幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
湖へ下る道は視界が開け、朝の光が水面へ白く反射していた。馬車の窓を開けると、湿った風と硝子工房の煙の匂いが混じって入ってくる。
ロッカを出たのは、予定より一日遅れた。
昨日はほとんど宿で過ごした。腹の痛みはまだ残っているし、出血も続いている。それでも朝には歩ける程度まで落ち着いていた。
玄関でカイルが荷物へ手を伸ばす前に、ボクから大きい袋を渡した。
「今日は、持って」
「ああ」
余計なことを言わず受け取る。
それでよかった。
ミルネの湖は、思っていたより明るかった。
山道を下りる途中から、水面の向こうに白い町が見える。岸に沿っていくつも桟橋が伸び、船の帆がゆっくり動いていた。
戦いへ向かうときには、同じ景色を見ても足を止めなかった。今回は馬車の速度が緩むと、四人とも自然にそちらを見た。
「船が増えたわね」
リゼットが言う。
ガレスは、湖畔の道を指した。
「北の通行が戻り始めているんだろう」
ボクはその隣にある硝子工房の煙突を見ていた。
観測用の器具は、ミルネのものがいい。王都で買うと高いので、帰りには工房へ寄りたいと思っていたのだ。
そう言うと、カイルが笑った。
「本だけじゃ済まないんだな」
「割れものは、送ってもらうよ」
「荷物を増やすのは決まってるのか」
「見てから」
買うとは言っていない。
見るだけで済むとは、思っていなかったけれど。
宿へ荷物を置いたところで、訪ねてきた人がいた。
町の設備を管理しているベルクという人だった。五十代くらいで、日に焼けた首の後ろへ短い灰色の髪が残っている。
「お戻りの途中に申し訳ない。少し、お知恵を借りたいことがありまして」
カイルへ頭を下げたあと、ベルクさんは机に図面を広げた。
湖沿いの街道と、丘の上の小さな塔が描かれている。
「北の防衛塔ですか」
ボクが覗くと、ベルクさんがこちらを向いた。
「ええ。ご存じですか」
「行きに見ました。守護像を動かす設備があるところですよね」
「そのとおりです。補給は止めたんですが、中の貯槽に魔力が残っていて」
貯槽。
魔力を一度溜めて、必要なときだけ設備へ流すための石造りの槽だ。水を受ける貯水槽の、魔力版だと思えば近い。
ボクは椅子へ座った。
カイルが、ベルクさんへボクの名前を伝える。ベルクさんは少し驚いたあと、すぐに図面をこちらへ向け直した。
紙の端をボクの方へ寄せ、そのまま続きを話し始める。
設備はまだ動いていない。
けれど、自動で動き始める条件が残っている。冬に湖の周囲の魔力が強く流れると、それを敵の接近と間違えるかもしれないらしい。
「止めるための図面は?」
「これだけです。建設当時の写しだと」
「あとから直したところがありそうですね」
紙の端に、違う筆跡の数字があった。
ボクは指を止める。今すぐ開けてみたい気持ちになったけれど、帰還途中の四人で、準備なしにやる仕事ではない。
「外からの測定なら、今日できます。中へ入るのは、記録を調べてからにしたいです」
「助かります。危険があるかだけでも」
「そこも含めて見ます。駄目なら、街道の近くまで人を入れないようにしてください」
ベルクさんが大きく頷いた。
カイルは既に、自分の手袋を鞄へ入れていた。
「何が要る」
「測定環を一組。あと、ガレスにも少し手伝ってほしい」
「ああ」
その返事を聞いてから、ボクは図面の角へ、必要なものを書き始めた。
◇
塔は、町から歩いて三十分ほどの丘にあった。
低い石垣の内側へ、苔のついた建物が立っている。
入口の両脇には、人の倍ほどの大きさの守護像が置かれていた。
動いていない石像というのは、動くところを知っていても、ひどく間の抜けた顔に見える。
ガレスが周囲を確かめ、リゼットが少し離れた場所で観測盤を組み立てた。
ボクは革袋から、同じ大きさの金属環を二つ取り出した。
首から下げる携帯観測環より一回り大きい、両手で持てる測定環だ。
輪の内側には銀線が細かく刻まれていて、二つを向かい合わせて魔力を流すと、その間を通る魔力の量と深さを拾える。
「片方、持って。そっちの柱に平らに当てて。ボクが言うまで、角度は変えないで」
「この高さでいいか」
「もう少し下。そう」
カイルが手を止める。
ボクは反対側の測定環へ指を添え、弱い魔力を流した。
二つの輪の内側へ青白い膜が張る。
膜の中央を細い光が往復し、柱の表面から返る反応、石の奥から遅れて返る反応を順番に拾っていく。
手元の小さな目盛りが三つ進んだあと、いったん止まった。
さらに一秒ほど遅れて、もう二つ進む。
「……深い」
表面に残っている魔力は薄い。
けれど床下から返ってくる反応だけが強い。
見えている線の下に、まだ大きな蓄えがある。
しばらく測ってから、ベルクさんへ振り返った。
「動き始めるところまでは来ていません。でも、冬の前には停止した方がいい」
「補給を止めただけでは、やはり駄目ですか」
「溜まっている分で、しばらく動けてしまいます。中身を使い終わるまで待つわけにもいかないので」
説明しながら、カイルの手へ視線を戻す。
カイルは測定環の下側を持ち直していた。柱へ当てる位置は変わっていない。ボクが必要とするところだけ、ちゃんと覚えている。
「それでいい。あと少し」
返事を求める前に、カイルが頷く。
ベルクさんが、感心したように二人を見た。
「長く一緒に仕事をなさっているんですね」
「うん。カイルなら、このくらいは分かるから」
言ってから、初対面の人へ気安く話しすぎたと気づいた。
けれどベルクさんは気にせず、笑っていた。
「頼もしい相棒だ」
ボクも頷く。
カイルの目がこちらへ動き、いつものように口元が緩んだ。
◇
測定が終わると、ベルクさんは町へ戻りながら別の話をした。
湖沿いの橋の灯りが、一つずつ暗くなっているらしい。防衛塔の補給線と関係があるのかもしれないと、不安そうだった。
「それなら、帰りに見ようか」
カイルが言う。
ボクはカイルの袖を引いた。
「今日はここまで」
「橋なら、通り道だろ」
「通り道の橋は一本。今聞いたのは、南の橋」
カイルは少し考えてから、ああ、と言った。
地図を聞き流していた。
やっぱり、疲れている。
「灯りは、まず地元の術師に見てもらってください。塔の方へつながっているようなら、記録を送ってもらえれば調べます」
ベルクさんへそう伝えると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「帰ってきたばかりの方に、つい」
「大丈夫です。塔は、調べますから」
ベルクさんと別れてから、カイルがボクを見た。
「自分でも断れたぞ」
「今、引き受けたじゃないか」
「それは」
「眠いとき、何でも頷くの、直した方がいいよ」
ガレスが隣で頷いた。
リゼットも、何も言わない。全員に同じことを思われていると分かって、カイルは苦笑した。
「今日は早く寝る」
「まず食べて」
「ああ」
「その返事も、怪しい」
ボクが言うと、カイルがようやく声を立てて笑った。
人前で相手を安心させるときの笑顔とは、少し違う。
気を抜いて、肩が下がって、口元の片側が先に上がる。
こういう顔を、皆が見ているわけではない。
ふと、そんなことを思った。
自分はずっと知っているのだから、少し得をしている。
◇
夕方、約束どおり工房を覗いた。
結局カイルもついてきた。休めと言ったのに、と文句を言うと、宿で待つより、こっちの方が退屈しないと返された。
店の奥には、小さな硝子球が何十個も並んでいた。
光の歪みを見るためのもので、一つずつ表面の厚さが違う。ボクが手に取って窓へかざすと、職人が奥から出てきて、どの用途かと聞いた。
「流れの時間差を見たいんです。細い線を、幾つも同時に」
「それなら、こっちですな」
渡されたものを覗いて、ボクは思わず声を出した。
境目が、とてもきれいだった。
二つの光が重なっても、それぞれの縁が見える。
今持っている器具なら、何度も角度を変えなければ分からないところだ。
「カイル、見て」
「何が見える」
「この、端。こっちじゃなくて、青い方の」
「……どれだ」
「こう。少し傾けて」
カイルの手へ指を添え、硝子球の向きを変える。
カイルが顔を近づけた。
同じ場所を覗こうとして、ボクも隣へ寄る。
「見えた?」
「ああ」
「ね。こっちだけ遅れてる」
「そうだな」
返事が少し低かった。
ボクは硝子の中へ夢中だったので、その理由までは考えなかった。
欲しかったけれど、その場で買うのは一つだけにした。
高いものは、王都で研究の予算を確認してからにする。
職人は名前と用途を帳面へ書き、次に来るときまでに別の試作品も用意できると言ってくれた。
店を出ると、湖の方から風が来た。
カイルがボクの包みを見て、今日は自分で持つのかと聞く。
「これは自分で持つ。落としたら嫌だから」
「俺は落とさないぞ」
「知ってる。でも、持ってたい」
そう言うと、カイルは納得したように頷いた。
宿までの道で、ボクは何度も包みの中を確かめた。
そのたびにカイルが笑う。笑われるのは少し恥ずかしかったけれど、新しいものを手に入れた日には、昔からそうだった。
「王都で図面が見つかったら、またここへ来ることになるね」
「ああ」
「そのときは、工房も寄ろう」
「塔だけじゃ済まないんだな」
「見てから」
今度は、買うつもりで言った。
宿の入口へ着くと、カイルが先に扉を開けた。
ボクが入るまで待っているその顔には、さっきの気の抜けた笑みが、まだ少し残っていた。