幼馴染の勇者を庇って女になったボク、見た目が勇者の好みど真ん中らしい 作:本郷カキツバタ
村へ入る手前から、粉挽き場の水車の音が聞こえていた。乾いた土の道には古い轍が残り、川沿いの柳だけが記憶より大きくなっている。
セナ村へ向かう道は、ミルネから西へ延びていた。
王都へ直行する街道から半日ほど外れる。それでも寄っていこうと言い出したのは、カイルだった。
「帰ってきたと、顔くらい見せたい」
「うん」
ボクはそれだけ答えた。
顔を見せる。
その言葉が、以前なら何でもなかった。
村の入口で最初に気づいたのは、子供たちだった。
「あ、勇者様だ!」
声が上がり、粉挽き場の前にいた大人まで振り向く。
カイルの名が広がる。
リゼットとガレスの顔を知っている人もいて、「治癒術師様」「守護騎士様」と声が飛んだ。
ボクだけは、知らない女の人として見られている。
当然だった。
この姿で村へ来るのは初めてだ。
道の端へ避け、深く頭を下げる人までいた。
セナ村でそんな扱いをされたことはない。
カイルも居心地が悪そうに首の後ろを掻いた。
村の入口にある水車は、記憶より小さかった。横を流れる川も、あの頃にはもっと広かった気がする。
背が低くなったのだから、大きく見えてもよさそうなのに。
カイルとは、三歳の頃からここを走り回っていた。
水車の裏へ入り込んで二人まとめて叱られ、川へ板を浮かべて沈み、冬には凍った水桶へ手を突っ込んで、どちらが長く耐えられるか競った。
二十三歳の今から数えれば、もう二十年以上になる。
十五歳でボクだけが村を出た。
王都の術学院へ入るためだった。
それからは毎日一緒ではなくなったけれど、休暇で戻れば最初にカイルの家へ行き、戻れない季節には手紙を書いた。ボクの手紙は新しく覚えた術式の話ばかりで、カイルの返事は村の出来事と「ちゃんと食べろ」が半分を占めていた。
村の外で過ごした八年まで含めて、幼馴染だった。
おかしなことを考えていると、向こうから声がした。
「カイル!」
走ってきたのは、粉挽き場で働いているアルトだった。ボクたちと同い年で、最後に会った三年前より腕が太くなっている。
アルトはカイルの肩を叩き、ガレスとリゼットへ頭を下げてから、ボクを見た。
「……リオは?」
手に持った杖を、少しだけ握り直した。
「ここ」
「え」
「だから、ボク。アルト、その粉、まだ髪についてるよ」
アルトの手が頭へ上がる。
途中で止まった。
「……本当に?」
「うん」
「何があった」
「長くなるから、座ってからでいい?」
アルトはボクの顔を見て、杖を見て、もう一度顔を見た。
それから、ひどく困ったように笑った。
「その言い方は、リオだ」
「さっきから、そう言ってるじゃないか」
アルトは少し迷い、カイルにしたように肩を叩こうとして、手を引っ込めた。
その動きを見て、ボクの方から腕を軽く叩く。
アルトはほっとした顔になり、村の方へ声を張った。
「帰ってきたぞ! 二人ともだ! リオもいる!」
ざわめきが一度止まった。
ボクの顔と杖を見比べてから、誰かが恐る恐る頭を下げる。
「……魔法使い様?」
「リオでいいよ」
言うと、今度は別の人が笑った。
「その返し方なら、本当にリオだ」
そこでようやく、空気が村のものへ戻った。
名前を呼ばれて人が集まる。
説明は一度で済まなかったし、驚いた顔も何度も見た。
それでも誰かが、昔ボクが川の灯りを全部消してしまった話を始めると、皆がボクを見て笑った。
「試しただけだよ。朝には直した」
「夜に消したから困ったんだろう」
カイルが横から言う。
そのとおりだったので、反論できなかった。
人垣の向こうから、聞き慣れた声が飛んだ。
「カイル!」
先に出てきたのは、エリナさん――カイルの母だった。
三年前より少し髪が短くなっている。けれど、カイルの腕を掴んで上下を確かめる手つきは昔と変わらなかった。
「三年ぶりに帰ってきて、顔くらい見せたい、じゃないでしょう」
「聞いてたのか」
「村の入口であれだけ人が騒いでたら聞こえるわよ」
その後ろから、ローディンさん――カイルの父も歩いてくる。
カイルの肩へ一度だけ手を置き、顔を見た。
「帰ったか」
「ああ」
それだけだった。
でも、カイルの肩から少し力が抜けた。
エリナさんはまだカイルの袖を引いている。
「痩せたんじゃない? ちゃんと食べてたの」
「食べてたよ」
「エリナさん、カイルの肩、外れるよ」
言うと、エリナさんの手が止まった。
こちらを見る。
目が、ボクの顔から杖へ移った。
それから、もう一度顔へ戻る。
「……リオ?」
「うん」
エリナさんは口を開いたまま、しばらく何も言わなかった。
「本当に?」
「今日、それ何回目だろう」
返すと、エリナさんの目元が少し歪んだ。
「その言い方なら、本当にリオね」
笑ったのか泣きそうになったのか、どちらか分からない顔だった。
その向こうから、今度は二人が来た。
マレナとオーウェン――ボクの母と父。
二人とも、ボクを見つけたところで足が止まった。
先に近づいたのは母だった。
腕を伸ばしかけて、途中で止める。
「リオ」
「うん」
ボクから一歩近づいた。
それでようやく、母の腕が背中へ回った。
抱きしめられる感触も、前とは違う。
腕の位置も、頬が当たる高さも。
それでも、母が息を吐く音は知っていた。
「生きて帰ったのね」
「帰ったよ」
離れると、父がボクの杖を見てから聞いた。
「身体は動くのか」
「普通に。魔法も使える」
「戻る方法は」
「今のところ、ない」
父は一度だけ頷いた。
「そうか」
それから、少し間を置く。
「腹は減ってるか」
「父さん、そこから?」
「話が長いなら、食べながらでいい」
思わず笑った。
結局、そのあとアスター家とフェルン家の居間を順に回り、魔王城で何が起きたかを二度説明した。
驚かれたし、同じところを何度も聞かれた。
それでも最後には、どちらの家でも「帰ってきた」が先に残った。
今夜はリゼットとガレスもいるので、四人まとめて村の宿に泊まることにしていた。
母とエリナさんにはそれぞれ家へ泊まれと言われたけれど、ボクとカイルだけ別の家へ戻るのも落ち着かない。
また来ると約束して、荷物を宿へ置いた。
◇
宿へ荷物を置いてから、ボクとカイルは古い納屋へ向かった。
村の共同の道具置き場だったところで、今は使わなくなったものが集められている。
子供の頃、壊れた灯具をもらってきては、ここで分解していた。
入口の戸は、昔より重くなっていた。
カイルが上の金具を持ち上げると、あっさり開いた。
「覚えてる?」
「上を先に外す。力だけで引くと引っかかる」
「違う。ここで、最初に壊したもの」
「灯りか?」
「灯りは、もともと壊れてた」
「じゃあ、棚だな」
ボクは黙った。
あれは、思っていたより棚板が薄かったのが悪い。
埃っぽい中へ入ると、窓際の机はまだ残っていた。表面に無数の引っかき傷があり、端には焦げた跡がある。
道具箱を開けたら、小さな飛行灯が出てきた。
輪の形をした木枠に、薄い硝子をはめたものだ。
ボクが魔法使いになった理由を一つに決めるなら、たぶん、こういう物を放っておけなかったからだ。
子供の頃から、派手な火を出すことにはあまり興味がなかった。
村の街灯が一つだけ点かないと、なぜそこだけ暗いのか知りたかった。水車小屋の保温式が冬だけ止まると、線を写して家へ持ち帰った。
十二歳のとき、村へ修理に来た術学院の巡回術師にその帳面を見つけられた。
『魔力量は普通。でも、流れの違いを読むのが異様に細かい』
そう言われた。
十五歳で受けた学院の入学試験でも、大きな灯火を作る課題より、わざと一本切られた術式を直す課題の方が早かった。
それからずっと、ボクは「作る」より「読む」「直す」「つなぎ替える」方へ進んだ。
この飛行灯は、そのずっと前の失敗作だった。
内側には二種類の術式を刻んである。
一つは硝子を光らせるための灯火式。
もう一つは木枠そのものを持ち上げる浮揚式。
本来なら別々に魔力を加減するべき二つを、子供の頃のボクは一本の線で無理やりつないでいた。
明るくしようとすると浮く力まで強くなり、低く飛ばそうとすると灯りまで暗くなる。
川の上を飛ばせたらきれいだろう、と作り始めて、風に流されて水へ落ちるたびにカイルに拾ってもらった。
「まだ、あったんだ」
「捨てるなって言っただろ。リオが」
「……言ったっけ」
「毎回言ってた」
裏返すと、内側に昔の術式が残っていた。
ボクは思わず目を閉じる。
「見ないで」
「もう見えてる」
「ここの線、すごく無駄が多い」
指で木枠の裏をなぞる。
灯火式から浮揚式へ魔力を渡す線が、必要もないのに三度も曲がっていた。
「飛んではいたぞ」
「飛ばすたびに川へ落ちたでしょう」
「それも飛んだうちに入る」
「入らないよ。そのために、どれだけ魔力を捨ててるんだろう」
今なら、二つの術式を切り分ける。
灯りは灯り、浮く力は浮く力で調整し、必要なところだけ細い連結線でつなぐ。
術式再構築というほど大げさな作業でもない。
けれど、魔王城でやったことと根は同じだった。
どの線が何をしているのかを読み、必要な接続だけを残す。
目を閉じたまま、口元が緩んだ。
カイルは机の向こうから別の箱を下ろした。
中には、古い紙や本が詰まっている。ボクが町で勉強を始めた頃、ここへ置いていったものらしい。
「こっちも持っていくか」
「全部は無理だよ」
「珍しいことを言うな」
そう言いながらカイルが取り出したのは、厚紙に挟まれた小さな絵だった。
十五歳の春、村を出る直前に描いてもらったものだ。
黒に近い灰色の髪をした十五歳の少年が、真面目な顔をしようとして、かえって不満そうに見える。
その隣のカイルは、画家ではなく、ボクの方を見て笑いかけていた。
「こっちを向いてって、何度も言われたよね」
「リオが、変な顔をするから」
「普通にしてたよ」
「普通じゃなかったぞ」
笑おうとして、少しだけ息が詰まった。
絵の中のボクは、カイルの肩に近い高さにいる。
今の自分の髪が、紙の上へ一筋落ちた。二つの色が、紙の上でくっきり分かれた。
カイルは絵を取り上げなかった。
顔を覗き込んで、大丈夫かとも聞かなかった。
ボクが見終わるまで、隣に立っていた。
「……これは、持っていく」
言うと、カイルは頷いた。
「折れないように包む」
ボクは紙の端を指で撫でて、頷いた。
◇
窓際の長椅子に座り、昔の図面を広げた。
カイルが隣へ腰を下ろすと、木が小さく鳴る。
「これ、まだ耐える?」
「二人とも、昔より重いからな」
「ボクは、前より軽いと思うけど」
口に出してから、自分で少し驚いた。
そういう話を、冗談みたいに言えた。
カイルはボクの顔を見たあと、椅子の脚を確かめるように下を覗いた。
「俺が重くなった分は、ある」
「じゃあ、そっち側が壊れるね」
「壊れるなら一緒だろ」
「嫌なこと言わないで」
図面へ戻る。
椅子は昔のままなのに、隣に座ったカイルの肩が、ずいぶん高い。以前と同じ角度で紙を見せようとして、腕を上げ直した。
「ここ、何で二重にしたんだと思う?」
「片方だけじゃ、落ちたから」
「ああ……そうだった」
忘れていた失敗まで、カイルは覚えている。
術式の意味を理解していたわけではないけれど、何をしたら何が起きたかは、ボクよりよく覚えていたりする。
「それで、ボクがこの線を足した?」
「足して、今度は上へ飛びすぎた」
「回収したのは」
「俺」
「ありがとう」
「今言うのか」
笑って、隣を見る。
カイルも笑っていた。
けれど、ボクの顔を見たところで、その笑い方が変わった。
消えたわけではない。ただ、次の言葉が出るまで、目だけがこちらへ残っていた。
「何?」
「……髪に、埃が」
カイルの手が上がりかける。
ボクは自分で払った。
「取れた?」
「ああ」
もう一度図面を見せようと寄ると、カイルの肘が少し後ろへ動いた。
邪魔だっただろうか。
それとも、まだ今の姿で隣へ座られると落ち着かないのだろうか。
考えているうちに、カイルが別の頁を指した。
「こっちは、直さないのか」
「直したい。今なら、風があっても流されないようにできる」
「また、川で?」
「うん。いつかね」
飛行灯を机へ戻す。
持っていくには嵩張るので、今日はここへ置いておくことにした。アルトへ頼めば、勝手に捨てられることもないだろう。
結局、持ち帰る本は二冊になった。
カイルは数えたけれど、何も言わなかった。
◇
夕食のあと、四人で泊まる宿の居間に集まった。
リゼットは村の診療所で使う薬草について聞き、ガレスは壊れた戸の金具を直していた。
二人とも、初めて来た場所でもそれぞれ自分の居場所を見つけるのが上手い。
ボクは荷物へ本を詰め、入らなかった一冊を膝へ置いた。
古い画集だった。
術師が描いた魔道具の図版があるので買ったのだけれど、後半には人物画も載っている。
頁をめくって、手が止まった。
銀に近い淡い髪。
少し伏せた、横長の目。
黒い長衣を着て、窓辺に座る女の人の絵だった。
この頁を見せたとき、カイルは何と言っただろう。
綺麗だと思う。
確か、そんなことを言った。
珍しく人物画を長く見ていたので、ボクがからかったのだった。どうせならこういう人と話してみればいいのに、と。
ボクは、自分の肩へ落ちた髪をつまんだ。
絵の髪と、見比べる。
そこへ、カイルが戻ってきた。
「何を見てる」
「……ちょっと」
画集を閉じるより早く、カイルの視線が頁へ落ちた。
表情が止まる。
それから、ボクの髪へ目が動いた。
ボクは画集を膝の上へ置いたまま、カイルを見上げた。
もしかして。
そう思ったら、療養所での変な間も、宿で離された椅子も、急に違うものに見え始めた。