幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
夕方のロッカは、道の両側から湯気が上がっていた。濡れた石畳へ橙色の灯りが映り、歩く人の影が揺れている。
ロッカへ着いたのは、療養所を出て三日目の夕方だった。
朝から身体が重かった。
馬車を降りるたび腰を伸ばしたくなるし、普段なら気にならない革紐の締まりまで鬱陶しい。
昨日から続いているのだから、旅の疲れだろうと思っていた。
町の入口から湯の匂いがする。通りの端を流れる細い水路にも白い湯気が立っていて、宿へ向かう人たちは、歩きながら肩を緩めていた。
ボクは新しい靴を買った。
店主に足を測ってもらい、革の柔らかいものを選んで、店の中を何度か歩く。
以前の靴ならつま先を持ち上げていた段差を、今は普通に越えられた。
「どう?」
「歩きやすそうだ」
「見た目じゃなくて、今、変な歩き方してなかった?」
「してない」
カイルは真面目に答えてくれた。
鏡で見ても悪くない。そのまま履いていくことにする。古い靴は捨てず、薄い布へ包んでもらった。
袋を持ち上げたとき、カイルが口を開きかけた。
「持てるよ」
「そうか」
言い直さずに引っ込めた手を見て、少しだけ悪かったかなと思った。
新しい靴で床を一度踏み、踵が浮かないことを確かめた。
宿は、湯場から一本入った静かな通りにあった。
ガレスが前に使ったことのある宿で、主人はその顔を見るなり、よく戻った、と奥へ声を掛けた。
カイルを見てもう一度驚き、リゼットへ頭を下げ、最後にボクを見る。
「お連れの方も、ご一緒で?」
「リオだ。魔法使いの」
ガレスが答える。
宿の主人は目を見開いたけれど、ガレスの説明を聞くと、ボクにも同じように帰還を祝ってくれた。その距離の取り方に、少し助けられた。
「お部屋はどうしましょう。今日は空いておりますよ」
ボクは何も考えずに答えた。
「二人部屋を二つで」
リゼットとガレスが一緒。ボクとカイルが一緒。
旅の後半は、それで決まっていた。ガレスが寝言を言うかどうか気にしなくて済むし、リゼットも好きな時間に髪をほどける。
ところが、横から別の声がした。
「一人部屋も、あるんだな」
「ええ。二階の奥に」
「それを二つ。それから二人部屋を一つ、頼めるか」
主人が帳面へ手を伸ばす。
ボクはカイルを見た。
「何で?」
「何でって」
「部屋、別にするの?」
カイルは困った顔をした。
まただ、と思う。療養所を出てから、ボクが近づくと、ときどきこういう顔になる。
「空いてるなら、その方が休めるだろ」
「今まで、一緒でも休めてたじゃないか」
声が、思ったより強く出た。
今日は朝から、何か一つ引っかかるたびに腹が立つ。
だからといって、今の言葉まで取り消したいわけではなかった。
部屋を分けられて嫌だったのは、本当だ。
主人の手が帳面の上で止まっているのに気づいて、ボクは口を閉じた。
リゼットが静かに口を挟んだ。
「私たちの分を先にお願いできるかしら。湯場の時間も教えていただきたいの」
ガレスは既に荷物を持っていた。
二人が案内を聞いている間に、カイルが玄関の脇へ移る。ボクもついていった。
「ボクと一緒だと、困る?」
そう聞くつもりはなかったのに、言葉にすると、それしか出てこなかった。
カイルが、すぐ首を振る。
「嫌だって話じゃない」
「じゃあ、何」
「……今までと同じにしていいか、俺にはまだ分からない」
言われて、自分の袖を見た。
そういうことか。
同じ部屋に入って、服を替えて、顔を洗って、寝る。
それを、今のボクとやっていいのか分からない。
考えてみれば当然なのかもしれない。でも、こちらはまだ、自分がボクであること以外、何も追いついていなかった。
「ボクは、別に」
「分かってる。ただ、今日は一人で休ませてくれないか」
その言い方をされると、止められない。
ボクは、もう一度だけ帳場の方を見てから頷いた。
「……うん」
カイルは何か続けようとした。
けれど、主人が鍵を三つ載せた盆を差し出したので、ボクは先に一つ受け取った。
◇
一人部屋は、思っていたより広かった。
寝台と机と椅子があって、湯を運んでもらえる桶まで置いてある。窓からは裏庭が見え、廊下の声もあまり聞こえない。
読書には、申し分ない部屋だった。
荷物をほどき、買った靴を寝台の下へ揃える。
夕食を食べ、髪を洗い、リゼットに教えてもらったとおり布で水気を吸わせる。そのあと弱い風の魔法を使ったら、乾くのが少し早かった。
魔法が使えてよかったと思う。
そう言ったらカイルが何と返すか、考えてから、隣にいないことを思い出した。
髪が乾いてしまうと、することがなくなった。
湯に入れば楽になると思っていた腰の重さは、むしろ場所を変えた。下腹の奥が、じわじわ痛い。冷えたのだろうか。
毛布を膝まで引き上げると少しましになった。
いや、本はある。
机の上へ開けば、朝まで読んでいられるものが何冊もある。
新しい体調を考えれば、夜更かしはしない方がいいのだろうけれど、時間の使い道に困るはずはない。
なのに、同じ頁を三度読んだ。
療養所を出た日に見た橋の術式と、ここにある説明が少し違う。古い方式だと、対になる標のどちらを先に止めてもよかったはずだ。
その理由が分かった。
「カイル、これ――」
名前を呼んでから、口を閉じた。
椅子が一つしかない。 窓際に剣が立てかけられていない。
カイルが寝る前に外した手袋も、そこにはなかった。
ボクは本を閉じた。
自分で休ませると頷いたくせに、部屋を出たくなる。話すのはほんの数分でいい、と都合よく考えている自分が、やけに子供っぽく思えた。
本を持って立ち上がった。
◇
隣の扉の前で、足が止まった。
寝ていたらどうしよう。疲れているから一人にしてくれと言ったのに、また来たのかと思われるだろうか。
そういうことを、以前は考えていなかった。扉を叩いて返事がなければ戻るだけだった。
三回、叩く。
すぐに足音がした。
「リオ?」
扉を開けたカイルは、上着を脱いでいた。
髪が湿っていて、額へ下りている。襟元の留め具も外れていた。見慣れた姿なのに、扉一枚ぶんより遠く感じた。
「……今、入ってもいい?」
「ああ。どうした」
答えるより先に、カイルの顔が緩んだ。
その顔を見て、来てよかったと思ってしまった。
「さっきの本。橋の仕組みが載ってたから」
「まだ起きてると思った」
「起きてるよ」
「だろうな」
カイルは扉を大きく開け、机の上を片づけた。
ボクの部屋と同じ造りなのに、こちらには自分の知っているものがある。窓の横に剣。机の端に手袋。
椅子の背には、灰白の外套が掛かっていた。
気がつくと、肩の力が抜けていた。
「椅子、借りてくる」
「ボク、寝台でいいけど」
「持ってくるから、待ってろ」
カイルは廊下へ出ていった。
戻ってきたカイルが置いた椅子は、机の反対側だった。
ボクが座ると、二人の間に机一つ分の距離ができる。
広げた本を、向こうからも見えるように回した。
カイルが覗く。
ボクは、自分の方から文字が逆さになっているのを見た。
「これ、読みづらい」
「俺の方へ向けなくていい」
「一緒に見るから、説明できるんだけど」
椅子を持ち上げ、机の横へ動かした。
カイルの手が少し浮いたけれど、止められなかったので、そのまま腰を下ろす。
「ほら。ここ」
指を置くと、カイルの視線が同じところへ下りた。
やっと、話しやすくなった。
古い術式は、片方を止めると、残った方が自分で休止する。
新しいものは、片方が壊されても働く。その違いが、撤去するときには問題になる。
ボクが説明すると、カイルは橋で見た標を思い出すように頷いた。
「戦ってる間は、新しい方がいい」
「うん。でも、戦いが終わったら、ちゃんと止め方も教えないと」
「作った人間が、ずっとそこにいるわけじゃないからな」
「そう。そこが面白くて」
言うと、カイルが小さく笑った。
「面白いのか」
「面白いよ。不便になったところまで、理由があるんだから」
そこから先は、自然に話せた。
カイルが分からないところで止まり、ボクが図を指す。机の角が邪魔で腕を伸ばしづらかったので、また少し椅子を寄せた。
カイルは何も言わなかった。
次の頁をめくる。
橋とは関係のない、水門の説明だった。
別に今夜、話す必要はない。明日でも、王都へ着いてからでもいい。
でも、カイルが帰れと言わないので、ボクはそのまま読み始めた。
「これも、似てるんだけどね」
カイルは本の端を押さえてくれた。
重ねた指のすぐ隣に、ボクの指がある。
その位置を見ていたカイルが、少し遅れて、うん、と答えた。
話を終えたのは、夜半になる少し前だった。
自分の部屋へ戻る途中、腹の底がまた鈍く痛んだ。立ち止まるほどではない。長く座っていたせいだと思い、腰を伸ばしてから鍵を開けた。
寝台へ入ると、今度は眠気の方が勝った。
◇
夜明け前の部屋は青かった。火を落とした暖炉は冷え、窓の外では湯場へ水を運ぶ車輪が遠く一度だけ軋んだ。
目が覚めたとき、最初に思ったのは、腹が痛い、だった。
夜明け前だった。
窓の外はまだ青く、宿の廊下にも人の気配がない。
下腹の奥が、昨日よりはっきり痛む。鋭く刺すというより、重いものを内側へ押し込まれているような痛みだった。
寝返りを打つ。
そこで、脚の間に湿った感触があることに気づいた。
一瞬で目が覚めた。
毛布をめくる。
寝間着の下、敷布に暗い染みができていた。
血だった。
「……何」
声は、自分の耳にも分かるほど掠れた。
魔王城で受けた攻撃。
治ったはずの傷。
身体の内側に残っていた何か。
考えが一度に戻ってくる。
腹へ手を当てる。皮膚には傷がない。
痛む場所を押しても、戦場で覚えた内臓の損傷みたいな鋭さはなかった。けれど血が出ている。
どこからかは、確認しなくても分かった。
枕元の杖へ手を伸ばした。
弱い観測光を腹へ通す。
魔力は乱れていない。何かが裂けている反応もない。
観測光だけが、何事もなかったように戻ってくる。
「リゼット」
小さく呼んでから、ここにはいないことを思い出した。
隣の部屋にいるのはカイルだ。
いつもなら、まず呼んでいた。
怪我でも、魔法の失敗でも、夜中に妙な音がしたときでも。
扉へ向かいかけて、足が止まる。
血の出ている場所を、説明する。
その一文だけで、昨日カイルが部屋を分けた理由まで思い出した。
腹が立った。
怖いときに呼ぶ相手まで、身体が変わったせいで考えなければならないことに。
それでも今は、リゼットの方が早い。
寝間着の上へ長衣を羽織り、汚れたところへ畳んだ布を当てる。歩くたび、腹の奥が重く揺れた。
◇
リゼットは、二度目のノックで起きた。
扉を開けた顔には眠気が残っていたけれど、ボクを見るとすぐ消えた。
「どうしたの」
「血が出た」
それだけ言うと、リゼットは何も聞き返さず部屋へ入れてくれた。
灯りをつけ、椅子を引く。
「どこから?」
答える。
リゼットの表情が、ほんの少しだけ変わった。驚いたのではない。何かの候補が一つに絞られた顔だった。
「腹は痛い?」
「昨日から。腰も重い」
「熱は」
「ないと思う」
「眩暈は?」
「今はない」
リゼットは寝台へ横になるよう言った。
治癒の光が、腹の上をゆっくり通る。
ボクも同じ反応を追った。
傷がない。
出血しているのに、治癒の魔法は直す場所を見つけない。
療養所で観測盤を覗いた朝と同じだった。
正常なものとして、身体がそこにある。
「リオ」
リゼットが光を消した。
「怪我じゃないわ」
「じゃあ何」
「月経よ。生理」
言葉は知っていた。
知らないほど世間から離れて育ったわけではない。旅の途中でリゼットが体調を崩した日もあったし、薬屋でそのための品を見たこともある。
でも、その言葉と、自分の寝間着についた血が繋がらなかった。
「……生理」
「ええ」
「ボクの?」
聞いてから、ひどく馬鹿な質問だと思った。
リゼットは笑わなかった。
「あなたの身体のよ」
腹の奥が、また鈍く縮んだ。
痛みより、その言葉の方が嫌だった。
「この前、内臓も今の身体として繋がってるって言ったでしょう」
「……聞いた」
「そのときには、生殖に関わる器官も正常にあった。ただ、変わった直後だったから、いつ周期が始まるかまでは分からなかったの」
正常。
また、その言葉だった。
「じゃあ、治癒では」
「止めない。傷じゃないもの」
傷なら治せた。
呪いなら解く方法を探せた。
異常なら、それを異常だと言えた。
でも、これは正常だった。
「……何日」
「人によるけれど、数日は続く。量も痛みも差があるわ」
「次は」
「今の身体が安定しているなら、また来る。おおむねひと月前後。ただ、最初のうちはずれるかもしれない」
ひと月。
その数字だけ、頭に残った。
「毎月?」
「だいたいは」
一度の事故ではない。
今日をやり過ごせば終わる話でもない。
ボクの身体は、ボクが眠っている間にも、知らないところで女の身体として時間を進めていた。
髪が長いとか、胸があるとか、声が変わったとか。そういう見える部分だけではなかった。
女の体になったんだ。
今さら、その意味が腹の底まで落ちてきた。
涙は出なかった。
代わりに、ひどく腹が立った。
「ボクの身体なのに」
口から出た。
「ボクの知らない予定が、勝手に入ってる」
リゼットは少し考えてから、椅子を引き寄せた。
「そうね」
否定されなかった。
「今日はまず、扱い方を覚えましょう。これを好きになる必要はないし、慣れたことにする必要もないわ」
「……うん」
「記録はつけた方がいい。痛み、出血、眠気。前の日に変わったことがなかったかも」
昨日。
一昨日。
腰が重かった。
やけに眠かった。
荷物のことで、いつもより腹が立った。
部屋を分けると言われたときは、思ったより強い声が出た。
「昨日、機嫌が悪かったのも、これ?」
リゼットは首を傾げた。
「影響はあったかもしれない。でも、部屋を分けられて腹が立ったことまで、なかったことにしなくていいでしょう」
「それは別?」
「分けて考えればいいわ。身体の波と、あなたが嫌だったことは、同じではないもの」
思い返す。
嫌だった。
それは、今も変わらない。
「……うん」
◇
リゼットは、自分の荷物から清潔な布を何枚か出した。
宿にも同じ用途のものがあるらしい。折り方と留め方を教えてもらう。
説明を聞いている間、情けないほど集中した。
失敗して寝台をまた汚す方が嫌だった。
「汚れた敷布は、私から宿へ言っておくわ」
「自分で言える」
「では、一緒に行く?」
「……それは、一緒にいて」
「分かった」
言いながら、リゼットが湯を入れた小さな陶器を布で包む。
腹へ載せると、痛みが少しほどけた。
「痛みが強ければ薬もある。出血が急に多くなる、立てないほど痛む、熱が出る。そういうときはすぐ呼んで」
「分かった」
手帳を持ってきてもらい、今日の日付を書く。
その下へ、昨日のことを並べた。
眠気。
腰の重さ。
下腹部の違和感。
苛立ち。
最後の一つを見て、括弧を足した。
苛立ち(全部ではない)。
リゼットが覗いて、何も言わず笑った。
◇
朝食の時間を過ぎた頃、扉が叩かれた。
「リオ」
カイルだった。
リゼットはボクを見る。
言いたくなければ、体調が悪いとだけ伝えるつもりなのだろう。
一瞬、そうしてほしいと思った。
次の瞬間、それがもっと嫌になった。
昨日までなら、血が出たと聞けば真っ先にカイルを呼んでいた。
今の身体になったからといって、ボクの側からまで勝手に壁を増やしたくない。
「入っていいよ」
扉が開く。
カイルはボクの顔を見て、次にリゼットを見た。
「何かあったのか」
「生理だった」
言ってから、もう少し言い方があった気もした。
カイルは止まった。
「……そうか」
「その顔、やめて」
「どんな顔をすればいいか分からない」
「ボクも分からないよ」
同じだった。
それが少しおかしくて、でも笑うと腹が痛みそうで、口元だけ動いた。
カイルが、寝台から少し離れた椅子へ座る。
「痛いのか」
「痛い」
「何かできることは」
「今はない。温めると楽」
「湯、替えるか」
「まだ熱い」
「飯は」
「あとで食べる」
質問が現実的で助かった。
気の利いたことを言われたら、たぶん腹が立っていた。
「傷じゃないらしい」
「うん」
「治癒も反応しない」
「……それは、嫌だな」
思っていた返事と違って、顔を上げた。
「普通のことなんでしょ」
「普通でも、痛いものは痛いだろ」
カイルはそれ以上、分かったようなことを言わなかった。
ボクは布で包んだ陶器を腹へ押し直す。
「毎月らしい」
「……毎月?」
「知ってたでしょ」
「知識では」
「ボクも」
二人で黙った。
妙なところで同じだった。
カイルが視線を机へ移す。
昨夜持ってきた本が、そこに置いてあった。
「橋の続き、読むか」
「今日は寝ろって言うかと思った」
「読むのは俺でもできる」
「カイル、途中で分からなくなるじゃないか」
「分からなくなったら聞く」
本を取る。
椅子は昨日より遠いままだった。
カイルが頁を開く音を聞きながら、ボクは手帳の今日の日付をもう一度見た。
来月の同じ頃へ、薄く印をつける。
「ここ、何て書いてある」
「どこ」
「この潰れてる字」
陶器を腹へ押さえたまま身を起こし、カイルの持つ本を覗く。
「それ、字じゃない。前の頁のインクが移ってる」
「じゃあ次か」
「うん。そこから」
カイルが頁をめくった。