野蛮なゲリラエルフは、如何にして平和なデータセンターを焼き払うに至ったか 作:とちがら
ボル老人の死は、北縁の若者たちの一部を立ち上がらせた。
だが、抗議が戦争へ育つには食料と薬とが要る。
それらをもたらした男は、ボル老人が死ぬ二年前から週に二度、同じ店へ通っていた。
「シャッチョさん、今日もマリアちゃん?」
「ああ。百二十分だ」
「好きねえ」
「そういう言い方はやめてくれ。私は彼女と話をしに来ているんだ」
「ハイハイ、シャッチョさん」
「だから、私は社長ではない」
男は毎回そう訂正し、受付の男は毎回それを聞き流した。
男の名は、エドガー・クロウリーという。四十七歳。弁護士の資格を持ち、非営利団体である《エルフ越境人権協会》の常任理事を務めている。独身で、週に二度、火曜と金曜の夜に、港湾地区の裏通りにあるこの店を訪れた。指名も、決まっていた。
源氏名を、マリアという。
「先生、いらっしゃい」
扉を開けると、マリアは今日も笑った。
白金色の髪を肩で揃え、長い耳の先に小さな銀の輪を二つ付けている。地球の女よりわずかに細い肩をしていて、笑うと目尻が少し下がる。エドガーはその笑顔を見るたびに、やはり自分と彼女の関係は特別なのだ、と思った。
「今日は少し疲れている? 目の下が、少し暗い」
「先生、よく見てますねえ」
「君のことだからね」
マリアはまた笑った。ほら、とエドガーは思う。彼女は、自分と話すことを楽しんでいる。
エドガーは、この店でマリアに指一本触れたことがなかった。それを、ひそかに誇りにしていた。
自分は他の客とは違う。彼女を商品として扱いたくない。料金を払っているのは、あくまで店の制度上そうしなければ彼女と会えないからである。エドガーは、少なくとも自分に対しては、そう説明していた。
「この前の話の続きなんだが」
「はい」
「越境就労者保護法の改正案が、また委員会で止まった」
「へえ」
「A国の議員が、雇用の流動性を損なうと言い出してね。だが、そもそも異世界出身の労働者というのは、地球の労働法の——」
「先生」
「なんだい」
「肩、揉みましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
「そうですか」
マリアが壁の時計を見た。エドガーも、つられて見た。まだ百七分あった。
「特にエルフの女性の就労環境は深刻だ。地球へ来た若いエルフの女性が、どんな仕事に就いていると思う?」
「さあ。なんでしょうねえ」
「笑い事じゃないんだよ、マリア」
「はあ」
「彼女たちには情報も人脈もない。悪質な仲介業者に搾取される例がいくらでもある。私はね——」
その夜、後世マリアのものではないかと推定される匿名の交流アカウントに、次の投稿が残されている。
《おしゃべりだけの客が一番めんどくさい》
《今日も120分》
《「地球に来たエルフの女がどんな仕事してると思う?」って私に聞いてきて死ぬかと思った》
《お前が今いるところだよ》
◇ ◆ ◇
エドガーがマリアを初めて指名したのは、二年前の秋だった。
八歳でエルフの使節団の映像を見て以来、エドガーはエルフが好きだった。大学で異世界法とエルフ文字を学び、二十代の終わりに協会の創設へ加わった。二十年近く、彼らの権利保護に携わってきた。議員にも顔が利いた。
家には、帰るのが遅かった。帰っても、待っている者はいなかった。部屋の壁には使節団の古い写真が額に入れて掛けてあり、冷蔵庫には、たいてい飲み物しか入っていなかった。
四十五歳のある夜、エドガーは港湾地区の裏通りで、エルフの女性が在籍することを示す小さな看板を見つけた。
看板の前を、十分ほど往復した。それから入った。
最初の夜、エドガーは上着も脱がずに椅子の端に座り、名刺を出しかけて、慌ててしまい込んだ。それから相手の出身地を訊き、北縁の村だと聞くと、北方諸族の歴史について十五分話した。十五分のあいだ、相手の顔をほとんど見られなかった。
「お客さん、学校の先生?」
「いや。……弁護士だ」
「じゃあ、先生ですね」
その夜から、エドガーは「先生」になった。
帰り際、エドガーは料金とは別にチップを差し出そうとして手を止め、結局それを引っ込めた。チップを渡すと、何かを買ったことになる気がしたからである。マリアは、その手の動きを黙って見ていた。
翌週も、エドガーは来た。その次の週も来た。
贈り物もした。高級ブランドの革の鞄を渡した夜は、マリアも喜んでくれたと思った。
《クソ客から鞄》
《調べたらオーク革だった》
《お前異世界人権活動家だろ》
《即換金》
別の夜、マリアは何気ない調子でこう訊いた。
「先生のところって、異世界の他の人種も助けるんですか?」
「もちろん。異世界全体の人権状況には、関心を持っている」
「オークの難民は?」
「それはオーク権利協会の管轄だ」
「マーマンは?」
「水棲種族支援基金がある」
「じゃあ先生は、エルフだけ?」
「我々には、我々の使命がある」
「なんで、エルフなんです?」
エドガーは少し考えた。社会的脆弱性。越境人口の規模。法制度上の空白。説明なら、いくらでもできた。講演で百回はしてきた説明である。
だがこの夜、エドガーは珍しく、正直に答えた。
「好きだからだ。それでは駄目か?」
マリアは一瞬目を丸くし、それから笑った。
その夜の匿名アカウントには、一行だけ残っている。
《クソ客、開き直っててちょっと笑った》
翌年の夏、マリアのほうから、珍しく相談を持ちかけたことがある。
「先生。知り合いの子の話なんですけど」
「うん」
「地球に来るとき、仲介の人に旅券を預けたんですって。そしたら、借金を返すまで返さないって言われて。借金、渡航費だけのはずだったのに、毎月増えてくって」
エドガーは、マリアの顔を見た。マリアは、壁の時計を見ていた。
旅券の取り上げは、越境就労者保護法で明確に禁じられている。エドガーが十年来、講演のたびに例に挙げてきた手口だった。目の前のエルフが、その「知り合いの子」の話をするときだけ、爪の先で膝を掻いていることに、エドガーは気づいた。
「仲介業者の名前と、借金の書類があれば、写しを。私の事務所から、正式な文書を送る。費用はかからない」
「……いいんですか」
「私の仕事だ」
「お店に、何か来ます?」
「店が関わっていれば、確認は要る」
「じゃあ、いいです」
マリアはもう笑っていた。次の話を始める時の顔だった。エドガーは、出しかけた名刺を机に置いた。
「待ってくれ。君が知らないところで、勝手に進めたりしない」
「先生は困らなくても、その子は明日も働くんですよ」
エドガーは机の名刺を取り、裏に自分へ直接繋がる番号を書いて渡した。
「まず書類だけ見る。誰へ連絡するかは、その後で本人と決める。やめるなら、そこでやめる」
百二十分の終わりを告げる音がした。いつもなら、マリアはすぐに扉を開けた。この日は、端末から書類の写真を送るまで、立たなかった。
三週間後、マリアの手元に旅券が戻った。仲介業者の口座からは、利息として取られていた金まで返金された。
《本当にやるとは思わなかった》
エドガーは、その件について店で一度も触れなかった。マリアも触れなかった。その後も火曜と金曜の百二十分は、エルフ人権の講義のまま続いた。
その冬、マリアが風邪をひいた夜、エドガーは話の途中で立ち上がった。
「休んだほうがいい。料金は払う。寝ていなさい」
「まだ、十分ですよ」
「今日は帰る」
「私、何かしました?」
そう訊かれて、エドガーは上着を着る手を止めた。善いことを言ったつもりでいた。
「金曜も来る。今日の続きは、その時に聞いてくれ」
マリアは少し黙ってから、「短めにね」と言った。
受付で、残りの時間を別の娘に替えるかと訊かれた。エドガーが、マリアの百二十分のままにしてくれと答えると、受付の男は初めて茶化さずに頭を下げた。
《おっさん、今日120分取って10分で帰った》
《神》
春になると、マリアが別の客の話をした。
「この前のお客さん、地球の船乗りで。港の話がおもしろくて。南の海には、夜になると光る魚がいるんですって」
「その男は、君を大切にしているのか?」
エドガーの声は、自分でも驚くほど硬かった。
「お客さんですよ」
「私は?」
「お客さんですよ」
エドガーは黙った。その日、百二十分のうち残りの百四分、彼はエルフの人権について一度も話さなかった。
翌週も、エドガーは来た。花束を持っていた。船乗りの話は、二度と出なかった。
《先週、船乗りの話したら二時間黙ってた》
《ちょっと面白かった》
二年のあいだに、マリアはこの男について多くのことを知った。何を褒めれば喜び、何を言えば黙り、何を欲しがっているか。おそらく、当人よりもよく知っていた。
◇ ◆ ◇
越境暦七十九年六月十三日、大森林北縁でボル老人が死亡した。
門前の衝突を撮った映像は、地球の交流サービスで急速に広がった。三日後には、別の国の別の事件が話題の中心になっていた。
マリアにとっては、違った。
匿名アカウントの投稿の間隔は、この日から乱れている。
《ありえない》
二時間後。
《連絡つかない》
翌朝。
《あいつならやる》
この投稿を最後に、アカウントの更新は途絶えている。
その週の金曜日、マリアは笑わなかった。
エドガーは、部屋に入って三分でそれに気づいた。
「何かあった?」
マリアが、自分の端末を差し出した。
画面の中で、映像が流れた。杖をついた老人たち。金網の柵。人類の字で《森を返せ》と書かれた旗。叫び声。乾いた破裂音が二度。仰向けに倒れる老人と、それに覆いかぶさる若いエルフの背中。
エドガーは一度だけ見て、端末を返した。
「この人、かわいそうじゃない?」
「……気の毒だとは思う」
「助けてくれる?」
「何を?」
「工事、止めて」
エドガーは黙った。弁護士として、協会の理事として、答えはすぐに出た。
「無理だ」
「……そう」
「待ってくれ。無理だと言ったのは、何もしないという意味じゃない」
「でも、止められないんでしょう?」
「一人が亡くなったからといって、二十一億ドル規模の事業は止まらない。A国の政府も企業も、適法な契約を持っている。感情で覆せる相手じゃないんだ」
「じゃあ、かわいそうで終わり?」
「そうは言っていない」
マリアは
「先生なら、何とかできると思ったのに」
「……この老人は、誰なんだ」
マリアは少し黙った。
「知ってる人」
それだけ言った。エドガーは、それ以上は訊かなかった。
「旅券の時みたいに、書類を送って。勝手に切るなって」
「君の旅券は、君のものだった。森の契約を争うには、現地の人が——」
「死んだら、もう頼めないじゃない」
エドガーは言葉を止めた。マリアが、返した端末を両手で握っていた。
「明日、協会で調べる。約束できるのは、そこまでだ」
「それで、次に来た時も、無理だったって言うの?」
無理なものは無理だ。そう答えれば、今夜も正しいまま帰れた。
マリアが顔を上げた。
「私が、先生がずっと欲しがってたものをあげるって言ったら?」
エドガーは固まった。
「……本当に?」
「先生が約束を守ったらね」
「いや、待ってくれ。私は、そんな条件で君を助けるわけじゃない。君を助けたいから、助けるんだ」
マリアは、その夜初めて、少しだけ笑った。
「先生、そういうとこだよ」
◇ ◆ ◇
地球の反データセンター市民連合からは、安全性調査への協力ならできると返事が来た。現地の法に従う越境開発には反対しないという。差し止めを求める共同声明案は、署名のないまま返された。
エドガーは、自分の協会の理事会へ、その案を持ち込んだ。
「声明は、暴力の非難にとどめるべきだ」
年長の理事が言った。
「非難? 誰の暴力を」
「双方の、だ」
「死んだのは、杖をついた老人だぞ」
「だからこそ、慎重に言葉を選ぶ」
財務担当の理事が、書類を配った。協会の予算のおよそ三割は、A国系の大手企業が出資する財団からの助成だった。その財団の担当者から、前日に丁寧な電話があったという。
「次年度は、重点助成分野の見直しを予定している、とのことです。越境開発に関わる活動については、中立性の確認をお願いしたい、と」
「脅しじゃないか」
「通常の手続きだそうです。では、その三割をどこから持ってきますか」
財務担当が訊いた。
「脅されるたびに黙るのか」
「毛布と薬の便を止めて、強い声明を出しますか」
エドガーは書類をめくった。越境の輸送費、倉庫の費用、現地の診療所へ送る薬。自分が二十年近くかけて増やしてきた項目だった。
「代わりの寄付を探す」
「いつまでに」
「次の便は止めない。私の報酬を回してくれ」
「一便分にもなりませんよ」
「足りない分を、探すと言っている」
財務担当は、声明案ではなく、寄付の空欄へエドガーの名を書いた。
理事会の後、エドガーは理事長の部屋に呼ばれた。
「火曜と金曜の件だ」
理事長は、窓の外を見たまま言った。
「理事の一人が、写真を持ってきた。港湾地区の、あの通りのな」
「……」
「エルフの権利を守る団体の常任理事が、エルフの女性の働く店に通っている。記事になったら、協会は終わる」
「私は、彼女に触れたこともない」
「そういう問題ではない!」
エドガーは写真を裏返した。
「彼女の顔は、外へ出すな」
「私に頼むだけでは止まらんぞ」
理事長は、ようやくエドガーのほうを向いた。
「その趣味を、やめるか。理事を、辞めるか」
エドガーは、しばらく黙った。
「どちらも、しない」
「エドガー」
「報酬は今日から返上する。助成が減る前に、別の送り主を見つける。会議の発言枠は、使わせてくれ。できなければ、私を外していい」
理事長は、伏せられた写真を引き戻した。
「写真は預かる。だが、次の理事会までだ」
理事長は、長い溜め息をついた。
「君は、エルフのことになると、本当に馬鹿になるな」
次にエドガーが向かったのは、国際越境開発会議だった。
三週間、小国の代表団を回り、共同提案国を三つ集めた。
決議案の文言は、三度書き換えた。「開発の差し止め」は「現地の同意手続きの再点検」になり、「再点検」は「再点検の検討」になった。エドガーは、どの修正にも署名した。議題に載らなければ、何も始まらないからである。
協会の発言枠で、エドガーは各国代表の前に立った。理事長は後ろの席にいた。机には、三度書き換えた案文だけを置いた。
伐採の面積。川からの取水量。現地で生まれた雇用の数。補償金の額と、その支払い先。種族ごとの安全基準の有無。エドガーは数字を一つずつ積み上げた。
「人類の企業は、雇用を作りました。医療を提供しました。道路を敷きました。私はそれを否定しません。だからこそ問うのです。利益を受けた者と、土地と水を失った者は、同じ者たちなのか」
A国の代表は、冷静だった。
「土地使用契約は、北方諸族評議会と適法に締結されています」
「第三七号林区の住民が、その評議会を自分たちの代表として選んだ記録を、示していただけますか」
「評議会は、制度上の代表機関です」
「その制度を作ったのは、どなたですか」
「あなたの協会も、現地への支援では評議会と協力しておられるはずです」
エドガーは、すぐには答えなかった。診療所へ薬を届けるにも、評議会の取り次ぎが要った。その力を認めないと言えば、自分たちの仕事まで否定することになる。
「協力しています。最低賃金の交渉でも、力を借りました」
「では、代表性に異議は——」
「働く人の賃金を交渉できることと、村の森を明け渡せることは、同じでしょうか」
「契約の適法性は確認されています」
共同提案国の席で、一人が案文を閉じた。エドガーは、用意していた土地の質問を捨てた。
「では、ボル老人に使用された非致死性装備について伺います。エルフに対する安全性の試験は、行われていましたか」
「現在、調査中です」
「導入前の試験は」
「調査中です」
「つまり、なかったのですね」
だが、決議案は採決に至らなかった。
A国と、A国系の越境データセンターに出資している三つの国が手続き上の異議を唱え、議題は次の会期へ送られた。
会議場の廊下で、エドガーは呼び止められた。
「素晴らしい陳述でした」
細身の男だった。C国代表団の、異世界政策の担当官である。エドガーがこの男に声を掛けられるのは、これで四度目だった。二年前から、会議のたびに名刺を差し出され、昼食に誘われては、断ってきた。
「大森林の人々の窮状に、我が国も深い懸念を——」
「その話し方は、やめよう」
担当官は、穏やかに微笑んだ。エドガーは、その微笑みに向かって言った。
「A国に、計算資源で負けているからだろう」
微笑みの形が、わずかに変わった。
「仮にそうだとして、それが大森林の人々を助けない理由になりますか」
「確かめたかっただけだ。何を期待されているか、知らずに組むわけにはいかない」
担当官は小さく笑った。
「では、先生は何を期待して、二十年近い活動を?」
「その質問には、答えないでおこう」
「では、別の質問を」
担当官は、声を一段落とした。
「エルフ保護団体の常任理事でいらっしゃりながら、お仕事の後にも、ずいぶん熱心にエルフの女性と交流なさっているそうですね。火曜と金曜に」
エドガーの目が細くなった。
「脅しか」
「事実の確認です」
同じ話を、エドガーは三週間前に、理事長の部屋で聞いていた。
「効かんぞ」
「ほう」
「私は、彼女を愛している!」
廊下を歩いていた随員の一人が、振り返った。担当官は黙った。
エドガーは胸を張った。
「彼女も、私をな!」
担当官は、さらに数秒黙った。
「……思っていた以上だ」
担当官は、右手を差し出した。
「手を組みませんか」
エドガーは、その手を見た。
「武器を流せと言うなら、帰れ」
「誰が武器と言いました?」
「では、何を」
「医薬品。食料。通信設備。蓄電池。浄水装置。輸送用の無人機です」
「ドローンか」
「民生品です」
「見返りは」
「ありません」
「嘘をつけ」
「では、こう申し上げましょう。大森林の人々が、自らの権利を自らの手で守ることを、我が国は期待しています」
「その結果、A国のデータセンターが止まったら?」
「残念な副作用でしょうね」
「ふざけやがって」
「お互い様です」
エドガーは、差し出された手をまだ取らなかった。
「医薬品と食料は、別に送る。現地で君たちに協力しない村にも配る」
「受け取る側の事情に口を挟むつもりはありません」
「資金を止める時に、薬まで止めるなと言っている」
担当官の手が下がった。
「継続を約束する権限は、私にはありません」
これを断って戻れば、財務担当に、次の便をどうするかと訊かれる。マリアには、また「無理だった」と言うことになる。
「まず、何を送れるか。品目を見せてくれ」
担当官が端末を開いた。エドガーは食料と薬の欄を先に確かめ、輸送用の無人機のところでも、画面を閉じなかった。
二人は握手した。
◇ ◆ ◇
「できる」
ひと月後の指名日、エドガーは部屋に入るなりそう言った。
マリアは、いつもの笑顔を作りかけて、やめた。
「本当に?」
「工事そのものは、止められない」
マリアの目が曇った。
「だが、君の故郷へ物資は送れる」
エドガーは端末を開いた。
《エルフ越境人権協会》は、二十年近くかけて、合法的な人道支援の網を築いていた。地球側の倉庫があり、越境門の通関の手続きがあり、異世界側の集積所があり、現地の輸送業者と、診療所と、避難民の支援拠点があった。それまでは、毛布や抗生物質を運ぶための道だった。
その道に、新しい寄贈元が加わった。それぞれ、別々の理由で。
C国異世界友好基金は、廊下の握手から三週間後に、最初の寄付を申し出た。
人工知能企業の《ヘリオス・インテリジェンス》は、エドガーが誰とも握手する前から、協会に連絡を寄越していた。A国系の大手と計算資源を奪い合う競合企業だった。寄付の用途の欄には《異世界の子供たちの教育に》とあった。
ボル老人の映像を見た地球の小さな財団がいくつか、自分から寄付を申し出た。
協会の倉庫の職員たちは、届いた木箱を人道支援の荷として数え、ラベルを貼り、通関の書類を作った。
誰も、同じ部屋で相談したことはない。荷だけが、同じ倉庫へ集まった。
端末の画面に、地球側の倉庫の在庫表が映る。医薬品。保存食。通信端末。暗視装置。蓄電池。浄水装置。そして、大型の物流ドローンが十二機。木箱の側面には、《最大積載量 百二十キログラム》と刷られていた。
「これ、何に使われると思う?」
「決めるのは、受け取る人たちだ」
エドガーは画面を戻した。暗視装置と通信端末の欄を外せば、薬と食料だけを送ることもできた。
「薬だけにするか」
「それで工事は止まる?」
「止まらない」
そのとき、マリアの端末が短く震えた。
マリアは画面を見たまま、しばらく動かなかった。
エドガーには、逆さの画面の短い文が読めた。
《姉ちゃんは帰ってくるな》
《爺ちゃんの弓は、俺が持ってる》
「帰るな、と?」
「見ないでください」
「すまない」
マリアは端末を伏せた。エドガーは、それ以上は何も言わなかった。誰からの文面なのかも、訊かなかった。
エドガーは、発送承認の画面を開いた。
《送付先 大森林北縁 第二集積所》
《用途 人道支援》
《民生用途に限る》
エドガーは、承認欄の上で指を止めた。
「これを押せば、いい」
「先生が押して」
「君も」
「なんで?」
「君の故郷へ送るものだから」
エドガーは、承認欄の上から指を離した。彼女も望んだのだと、自分に言えるようにしたかった。
「私の名前で送る。君が触らなくても」
画面を自分の側へ向け、承認欄へ指を戻した。マリアの指が、その横に来た。
「端っこだと、押せてないよ」
マリアが少し笑った。
二人の指が、同じ承認欄に触れた。
《承認済み》
地球のどこかの倉庫で、荷札が一枚印刷され、フォークリフトが木箱を一つ持ち上げた。翌朝、最初の輸送便が越境門を越え、海峡を渡った。
承認画面が閉じた後、マリアが言った。
「先生」
「なんだい」
「約束、覚えてる?」
エドガーは固まった。
マリアは笑った。
それが営業上の笑顔だったのかどうかを示す史料は、残されていない。