野蛮なゲリラエルフは、如何にして平和なデータセンターを焼き払うに至ったか   作:とちがら

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第一話 蜂起

 

 第一次大森林戦争の開戦時期をいつとするかについて、歴史家の見解は今もって一致していない。

 

 長く通説とされてきたのは、越境暦七十九年六月十二日の第三七号林区騒擾(そうじょう)を始まりとする説である。人類側の公文書は翌十三日の死者発生を、戦後の大森林解放戦線はその二か月前の伐採抗議を、それぞれ起点に置く。現在もっとも有力な説は、そのいずれでもない。

 

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 

 六月十二日の朝、森を出た二十三人の老人たちは、自分たちが戦争を始めるとは夢にも思っていなかった。多くは杖をつき、何人かは弁当を持っていた。

 

 その年の秋には、工区に火薬を詰めた南瓜(かぼちゃ)を腰に下げ、人類の物流ドローンに乗ったエルフが飛来するようになる。

 

 話は、老人たちが森を出る前日の朝から始めたほうがよい。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 ボルの家は、大森林北縁の村の、そのまた外れにあった。

 

 樹皮と(こけ)()いた屋根は、二年前から半分だけ人類製の防水材に変わっている。張り替えた部分は雨を一滴も通さず、張り替えていない部分は、相変わらず雨音をよく通した。ボルは雨の夜になると、決まって古い側の下に寝床を移した。新しい側の下では、雨の音が聞こえないからである。

 

 この数年は、その雨音も、北の尾根から夜通し届く低い唸りに紛れるようになった。ボルは雨の夜も、目を開けたまま横になっていた。

 

 人類の会社は、村の家々に、音を通さない二重の窓を配った。窓を閉めると、唸りは小さくなった。雨の音も、聞こえなくなった。ボルの家の窓は、今も納屋に立てかけてある。

 

「爺ちゃん、またそれ食べてんの?」

 

 朝の卓で、孫のリュカが笑った。

 

「うめえがらな」

 

 ボルは人類製の小瓶を逆さにした。赤い、粘り気のあるものが、ゆっくりと黒パンの上へ落ちていく。瓶の口にこびりついた分を、ボルは指ですくって()めた。

 

「最初、赤い泥って言ってたじゃん」

「苺ジャムだべ」

「覚えたんだ」

「もうねえな」

「昨日、爺ちゃんが半分食ったからだよ」

「買ってこ」

「俺の給料なんだけど」

 

 リュカが声を上げて笑った。

 

 人類が来てから、この孫はよく笑うようになった、とボルは思う。

 

 リュカは二十一歳になる。人類の会社の青い作業着を着て、第七北方データセンター第三七号工区で資材を運んでいる。去年、母親が肺を悪くしたときは、会社の医療保険で人類の診療所にかかった。村の薬師が三度首を振った病を、白い錠剤が十日で治した。

 

「今日、遅くなる」

「また箱が」

「箱って言うなよ」

「箱だべ。窓もねえ、煙突もねえ、でっけえ箱だ」

「中はすごいんだぞ」

「見だごどあんのが?」

「ない。俺、資材運んでるだけだもん。中に入れるのは人類の技師だけだよ」

 

 ボルは黒パンを置き、孫の尖った耳をじろりと(にら)んだ。

 

「耳まで丸ぐなったが!」

「なってねえよ!」

 

 リュカが慌てて両耳を押さえた。指の間から、ちゃんと尖った耳の先がのぞいている。ボルは満足して、パンの残りを口へ放り込んだ。

 

 ボルはジャムを食った。人類の放送局が流すラジオを聞き、半分も分からないまま天気予報だけは覚えた。孫が持ち帰った古い地球の映画も見た。森の小さな毛むくじゃらの連中が、槍と縄で帝国の兵隊とやり合う話だったが、ボルは途中で寝た。

 

「あれ、最後はどうなったんだ」

「毛むくじゃらが勝つよ」

嘘こげ(嘘つけ)。槍で鉄の兵隊さ勝でるわげねえ」

 

 孫は昔ほど、ボルに物を訊かなくなった。食える(きのこ)も、明日の天気も、今はポケットの中の端末が教えてくれる。ボルは、孫の持ち帰るものを試す側になった。

 

「そういや、姉ちゃんから荷物来たよ」

 

 リュカが思い出したように言った。

 

「元気が」

「たぶん。菓子入ってた。地球の、甘いやつ」

「仕事は」

「接客だって」

 

 リュカの姉は、二年前から地球へ()()()に行っている。何の店で、どういう客を相手にしているのか、手紙には書いてこない。書いてこないことを、家族の誰も問いたださなかった。

 

 姉の仕送りで、家の屋根は半分、人類製の防水材になった。雨漏りはなくなった。同じ二年のあいだに、村の祭りで踊る若い娘の数は、目に見えて減った。

 

 その日の昼、ボルは森がなくなったことを知った。

 

 知らせを持ってきたのは、茸採りに出ていたヤラ婆である。第三七号林区の境の(にれ)が、根元から切られている。一本や二本ではない。一晩で、見渡すかぎり切られて、枝が焼かれている。ヤラ婆はそう言って、寄り合い小屋の前で腰を抜かした。

 

 ボルは杖をつかんで森へ入った。

 

 第三七号林区は、ボルが生まれる前から、ボルの一族が罠を掛けてきた森である。樹齢三百年を超える楡の大木が一本、林区の真ん中に立っていた。ボルの父はその根元に罠を仕掛け、母はその樹皮から染料を採った。妻のミナと初めて口づけを交わしたのもその木の陰だった。

 

 その楡も、もうなかった。

 

 焦げた土の匂いがした。切り口の白い株が、墓石のように並んでいる。昨日まで林区の外にあった工区の柵が、一晩で、森の側へ二百歩ほど押し出されていた。その向こうを、黄色い重機がゆっくりと()っていた。さらにその向こう、森のあった場所の先に、窓も煙突もない灰色の巨大な建物が、低い唸りを上げてうずくまっていた。

 

なして(なんで)おらの森が、焼がれねばなんねのだ!」

 

 ボルは切り株を杖で叩いた。乾いた音がして、杖の先が少し欠けた。

 後から追いついてきた老人たちが、ボルの背中越しに灰色の建物を見上げた。

 

「第七北方データセンターだど」

「でーたせんたあ」

んだ(そうだ)

「なんだべ、それは」

「計算する箱だ」

 

 ボルが答えた。

 

「何ば計算する」

「いろいろだ」

「いろいろって?」

「……いろいろだ」

 

 二か月前、東の林区が切られたときには、若い者が測量の杭を抜き、叱られて終わった。

 老人たちは、切り株の前で車座になった。

 

「いっきだ」

 

 最初にそう言ったのは、トビ爺だった。

 

「なんだど?」

「一揆だ、一揆」

「何さ一揆すんだ」

「あの箱さだ」

「箱さ一揆してどうすんだ」

「焼ぐ」

 

 誰かが乾いた声で笑った。笑いはすぐに途切れて、切り株を撫でる風の音だけが残った。

 

「神さまは、何してらんだ」

 

 ヤラ婆が空を見上げた。

 

「世界ば歌い出したっきり、寝でらんだべ」

「おらだぢさ、節だげ残してな」

 

 世界は最初、一つの歌だった。神が種族ごとに分けて渡し、エルフには旋律だけが残ったという。老人たちは、歌詞のない節を口笛で子供へ伝えてきた。

 

「ボル、どうする」

 

 トビ爺が言った。車座の老人たちが、揃ってボルの顔を見た。

 ボルは、とっさに返事ができなかった。

 

 寄り合いで「どうする」と訊かれるのは、いつ以来だろう。二十人を超える老人の目が、ボルの口元を待っていた。

 

 少し、胸が鳴った。

 ボルは、それを怒りのせいだと思うことにした。

 

「神さまが何もしねんだら、おらだぢがやるしかねえべ」

 

 そこへ、車座の輪を割ってリュカが駆けてきた。青い作業着のまま、額に汗を浮かべている。リュカの持ち場は工区の反対側の資材置き場で、朝の搬入路から林区は見えない。昼に噂を聞き、抜けてきたらしかった。

 

「爺ちゃん! 何やってんだよ」

「一揆だ」

「分かんねえよ!」

 

 リュカは祖父に詰め寄りかけて、その肩越しに伐採地を見た。そして、しばらく何も言わなかった。

 この林区で、ボルは孫に弓を教えた。あの楡の根元で、孫は初めて弦を引いた。

 

「おめも知らねがったな」

「……第三七号林区まで切るとは、聞いてなかった」

「ほれ見ろ」

「でも、契約はあるんだ。評議会が土地の使用に同意してる」

「おらは同意してねえ」

「村には補償金も出る。人間が来て、悪いことばっかりじゃなかっただろ。仕事ができた。薬も来た。道路もできた。母さんだって助かった。爺ちゃんだって、毎朝ジャム食ってるじゃないか」

「んだな」

「だったら——」

 

 ボルは、切り株の一つにゆっくりと腰を下ろした。まだ温かかった。

 

「んでも、それど、森ば勝手に取っていいがは、別だべ」

 

 リュカは黙った。

 

「好ぎな相手だば、何されでも黙ってねばなんねのが?」

「……そうじゃないけど」

「んだら、話っこさ行ぐ」

「一揆は?」

「話して、返してけねがったら考える」

 

 村の道端で、ボルはセインの母親に呼び止められた。

 

「うちの息子まで仕事なぐなったら、おめ、責任取れるのが」

 

 セインはリュカの幼なじみで、同じ工区で働いている。子供のころは二人して、ボルの罠を勝手に見て回っては叱られていた。セインの給金で、セインの家は去年、井戸を掘り直した。

 

「仕事ばやめろとは言ってねえ」

「工事が止まったら、運ぶ物もねぐなるべ」

「森ば残して、別んとこで——」

「どこの森だ」

 

 ボルは、道の先を見た。自分の罠のない森ならよい、と言いかけていた。

 

「明日、向こうに聞ぐ」

「ボル。聞ぐだけだぞ」

 

 女は、ボルの杖を握った。

 

「うちの子ば、おめの一揆の人数に入れねでけろ」

「入れねえ」

 

 杖が離れた。明日集まる者だけの話ではない。ボルは寄り合い小屋へ戻った。

 その夜、寄り合い小屋には、二十三人の老人が集まった。

 

「何ば持って行ぐ」

「弁当だべ」

「旗っこも要るべ。一揆には旗だ」

 

 ヤラ婆が、古い敷布を引っ張り出してきた。誰かが(すす)と獣脂で墨を練った。筆を持たされたのは、ボルだった。

 

「村の名も書ぐが」

「書がねえ。森ば返せ、それだげだ」

 

 セインの母親との約束を、ボルはそれで守ったつもりだった。

 

 ボルは、敷布の真ん中に、エルフ文字で大きく「森ば返せ」と書いた。字は震えて、右へ傾いた。老人たちは、立派だ、立派だと言い合った。

 

 そこへ、仕事帰りのリュカが顔を出した。

 

「それ、エルフ文字じゃ門の人に通じないよ」

 

 老人たちは顔を見合わせた。この中に、人類の字を書ける者は一人もいなかった。

 

 リュカはしばらく黙っていたが、やがて筆を取り、敷布を裏返して、人類の字で大きく書いた。

 

《森を返せ》

 

「おめも一揆さ加わるのが」

「加わらないよ。通じないと、爺ちゃんたちが余計に怒るだろ」

 

 リュカはそう言って、筆を置いた。

 寄り合いから帰った後、リュカは祖父の寝床の前で長いこと立っていた。

 

「明日、俺も行く」

「おめは仕事だべ」

「仕事は休む。爺ちゃんたちだけで行かせたら、何するか分かんないだろ」

 

 ボルは寝返りを打って、古い屋根の下で目を閉じた。その夜、雨は降らなかった。

 

 翌朝、二十三人の老人が森を出た。リュカは二十四人目になった。

 一行が着いた第七北方データセンター第三七号工区の外周柵は、高さ二・四メートルの金網でできていた。

 

 柵の向こうでは、砕石を敷いた平地に、太い管が何本も伸びていた。管は林の奥、川のほうへと続いている。

 

 警備員が三人いた。二人は門の前に、一人は門の内側に立っていた。

 門の前の、年かさのほうを見て、リュカは小さく声を上げた。

 

「マルコさん」

 

 第三七号工区の警備主任、マルコ・ディアスは、毎朝、資材搬入の車列に手を振る男だった。四十を過ぎた地球人で、娘の写真を端末の待ち受けにしている。去年の冬、搬入口で凍えていたリュカに、自販機の温かい缶を一本くれたことがある。

 

「リュカか。今日は休みだったな」

「すみません、この人たちがちょっと話をしたいと」

 

 マルコは、老人たちとリュカを見比べて、困ったように笑った。

 

「悪いが、ここから先には入れられないんだ。規則でな」

「分かってます。話を聞いてくれる人を、呼んでもらえませんか」

「わかった。だが、時間がかかるかもしれん」

 

 リュカは祖父のほうへ振り返り、それを共通語に訳した。ボルは、まだ納得していない顔で頷いた。この工区の警備員で、共通語を話せる者は一人もいなかった。

 

 門の内側にいたもう一人、二十二歳の地球人アルバイト、ノア・ベネットは、杖をついた老人の一団が近づいてきたときから、手の中の端末を老人たちへ向けていた。

 

 《BeNow》の通知が来ていた。一日一度、その瞬間の自分と周囲を撮って投稿する、地球で流行の交流サービスだった。ノアは老人たちを背景に、自分の顔を画面へ入れた。

 

《今日バイト先にエルフのデモ来てる》

 

 投稿は、データセンターの建設に伴って敷かれた通信網を通り、海峡の島にある越境門から地球へ届いた。

 

「森ば返せ」

 

 ボルは門の前に立ち、マルコの隣の警備員に向かってそう言った。

 警備員は困った顔でリュカを見た。リュカが訳すと、警備員は訓練どおりの丁寧さで答え、リュカがそれを祖父へ返した。

 

「担当者は、もう呼んであるって。ここで待ってくれって」

「中で話す」

「……工事区域だから、入れないって」

「昨日まで、おらだぢの森だ」

「今は工事区域だって」

「いづから、おめだぢの土地になった」

 

 リュカは、それを訳さなかった。訳したところで、警備員には答えられなかっただろう。答えを知らなかったからである。

 

 第三七号林区の土地使用契約は、異世界開発公社と北方諸族評議会との間で、越境条約に基づき適法に締結されていた。補償金の額も、支払い先も記されている。

 

 評議会は、診療所や学校を人類側から引き出してきた。その交渉の力は、北縁でも認められていた。だが、ボルたちは、自分たちの森を明け渡す代表だと思ったことはなかった。都市の若い議員たちは、村が共同で使う林の慣わしを十分には知らなかった。手続きに瑕疵(かし)はなかった。その手続きを村の老人に説明した者が、いなかっただけである。

 

 十分が過ぎた。二十分が過ぎた。三十分が過ぎた。

 担当者は来なかった。

 

 正確に言えば、来ようとはしていた。だが第三七号工区の現場責任者は、同じ時刻、冷却設備の基礎に施工不良が見つかったという報告を受け、その対応に追われていた。総事業費二十一億ドルの工事において、門前に座り込んだ二十三人の老人の優先順位は、決して高くなかった。

 

 老人たちの何人かは、持ってきた弁当を開いた。ヤラ婆は腰をさすっていた。

 リュカはマルコに、もう一度無線で呼んでくれと頼んだ。マルコは呼んだ。返事を聞くうちに、その顔から笑いが消えた。

 

「今日は帰って、明日また来ねえか」

 

 戻ってきた孫が言った。

 

「明日だば、来るってが」

「……明日も、呼んでもらう」

「その間も、切るんだべ」

 

 一時間が過ぎたころ、ボルの中で何かが擦り切れた。

 

「話っこするって、言ったべ!」

 

 ボルは金網を両手でつかみ、揺すった。

 

「柵から離れてください!」

「離れろって、爺ちゃん!」

「担当者ば出せ!」

 

 リュカが訳すと、警備員は声を張り上げた。

 

「呼んでいます!」

「いつ来るんですか」

「分かりません」

 

 リュカは、その答えを訳せなかった。

 

「なんて言った」

 

 ボルが訊いた。孫は答えず、金網を握るボルの手を外そうとした。

 

「また待てってが。おめまで、そっちのことばかり言うのが」

「俺は、爺ちゃんに怪我してほしくないんだよ!」

 

 孫を困らせたいわけではなかった。だが、ここで手を離せば、孫に連れられて帰る年寄りに戻る。

 

「んだら、入る!」

「爺ちゃん、待てって!」

 

 リュカが祖父の腕をつかんだ。そのとき、老人の一人が門扉を押し、警備員が押し返した。誰かが砕石に足を取られて転んだ。門扉の蝶番(ちょうつがい)が、嫌な音を立てて歪んだ。押し返していた若い警備員が仰向けに倒れ、その上を老人たちの足が越えかけた。声が一斉に高くなり、警備員の一人が無線に何か叫んだ。

 

「やめろって! みんな下がって!」

 

 リュカが、老人たちと警備員の間へ体を割り込ませた。人類語と共通語の両方で、双方に向かって叫んだ。

 

 ヤラ婆の掲げた旗が、門扉にぶつかって裏返った。人類の字で書かれた《森を返せ》が、門の内側へ向いた。

 

 ノア・ベネットはまた、端末を向けていた。

 

「おい、撮るな!」

 

 同僚が怒鳴った。その直後だった。

 

 マルコ・ディアスが、腰のホルスターから非致死性電撃投射器を抜いた。

 

「下がれ!」

 

 リュカが振り返った。銃口に似た黒い器具が、まっすぐ孫の胸へ向いていた。

 

 ボルには、それが何なのか分からなかった。人類の道具のことは、いつもたいてい分からない。

 

 分からなくても、一つだけ分かった。

 

 孫へ向けられている。

 

「リュカ!」

 

 ボルは孫を突き飛ばした。リュカが、砕石の上に尻から転がった。

 

 乾いた破裂音が、二度した。

 

 胸に、何かが打ち込まれた。

 

「爺ちゃん!」

 

 空が、ゆっくりと回った。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 マルコは、一発目の電極針が厚い毛織りの上着に阻まれたと判断し、二発目を撃った。今度は、針が二本とも上着を抜けた。一本は心臓のすぐ上に、もう一本は脇腹に刺さった。筋肉の自由を奪うための電流が、その間を流れた。

 

 成人の地球人への使用を前提として認可された、非致死性装備だった。エルフに対する安全性の試験は、行われていなかった。

 

 警備主任マルコ・ディアスに殺意はなかった。後の聴取記録によれば、彼は門扉が押し破られる危険を認め、規定に従い、手持ちの装備の中で最も致死性の低いものを選択した。拳銃を抜かなかったことを、彼は聴取の場で三度繰り返している。器具を向けた先にいたのが、毎朝手を振っていたエルフの青年だったことについては、一度も語らなかった。

 

 ボルは人類側の診療所へ運ばれ、夕刻に一度、意識を取り戻した。白い部屋で、腕に何本も管を刺されていた。

 

 それより少し前、診療所の廊下で、リュカは人類の医師の説明を母親へ訳していた。若い女の医師で、言葉を選びながら、しかし正確に話した。

 

「心臓の電気信号が、乱れたままです。エルフの方の心臓にこの種の電流が流れた場合のデータが、私たちには、ほとんどありません。できることは全部しています。ただ、今夜から明日が山です」

 

 リュカは、少し間を置いてから、母親のほうを向いた。

 

「心臓がびっくりしてるだけ。明日には落ち着くって」

「んだら、おめ、なんで泣いでら」

 

 母親に訊かれ、リュカは口元を袖で拭った。

 

「びっくりしたから」

「お医者さん、ほかにも言ってらべ」

 

 リュカは医師を見た。何も聞き直さず、母親へ向き直った。

 

「ここにいてくれって。今夜は」

 

 母親は病室の扉を見て、それから頷いた。医師は何も言わず、リュカの肩に一度だけ手を置いて、病室へ戻った。

 

 枕元の椅子には、それからずっとリュカが座っていた。

 

「爺ちゃん」

「なんだ」

「分かるか」

「わがる」

「痛い?」

「うるせ」

 

 それを聞いて、リュカが泣いた。

 

「ごめん」

「なしておめが謝る」

「俺が前に出たから」

「馬鹿こぐな」

「でも」

「孫ば庇うのに、理由っこいるが」

 

 ボルは息を整えた。胸の奥で、何かがうまく噛み合わずに空回りしている感じがした。人類の機械が、枕元で小さな音を立て続けていた。

 

「仕事、明日、あるんだべ」

「行くわけないだろ」

「行げ」

「爺ちゃん」

「ジャム作ってる奴ど、おら撃った奴は、別だべ」

 

 リュカは答えなかった。

 

「リュカ」

「なに」

「耳、まだ、尖ってらが」

 

 リュカは泣きながら笑った。両手で自分の耳の先をつまんでみせた。

 

「尖ってるよ」

「んだば、いい」

 

 それが、ボルが孫に残した最後の言葉になった。翌朝、ボルは死んだ。

 

 人類企業は、治療費の全額負担と弔慰金の支払いを申し出た。警備会社は「現場における不幸な事故」として遺憾の意を表明した。異世界開発公社は、第三者調査委員会の設置を発表した。

 

 工事は、止まらなかった。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 ボルが死んだ翌朝、リュカは台所の卓の上に、空になったジャムの瓶を見つけた。祖父が、あの朝に指で舐めた瓶だった。瓶の口には、まだ赤いものが少しこびりついていた。リュカはそれを洗うことができず、棚の奥へしまった。

 

 葬儀の日、村の広場は、妙に広く見えた。

 

 集まったのは、親族と、老人仲間と、近所の者だけだった。データセンターで働く若者は、リュカのほかには、セインしか来なかった。

 

「気の毒だとは思うよ。でも、工事を止められたら困るんだ」

「それ、今言うことか」

 

 セインは、手にした香を下ろした。

 

「昨日、村の人たちが、うちにも工区へ行くなって言いに来たんだ。辞められないって、伝えてくれよ。妹が、来年から地球の学校なんだ。俺がここを辞めたら、学費が払えない」

 

 リュカは香を指さした。

 

「先に、それ。爺ちゃんに」

 

 セインは頷いて、香を手向けた。目を閉じると、しばらく開かなかった。

 

「言っとく」

 

 帰りかけた背中へ、リュカは言った。セインは振り返り、何も言わずに頭を下げた。

 

 人類企業から届いた弔花だけが、場違いなほど立派だった。白い百合を何十本も束ねたもので、村の誰も、その花の名前を知らなかった。

 

 その日の夕方、墓の前には、百合とは別に、黄色い野の花が一束置いてあった。子供のころ、リュカとセインが、ボルの罠を見に行く道で摘んでは振り回していた花だった。

 

 ノア・ベネットの投稿は翌日には削除されていた。同僚に止められても撮り続けた動画は、すでに転載を重ねていた。《森を返せと訴えた老人が死亡》。映像は北縁の村々と地球へ広がった。

 

 葬儀の夜、リュカは家に戻った。弔いの客はもう帰り、土間には、トビ爺とヤラ婆だけが残っていた。

 

 家の壁には、祖父の弓が掛かっている。狩りのための古い弓で、握りのところが祖父の手の形に擦り減っていた。子供のころ、リュカもこの弓で狩りを教わった。最初に教わったのは、弦の引き方ではなく、弓を向けてはならない先のことだった。

 

獲らねえ(獲らない)ものさ、弓ば向げるな(向けるな)

 

 壁には、人類製の青い作業着も掛けたままになっていた。リュカはそれを下ろして、胸に刺繍された白い社名を、しばらく見ていた。

 

 あの日まで、その社名は少し誇らしかった。森しか知らなかった自分が、人類の会社で働いている。金を稼ぎ、母親に薬を買い、知らない料理を食べている。自分は未来へ進んでいるのだと思っていた。

 

 リュカには、何を憎めばいいのか分からなかった。

 

 引き金を引いた警備主任か。警備会社か。人類の会社か。勝手に契約を結んだ評議会か。あの灰色の箱か。それとも、祖父を門まで連れていった自分か。

 

 ただ、爺ちゃんがいない。朝の卓で、ジャムの瓶を逆さにする者がいない。その事実だけは、どうしようもなく分かった。

 

「いっきだ」

 

 帰り支度をしていたトビ爺が、土間で(つぶや)いた。

 

 誰も笑わなかった。

 

 ヤラ婆が、口笛で創世の節を吹き始めた。

 

 歌詞はなかった。拍子も一定ではなかった。途中で息が続かなくなり、節は何度か途切れ、また途中から始まった。ただ、旋律だけがあった。

 

「いっきだ、いっき」

 

 トビ爺が、もう一度言った。

 

 リュカはただ、壁の弓を見た。

 

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