋へ近づく。荷車の通る中央には赤光が走っているが、欄干沿いの細い歩道は結界の外にあった。守備兵が御者を橋の手前に留めている。
「操作に使ったものを見せてください」
守備兵が鉄製の解除具を二本差し出した。
「東側だけ止めました。西側も止めようとしたんですが、光が強くなって、荷車を下げたんです」
「それで合ってます。西側は、相方が壊れたと思っています」
携帯観測環を袋から出そうとして、自分が片手に手帳まで持っていることに気づいた。
「カイル、これ」
「ああ」
「袋もお願い」
「分かった」
預けたあと、掌ほどの銀輪を西側の標へ近づける。内側の銀線は一度だけ赤く光り、東からの返事を拾わなかった。向こう岸の硝子も暗い。守備兵が言ったとおり、東だけが休止し、西は警戒したまま動いている。
二本を止めるには、まず東を戻さなければならない。
「東側を一度動かす。互いに返事が届いたのを確かめてから、二本を同時に止めるよ」
カイルが橋の向こうを見る。
「俺が東側か」
「うん。歩道から渡って。荷車は、ボクが合図するまで待ってもらってください」
守備兵が御者たちへ声を掛ける。カイルは袋を肩へ掛け、欄干沿いを対岸へ渡った。
ボクは手前の標の操作孔を確かめた。縁に、稼働と休止の向きが刻まれている。
「そっちの孔にも印がある?」
「ある」
「まず、東を稼働の方へ」
カイルが解除具を差し、柄を回す。
向こう岸の硝子に薄い光が戻った。すぐには西側の赤光は消えない。ボクは携帯観測環を西側の標に近づけたまま、返ってくる合図を待つ。
一度目は西から送り出す合図だけ。
次に、東からの返事が西の標へ届き、銀輪にもう一度光が走った。
西側の赤光が弱まり、荷車を狙っていた線が硝子の中へ収まる。二本の標が、互いを正常と認めたのだ。
「今なら通れる?」
カイルが向こうから聞いた。
「荷車は通れる。でも、守備隊はもう使わないんでしょう」
守備兵が頷く。
「止めます。次に誰かが片方だけ触る前に」
ボクは西側の孔へもう一本を差し込んだ。東でカイルも解除具の柄を持ち直す。稼働したまま二本の柄を休止の方向へ回せば、どちらも相手を失ったまま残らない。
「三で回して。一、二――三」
石柱の硝子が左右ほとんど同時に暗くなった。
携帯観測環にも反応がない。橋の車道に残っていた結界が消えた。
守備兵に東側を確認してもらい、ボクは西側の操作孔をもう一度見た。歩道を戻ってきたカイルから手帳を受け取り、孔の脇に残る古い補助線を写す。
東側にも反応がないと守備兵が確かめて戻った。次に止めるときの手順を伝えると、待っていた御者たちが礼を言い、荷車を進めていく。
カイルは、ボクの袋を肩へ掛けたまま待っていた。
「何も言ってないぞ」
「顔に出てる」
「どんな顔だ」
「朝のこと、思い出してる顔」
カイルが笑った。
そういう顔をされると、やはり腹が立つ。反論する前に袋へ手を伸ばしたら、カイルは今度は素直に返してくれた。
「できないとは思ってない」
「……うん」
「頼まれれば持つ。頼まれなくても、持った方が楽そうなら聞く」
ボクは紐を握り直した。
「聞いて」
「ああ」
「勝手に持っていかないで。どこに何があるか、分からなくなるから」
カイルは頷いた。
ボクも大きい袋を抱え直した。持てないなら頼む。今は自分で持つ。その順番を、勝手に決められたくなかっただけだ。
馬車へ戻る途中、ボクは結局、大きい方の袋をもう一度カイルへ渡した。
橋で写した線を、揺れないうちに書き直したかったからだ。
カイルは、何も言わずに受け取った。
◇
昼食は道端の広場で食べた。
乾いたパンと、療養所で包んでもらった肉、それに林檎。
戦いの前と同じような食事なのに、次の見張りを気にしなくていいだけで、ずいぶん長く味が残る。
リゼットはガレスの隣へ座り、膝の上で林檎を分けていた。
「その包帯、明日には外せそうね」
「助かる」
「外れても、すぐに何でも持たないで」
「分かった」
「今度はちゃんと覚えていてね」
ガレスが、珍しく返事に困っていた。
カイルへその顔を見せようと振り返ると、先にこちらを見ていた。
「何」
「いや」
すぐに目を逸らす。
療養所にいた頃から、こういうことが増えていた。
何か言いたいのかと思って待つと、何もないと言う。
ボクが顔を見ていないときには普通にしているのに、目を合わせたときだけ返事が一拍遅い。
見慣れないのだろう。
そう思って、ボクは林檎を一つ差し出した。
「これ、半分」
「ああ」
カイルは自分の道具で分け、片方を渡してくれた。
その手へ指が触れた途端、動きが少し止まったように見えた。
「手、冷たい?」
「いや」
「今日は水、そんなに触ってないんだけど」
カイルは林檎を食べ始めた。
説明してくれないので、ボクも食べた。
ガレスとリゼットが、次の町で買いたいものを話している。
温泉があると聞いて、リゼットの顔が少し明るくなった。
ボクにも、静かなところで髪を洗って乾かす時間が必要だ。
思っていた以上に面倒な長さなのだった。
町へ着いたら、まず靴。
それから髪を留めるもの。
できれば本屋。
指で数えていると、カイルが最後のひとつだけ聞かなかったふりをした。
「本屋も」
「聞こえてる」
「寄るからね」
「荷物に入る分ならな」
「自分で持つよ」
言ってから、朝のやり取りを思い出した。
カイルも同じことを思ったらしく、今度は二人で笑った。
◇
午後の馬車は、午前よりよく揺れた。
手帳を広げると文字が飛ぶので、ボクは早々に諦めて、袋の中へ戻した。
カイルは隣で帰還の書類を読んでいる。
こいつはこういうところが頑丈だ。
腰の重さは昼より増していた。
腹の底も、ときどき理由のない力で掴まれる。
空腹かと思ったけれど、さっき食べたばかりだ。
リゼットに言うほどではないと決めて、座り方だけ変えた。
「酔わないの」
「今のところは」
「少し、そっち借りる」
返事を待たず、カイルの腕へ肩を寄せた。
窓から風が入る。
目を閉じると、車輪の音が思っていたより単調だった。
休憩したつもりでも、外で魔法を使うのは久しぶりだったから、疲れたのかもしれない。
今日は朝から、眠気までしつこかった。
頭の位置を探して、肩へ収まり直す。
カイルの肩が、また固くなった。
「動かないでね」
「……ああ」
その返事を聞いたところまで、覚えている。
しばらくして、誰かが毛布のことを話していた。
ガレスの声だったように思う。それにカイルが、俺が掛ける、と答えた。
肩から布が落ちてくる。
暖かかったので、ボクは目を開けなかった。
揺れるたびに、頬の下の腕が少し動く。
それでも支えている場所は変わらない。眠り直すには、十分だった。