野蛮なゲリラエルフは、如何にして平和なデータセンターを焼き払うに至ったか   作:とちがら

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第四話 兵站

 

「おばちゃん! また人が増えたで!」

 

 若いオークのドゥーガが、食堂の戸を肩で押し開けて飛び込んできた。

 

「喜んどる場合か! 口が増えたんや!」

 

 ガラは大鍋の前から怒鳴り返した。

 

「三十人追加や!」

「三十? 何が!」

「今夜着く! オークだ!」

「エルフに直したら何人分や!」

「……九十?」

「先にそれ言わんかい!!」

 

 大鍋の蓋が跳ねた。

 

 〈蚊〉の噂は、北縁の外へも広がっていた。鉱山に家を取られた者、堰(せき)に漁場を奪われた者、道路に畑を割られた者が、種族を問わず、北縁の森へ流れてきた。地球からの物資は届いていた。

 

「芋、あと二籠! 豆もや! 肉は!」

「昨日ので最後や!」

「川向こうの倉庫にあるやろ!」

「橋、落ちとる!」

「ほな泳いで取ってき!」

「オーク、泳がれへん!」

 

 ガラは柄杓(ひしゃく)で鍋の縁を叩き、左の義足で床を踏み鳴らした。

 

 四十二歳の平原オークである。左脚は、膝から下が人類製の義足だった。常連は〈片脚のガラ〉と呼んだ。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 ガラは以前、南の街道沿いで食堂をやっていた。

 

 二十年やった。オークの運送屋も、エルフの行商も、ドワーフの鉱夫も、同じ卓で同じ鍋をつついた。

 

 道路が広がると、街道の向かいに人類の弁当屋ができた。冷めても味の落ちない弁当を、ガラの定食の半値で出した。

 

 客は、一年で向かいへ移った。

 

 一人息子のロッコは、機械いじりが得意だった。十二で直した古いラジオは、今も食堂の棚に載っている。人類の放送しか入らないが、ガラは毎朝、天気予報だけは聞いた。地球の工業学校から、推薦の話が来た。

 

 越境の費用、学費、保証金。街道の食堂では、十年働いても払えない額だった。

 

 当時、異世界種族生体資源買取制度というものがあった。越境条約の範囲内で、本人の同意があれば、身(・)体(・)の(・)一(・)部(・)を人類側へ売却できる。平原オークの皮は丈夫で、地球で高く売れた。

 

「片脚くらい、なくても鍋は振れるやろ。あるもんは使わな、もったいないやろ」

 

 人類の契約担当が、書類を読み上げた。

 

「切断後の組織は、医療研究および商業利用に供される可能性があります」

「商業利用って?」

「皮革加工などですね」

「ほな、鞄にでもしてもろたらええわ」

 

 ガラは笑って、署名した。

 

 その金で、ロッコは地球へ渡った。港まで見送りに行った日、息子は母親の足元を一度も見なかった。照れているのだと、ガラは思うことにした。

 

 あれから三年、ロッコから連絡はない。

 

 ガラは週に一度、配給所の端末を借りて、息子へ短い文を送っている。

 

《元気か》

《ちゃんと食べ》

 

 読まれた印は、一度も付いたことがない。

 

 店を畳んで北へ流れ、森の外れの空き小屋で汁物を売っていたら、腹を空かせた若いエルフが店先に座り込んでいた。金がないと言うので、飯を出した。

 

 翌日、三人になった。一週間後、二十人になった。気づけば、百人を超えていた。

 

 悪くない、とガラは思った。向かいの弁当屋へ移った客は、一人も戻ってこなかった。息子は、三年返事をよこさない。この小屋の客は、ガラがいなければ今夜の飯にありつけない。

 

「おばちゃん。俺たちは今、歴史を作ってるんだ」

 

 卓の上で革命を語る若いエルフに、ガラは椀(わん)を突き出した。

 

「その歴史っちゅうのは、一日何食食うねん」

 

 若者は黙って椀を受け取った。

 

 リュカが食堂へ来るようになったのは、冬の初めからだった。

 

 北縁の抗議で死んだ老人の孫で、〈蚊〉に最初に乗った若者だと、客たちは噂していた。ガラの見たところでは、よく食べ、よく礼を言い、自分の皿を自分で下げる子だった。

 

 ある晩、リュカは芋の煮物をつつきながら言った。

 

「人類の会社の社食でさ、カレーってのが出たんだよ」

「かれー?」

「茶色くて、辛くて、甘いやつ。あれ、うまかったんだよな」

 

 ガラの柄杓が止まった。

 

「うちの飯の前で、人類の飯ほめるんか」

「おばちゃんのもうまいよ!」

「『も』ってなんや」

 

 翌日、ガラは地球から届いた支援物資の箱を、片端から開けた。

 

 C国語の袋の中に、黄色い粉が入っていた。リュカが嗅いで、これかも、と言った。

 辛すぎると言われて甘くし、今度は甘すぎると言われた。

 

 三杯目で、ガラは林檎をすりおろし、芋を煮崩して入れた。

 リュカは一口食べて、皿を見たまま、しばらく黙った。

 

「うまい。社食のより、こっちがうまい」

 

 リュカは、おかわりを三杯した。

 

 物資は各部隊の申請どおり届いていた。それでも、足りなかった。

 

「百八十人分、送ったはずだ!」

 

 集積所から来た若い補給担当のエルフ、イルクが、食堂の卓を叩いた。

 

「百八十人おるからって、百八十人分で足りるわけないやろ!」

 

 ガラは、その卓を倍の音で叩き返した。

 

「オーク一人でエルフ三人分食うねん! ドワーフは量は少ないけど酒まで要求する! 川の子は乾パンばっかりやと腹壊す! 怪我人に昨日と同じ飯食わすな!」

 

 ガラが仕入れ帳へ手を伸ばすと、イルクが申請書をその上へ置いた。

 

「増やした分、ほかへ送れなくなるんです。向こうにも腹を空かせた人がいる」

「うちだけ腹いっぱいにせえ言うてへん。誰が何ぼ食うか、先に数え」

「書いた人の言う量を、全部信じるんですか」

「あんたがここで飯配り。何杯よそうか、見たらええ」

 

 イルクが長椅子を引くと、ガラは申請書を横へずらし、仕入れ帳を開いた。

 

 名前。種族。食べる量。持病。怪我。所属。翌日の予定。

 イルクはその晩、鍋の前で飯をよそった。翌日の申請書には、種族と仕事別の欄が増えていた。

 

 三日後、補給担当は頭を下げに来た。

 

「その帳面、写させてもらえませんか。おばちゃんが倒れても、回るように」

「縁起でもないこと言いな。……持病の欄は写さんとき。本人が嫌がる」

「薬を付ける人まで、分からなくなります」

「渡す薬だけ書き。あの子ら、うちには言うても、みんなに知られたいわけちゃう」

 

 イルクは新しい帳面の欄を引き直した。ガラは仕入れ帳を開いたまま渡した。閉じて置いておけば、写せと言ったのに読めなかったと、また自分のところへ来るだろう。それを待ちたくなった。

 

 写しは三日でできた。四日目、補給担当は、ガラに一度も訊かずに配給を回した。

 ガラは、ようやった、と褒めた。

 

 その晩、ガラはコンラートの酒を一杯だけ取り上げて、自分で飲んだ。

 次に届かなくなったのは、川向こうの倉庫の荷だった。橋が落ち、回り道には人類の監視所ができていた。

 

 食堂の隅で、青い髪の川マーマン、ネリという娘が手を上げた。

 

「川なら通れるよ。うちらの道やけん。岸までは運ぶ。でも、その先は無理よ」

「そこにうちらが待っとく。飛ぶ連中にも、荷を渡す場所を決めさせよ」

 

 ガラはリュカを呼んだ。コンラートが防水の箱を作り、川の者が運んだ。岸ではオークが箱を受け取り、最後の谷だけ、〈蚊〉に荷を吊った。

 

 一か所の荷を失っても配給を続けられるよう、倉庫は森の中の七か所に分けた。

 

 電池が足りなくなった時、ガラは〈蚊〉を先にした。

 

「飛ぶ奴ばっかりか」

 

 荷を担いできたドゥーガが言った。

 

「夜の道、見えへんねんぞ。あいつらに持たせたらええやんか」

「最後の谷、あんた越えられるか」

「越えられへん。せやけど、そこまで誰が運ぶねん」

 

 ガラは配給の印を止めた。

 

「夜に運ぶん、何組や」

 

 イルクと数え直した。暗視装置は夜に川を下る組へ回し、陸の荷は明るいうちに森の中を運んだ。無線用の電池を減らす案にはリュカが反対した。一日二度、決まった時刻にだけ繋ぐことで折り合った。

 

「配る順番も書きましょう。誰が決めても同じになるように」

 

 イルクが、帳面の後ろの頁を開いた。配る量は、これまでガラの腹一つで変えてきた。

 

「……書き」

 

 イルクは配る順番を書いた。子供、怪我人、飛ぶ者、川を下る者、担ぐ者、その他。ガラ自身の名前は、その他の中にあった。

 

 数週間後、食堂の壁は、献立表より地図の方が多くなった。

 

《北道 監視あり》

《第二橋 落橋》

《上流 水位低下》

《蚊 稼働十四、整備三》

《電池 残六十二》

《塩 不足》

《酒 コンラートに渡すな》

 

「最後の一行、消さんか!」

「大事な情報やで」

 

 ガラは鍋を混ぜながら、オークの仕事歌を低く唸り、その合間に輸送の指示を出した。

 

 オークの仕事歌には、決まった旋律も歌詞もない。共同の大鍋を囲む者たちが、低い声で合いの手を入れるだけである。オークはそれを、世界の最初の歌の底だと言う。

 

「西の村へ薬箱二つ。帰りに空樽持ってき。南の連中、明日動かへんのやったら、保存食はこっちへ回すで」

「おばちゃん、これ、もう食堂じゃなくない?」

「飯食うてから言い」

 

 人類側も、この変化に気づいていた。この冬、第七北方データセンター警備部の内部報告書は、次のように記している。

 

《抵抗勢力の規模を推定するにあたり、兵の数を数えることは有効ではない。荷物を見よ》

 

 報告書の署名は、警備部長ヘレン・マクレディである。

 

 薬と粉は、工区に賛成する村へも送った。野菜を返す村も、人類の車列の時刻を教える者もいた。C国側は支援を増やした。人類側も無料の診療所や学校を増やし、雇用と補償金を示した。

 

 セインの母親が、粉をもらいに来た。

 

「息子は、人類の工区さ勤めでる。それでも、粉っこはもらえるのが」

「粉に名前は書いてへんで」

 

 女は礼を言って粉を受け取り、帰り際に一度だけ振り返った。

 

「うちの息子のいる工区さは、火ば落とさねでけろ」

 

 ガラは返事をせず、帳面の後ろの頁へ書いた。女は帰らなかった。

 

「書いだら、落どさねえのが」

「うちが決められることやない」

「んだら、誰さ言えばいい」

 

 ガラは食堂の奥を見た。リュカの席は空いていた。

 

「あの子が来たら、伝える」

「うちが粉もらいに来たことは、言わねでけろ」

 

 ガラは、書いたばかりの名前を線で消した。伝えることだけは約束した。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 ネリは、いつの間にか食堂の常連になっていた。ガラは、たいてい「川の子」と呼んだ。

 

「おばちゃん、これ塩辛か」

「あんたら水の中に住んどるくせに、塩にうるさいなあ!」

「川はしょっぱくなかと!」

 

 ネリは帳面を読めなかった。その代わり、水路を歌で覚えていた。

 

「三つ目の淵(ふち)ば右、柳の根で浅うなる、舟は左へ寄せり……」

「それ、歌なんか」

「地図」

 

 ガラが帳面の積荷を読み上げると、ネリはそれに抑揚をつけて繰り返した。翌日も、その翌日も、一つも間違えなかった。

 

「帳面いらずやな」

「紙は濡れるけん」

 

 水位も、支流も、危険な淵も、生まれた者も、死んだ者も、川マーマンは歌にして残す。川の古い歌では、世界そのものも、最初は一つの歌だったという。川に残ったのは、その歌詞だけだ。節は途中で途切れ、拍はない。

 

「歌姫、今日は何歌うんや?」

 

 ドゥーガが言った。

 

「歌姫って呼ばんで! 肉一個くれたら歌う」

「交渉成立や!」

 

 ネリが歌い出すと、騒がしい食堂が少し静かになった。

 

「その歌は?」

「川へ帰る歌」

「じゃあ、俺のことも歌にしてよ」

 

 卓の端から言ったのは、リュカだった。

 

「嫌」

「なんで」

「格好悪かけん」

 

 ガラは吹き出した。

 それでもリュカは、ネリの水路の歌を覚えようとした。淵の名を間違えて叱られると、最初からなぞり直した。

 

 リュカのいない晩に限って、ネリは客にリュカのことを訊いた。ボル爺のこと。〈蚊〉のこと。人類語がどれくらいできるのか。若い娘にはよくあることや、とガラは思った。

 

 そんな食堂へ、コンラートの工房から、水中で荷を運ぶ機械が届いた。川の舟大工と若いドワーフたちが作った、六本脚のK.A.二型である。ネリは〈蟹〉と呼び、自分が使うと言った。

 

 背に腹ばいで乗り、前脚の油圧の鋏で流木や鉄の索を断つ。無線の届かない水中へ電力と声を送るため、母船とは一本の通話索で繋いだ。鰓(えら)で息のできる川マーマンでなければ、長くは使えない。

 

 ネリは毎日川へ潜り、何度も石に脚を引っかけながら、荷を載せて岸まで戻る練習をした。

 使い始めて十日ほど経った晩、ネリが食堂で言った。

 

「線ば切ればよかっちゃない?」

 

 食堂の空気が止まった。

 

「海の底の線。あれがないと、箱は地球と繋がらんっちゃろ」

 

 コンラートが杯を置いた。

 

「何本もあっ(ある)。一本切っても、地球へ回せる計算が減っ(減る)だけじゃ」

「なら、箱ば攻める必要なかやん」

 

 越境門は北の海峡を隔てた島にある。門と大陸のデータセンターを結ぶ幹線は、海マーマンの海域を通っていた。

 

「海の連中に頼むんか」

「案内ば頼む。川の者は塩で肌と鰓がやられるけん、三十分もおったら戻れん。迷いよる暇はなか」

「切ってはくれへんのか」

「箱が止まって困るのは、あっちやけん」

「同じマーマンなのに」

 

 リュカが言うと、ネリは豆をつまむ手を止めた。

 

「同じやけん、同じ考えやないといけんと? エルフだって、箱で働きよるやん」

 

 リュカは黙った。

 

「リュカも来て。海の者と人類の契約の紙、うちには読めんけん」

「分かった。おばちゃん、明日の荷運び——」

「今夜のうちに運んどき。二人でな」

 

 翌朝、リュカは荷運びを済ませたと告げ、上流の測量地へ出かけた。ネリは洗いかけの皿を片づけると、その後を追った。

 

 昼になっても二人は戻らなかった。ガラは弁当を二つ包み、上流へ向かった。

 

 干上がった支流の縁に、リュカとネリが並んで座っていた。ガラは声をかけそびれて、木の陰で足を止めた。

 

「ここ、子供のころは泳げたと」

 

 ネリが、川床の石を蹴った。乾いた音がした。

 

「今は歩けるな」

「笑うとこやなか」

「ごめん」

「うち、革命とかどうでもよか。ここに水ば戻したいだけ」

「……うん」

「リュカは? 何がしたいと」

 

 リュカは少し黙った。

 

「地球に行きたかった」

「今は?」

「……今も」

「ずるか」

「何が」

「行きたい場所があるの、ずるか。うちのは、ここにしかなか」

 

 リュカは答えなかった。

 ネリは川床に膝をつき、乾いた石に耳を当てた。

 

「……まだ、下を流れとう」

「聞こえるのか」

「聞いてみ」

 

 リュカも、隣で石に耳を当てた。しばらくして、首を振った。

 

「分からない」

「エルフの耳は、長かだけやね」

「うるさいな」

 

 ネリは黙って、石に耳を当て直した。リュカも、それに倣(なら)った。

 

「……聞こえた」

 

 しばらくして、リュカが言った。ネリが顔を上げた。リュカは目を閉じたまま、石から耳を離さなかった。

 

 邪魔をする気には、なれなかった。ガラは弁当を抱えたまま、来た道を戻った。

 弁当は、食堂へ帰り着くころには冷めていた。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 客が引けた後、ネリが一人で皿を洗いに来た。

 

「海の若いのが、道案内してくれるって。明後日、うちが潜って線ば切る」

「……そうか」

 

 しばらく、皿を洗う水の音だけがした。

 

「リュカは、優しすぎる」

「なんや、急に」

「昨日も、車から人が降りて逃げるまで、南瓜(かぼちゃ)ば落とさんで待っとった」

「ええことやないか」

「森には、ようなか」

 

 ガラは帳面を閉じ、ネリの横顔を見た。皿を洗う手は、少しも乱れていなかった。

 

「海におれるのは三十分。船から下ろして引き上げるまで、二十七分。一つ狂うたら、帰られへん」

「切る分も入れて二十七分よ。手間取ったら、切らんで戻る」

 

 ネリは、皿を拭く手を止めなかった。

 

「あの子を惚れさせたんも、段取りのうちか」

 

 ネリが笑った。

 

「半分。残りの半分は、知らん」

「あんたが海から帰られへんかったら、あの子はどうなる」

「……」

「海の連中にも、見せたら分かると思てんのか」

 

 ネリから返事はなかった。

 

「そこまで、勘定に入れてんのか」

 

 ネリは、最後の皿を棚に置いた。

 

「あるもんは、使わんともったいなかやろ」

「自分の身体まで、帳面に載せる気か」

「うちの身体は、うちのもんやけん」

 

 ガラの義足が、床板を鳴らした。

 

「うちもな、息子のために脚売ったわ」

「……知っとう」

「あの子、三年、返事ひとつよこさへん」

 

 ガラの手が、鍋の縁を叩いた。

 

「そんなことして、リュカが喜ぶと思てんのか!」

「喜ぶよ」

 

 ネリが振り返った。笑っていた。

 

「うちが帰って、あの子と一緒になったら、喜ぶやろ」

「……あんたは、あの子が好きなんか。川が好きなんか」

「両方」

 

 少し黙ってから、ネリは言った。

 

「両方やけん、こうすると」

 

 港で、息子は一度も足元を見なかった。ガラは、あの日、息子に何も訊かなかった。

 

「リュカに言うで」

「言うたら、あの子は自分が潜るって言い出す。泳げんとに」

「ほな、親方に止めさせる」

 

 ガラが帳面を抱えて立つと、ネリは戸口を塞いだ。

 

「あと何べん、あの川で待てばよかと」

 

 ネリの声が小さくなった。ガラは、乾いた石に耳を当てていた二人を思い出した。危ないから待てと言うのは簡単だった。その間に失われるものを、ガラは返してやれない。

 

「明日は試すだけや。途中で諦めて戻れるか、うちも見る」

「戻れたら、親方にも止めんでって言うてよ」

「試してからや」

 

 ネリは戸口を空けた。

 

 二人で工房へ行き、途中で引き返す試験をコンラートに頼んだ。

 

 翌日の試験では、川底に古い索を沈め、ガラが岸で時間を測った。途中で引き返す指示を出すと、ネリは不満そうな声を返したが、戻ってきた。コンラートは引っかかった脚を直し、同じことをもう一度させた。二度目は、ガラが呼ぶ前に戻ってきた。

 

「切れたんか」

「脚ば抜くのに、時間かかった。切っとったら遅くなるけん」

 

 ネリは〈蟹〉を降りると、コンラートを呼び、引っかかった脚を指した。直してもらうまで、着替えようとしなかった。

 

 ガラは翌日の出発に持たせる弁当の欄を開いた。

 

「おばちゃん。明日の弁当、塩は少なめにして」

 

 濡れた髪を絞りながら、ネリが言った。

 

「分かってる」

 

 ガラは帳面を閉じた。食堂へ戻る道では、ネリがその帳面を持った。

 

 出発の晩も、食堂にはいつもの顔がそろっていた。

 

 コンラートは酒。リュカは大盛り。ネリは魚を避けて豆を食べていた。

 

「今夜、海に行ってくる」

「俺も行く」

「泳げんやろ」

「岸までだよ!」

「勝手にせんね」

 

 ガラは皿を置いた。

 

「おばちゃん、明日の肉、二人分を一皿にして」

「誰と誰や」

「うちと、こいつ」

 

 ネリが、隣のリュカの皿へ、自分の豆を移した。

 

 奥の卓で、ドゥーガが口笛を鳴らした。食堂じゅうが囃(はや)し立てた。

 

「ちょっ、待て、聞いてない」

「今言うた」

「ほな、大皿で焼いといたる」

 

 リュカは返事の代わりに、移された豆を全部食べた。

 

「歌姫、帰る歌や!」

 

 奥の卓から、ドゥーガの声が飛んだ。

 

「肉一個!」

「おばちゃん!」

「はいはい」

 

 ネリは歌った。

 

 川を下り、海へ出て、また雨になって山へ帰る歌だった。

 

 リュカが途中から、エルフの口笛で合わせた。

 

 合わなかった。

 

「下手!」

「エルフの節はこうなんだよ!」

 

 コンラートが、卓を指で叩き始めた。ガラは鍋の前で、低く唸った。

 

 一瞬だけ、四つが噛み合いかけた。

 

 すぐに崩れた。

 

「ほら、親方がずれた」

「わい(おまえ)の口笛じゃ!」

 

 コンラートが笑った。ガラも笑った。ネリも笑った。

 

 客が帰ると、ガラはいつもより塩を少なくして、夜の出発に持たせる弁当を包んだ。包みの結び目には、いつものように《ちゃんと食べ》と書いた札を挟んだ。

 

 糧食の帳面には、いつもどおりの字で書いた。

 

《蟹一号 一食》

 

 翌日、その次の行に、ガラの字で書き足されている。

 

《肉 一皿 余り》

 

 ◇ ◆ ◇

 

 越境暦八十年三月十四日、午前二時十三分。第三海底幹線、通信断。

 

 K.A.工房の整備簿には、この夜について一行だけが残っている。

 

《K.A.二型一号機 未帰還》

 

 搭乗者の名はない。〈蟹〉と母船を繋いでいた通話索の記録には、最後に一言だけが残っている。

 

「帰る歌ば、歌ったって伝えて」

 

 後世、この夜の出来事は〈川の歌姫〉の物語として歌われた。歌ごとに、少女の名は違う。食堂の帳面の、二月から三月にかけての名簿の頁は、失われている。

 

 一人の少女が死を覚悟して単独で幹線を断ったとする英雄譚を、戦後のプロパガンダだとする者もいる。

 だが、その夜、何者かが海底の幹線を切ったことだけは、間違いない。

 

 事件の後も、ガラは食堂に残った。週に一度、息子の端末へ二行を送ることも、やめなかった。

 食堂の帳面は、やがて大森林解放戦線の兵站台帳になった。

 本人は最後まで軍人を名乗らず、兵站本部を「食堂」と呼んだ。

 

 彼女が戦死するのは、四年後のことである。

 

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