野蛮なゲリラエルフは、如何にして平和なデータセンターを焼き払うに至ったか 作:とちがら
「おばちゃん! また人が増えたで!」
若いオークのドゥーガが、食堂の戸を肩で押し開けて飛び込んできた。
「喜んどる場合か! 口が増えたんや!」
ガラは大鍋の前から怒鳴り返した。
「三十人追加や!」
「三十? 何が!」
「今夜着く! オークだ!」
「エルフに直したら何人分や!」
「……九十?」
「先にそれ言わんかい!!」
大鍋の蓋が跳ねた。
〈蚊〉の噂は、北縁の外へも広がっていた。鉱山に家を取られた者、
「芋、あと二籠! 豆もや! 肉は!」
「昨日ので最後や!」
「川向こうの倉庫にあるやろ!」
「橋、落ちとる!」
「ほな泳いで取ってき!」
「オーク、泳がれへん!」
ガラは
四十二歳の平原オークである。左脚は、膝から下が人類製の義足だった。常連は〈片脚のガラ〉と呼んだ。
◇ ◆ ◇
ガラは以前、南の街道沿いで食堂をやっていた。
二十年やった。オークの運送屋も、エルフの行商も、ドワーフの鉱夫も、同じ卓で同じ鍋をつついた。
道路が広がると、街道の向かいに人類の弁当屋ができた。冷めても味の落ちない弁当を、ガラの定食の半値で出した。
客は、一年で向かいへ移った。
一人息子のロッコは、機械いじりが得意だった。十二で直した古いラジオは、今も食堂の棚に載っている。人類の放送しか入らないが、ガラは毎朝、天気予報だけは聞いた。地球の工業学校から、推薦の話が来た。
越境の費用、学費、保証金。街道の食堂では、十年働いても払えない額だった。
当時、異世界種族生体資源買取制度というものがあった。越境条約の範囲内で、本人の同意があれば、
「片脚くらい、なくても鍋は振れるやろ。あるもんは使わな、もったいないやろ」
人類の契約担当が、書類を読み上げた。
「切断後の組織は、医療研究および商業利用に供される可能性があります」
「商業利用って?」
「皮革加工などですね」
「ほな、鞄にでもしてもろたらええわ」
ガラは笑って、署名した。
その金で、ロッコは地球へ渡った。港まで見送りに行った日、息子は母親の足元を一度も見なかった。照れているのだと、ガラは思うことにした。
あれから三年、ロッコから連絡はない。
ガラは週に一度、配給所の端末を借りて、息子へ短い文を送っている。
《元気か》
《ちゃんと食べ》
読まれた印は、一度も付いたことがない。
店を畳んで北へ流れ、森の外れの空き小屋で汁物を売っていたら、腹を空かせた若いエルフが店先に座り込んでいた。金がないと言うので、飯を出した。
翌日、三人になった。一週間後、二十人になった。気づけば、百人を超えていた。
悪くない、とガラは思った。向かいの弁当屋へ移った客は、一人も戻ってこなかった。息子は、三年返事をよこさない。この小屋の客は、ガラがいなければ今夜の飯にありつけない。
「おばちゃん。俺たちは今、歴史を作ってるんだ」
卓の上で革命を語る若いエルフに、ガラは
「その歴史っちゅうのは、一日何食食うねん」
若者は黙って椀を受け取った。
リュカが食堂へ来るようになったのは、冬の初めからだった。
北縁の抗議で死んだ老人の孫で、〈蚊〉に最初に乗った若者だと、客たちは噂していた。ガラの見たところでは、よく食べ、よく礼を言い、自分の皿を自分で下げる子だった。
ある晩、リュカは芋の煮物をつつきながら言った。
「人類の会社の社食でさ、カレーってのが出たんだよ」
「かれー?」
「茶色くて、辛くて、甘いやつ。あれ、うまかったんだよな」
ガラの柄杓が止まった。
「うちの飯の前で、人類の飯ほめるんか」
「おばちゃんのもうまいよ!」
「『も』ってなんや」
翌日、ガラは地球から届いた支援物資の箱を、片端から開けた。
C国語の袋の中に、黄色い粉が入っていた。リュカが嗅いで、これかも、と言った。
辛すぎると言われて甘くし、今度は甘すぎると言われた。
三杯目で、ガラは林檎をすりおろし、芋を煮崩して入れた。
リュカは一口食べて、皿を見たまま、しばらく黙った。
「うまい。社食のより、こっちがうまい」
リュカは、おかわりを三杯した。
物資は各部隊の申請どおり届いていた。それでも、足りなかった。
「百八十人分、送ったはずだ!」
集積所から来た若い補給担当のエルフ、イルクが、食堂の卓を叩いた。
「百八十人おるからって、百八十人分で足りるわけないやろ!」
ガラは、その卓を倍の音で叩き返した。
「オーク一人でエルフ三人分食うねん! ドワーフは量は少ないけど酒まで要求する! 川の子は乾パンばっかりやと腹壊す! 怪我人に昨日と同じ飯食わすな!」
ガラが仕入れ帳へ手を伸ばすと、イルクが申請書をその上へ置いた。
「増やした分、ほかへ送れなくなるんです。向こうにも腹を空かせた人がいる」
「うちだけ腹いっぱいにせえ言うてへん。誰が何ぼ食うか、先に数え」
「書いた人の言う量を、全部信じるんですか」
「あんたがここで飯配り。何杯よそうか、見たらええ」
イルクが長椅子を引くと、ガラは申請書を横へずらし、仕入れ帳を開いた。
名前。種族。食べる量。持病。怪我。所属。翌日の予定。
イルクはその晩、鍋の前で飯をよそった。翌日の申請書には、種族と仕事別の欄が増えていた。
三日後、補給担当は頭を下げに来た。
「その帳面、写させてもらえませんか。おばちゃんが倒れても、回るように」
「縁起でもないこと言いな。……持病の欄は写さんとき。本人が嫌がる」
「薬を付ける人まで、分からなくなります」
「渡す薬だけ書き。あの子ら、うちには言うても、みんなに知られたいわけちゃう」
イルクは新しい帳面の欄を引き直した。ガラは仕入れ帳を開いたまま渡した。閉じて置いておけば、写せと言ったのに読めなかったと、また自分のところへ来るだろう。それを待ちたくなった。
写しは三日でできた。四日目、補給担当は、ガラに一度も訊かずに配給を回した。
ガラは、ようやった、と褒めた。
その晩、ガラはコンラートの酒を一杯だけ取り上げて、自分で飲んだ。
次に届かなくなったのは、川向こうの倉庫の荷だった。橋が落ち、回り道には人類の監視所ができていた。
食堂の隅で、青い髪の川マーマン、ネリという娘が手を上げた。
「川なら通れるよ。うちらの道やけん。岸までは運ぶ。でも、その先は無理よ」
「そこにうちらが待っとく。飛ぶ連中にも、荷を渡す場所を決めさせよ」
ガラはリュカを呼んだ。コンラートが防水の箱を作り、川の者が運んだ。岸ではオークが箱を受け取り、最後の谷だけ、〈蚊〉に荷を吊った。
一か所の荷を失っても配給を続けられるよう、倉庫は森の中の七か所に分けた。
電池が足りなくなった時、ガラは〈蚊〉を先にした。
「飛ぶ奴ばっかりか」
荷を担いできたドゥーガが言った。
「夜の道、見えへんねんぞ。あいつらに持たせたらええやんか」
「最後の谷、あんた越えられるか」
「越えられへん。せやけど、そこまで誰が運ぶねん」
ガラは配給の印を止めた。
「夜に運ぶん、何組や」
イルクと数え直した。暗視装置は夜に川を下る組へ回し、陸の荷は明るいうちに森の中を運んだ。無線用の電池を減らす案にはリュカが反対した。一日二度、決まった時刻にだけ繋ぐことで折り合った。
「配る順番も書きましょう。誰が決めても同じになるように」
イルクが、帳面の後ろの頁を開いた。配る量は、これまでガラの腹一つで変えてきた。
「……書き」
イルクは配る順番を書いた。子供、怪我人、飛ぶ者、川を下る者、担ぐ者、その他。ガラ自身の名前は、その他の中にあった。
数週間後、食堂の壁は、献立表より地図の方が多くなった。
《北道 監視あり》
《第二橋 落橋》
《上流 水位低下》
《蚊 稼働十四、整備三》
《電池 残六十二》
《塩 不足》
《酒 コンラートに渡すな》
「最後の一行、消さんか!」
「大事な情報やで」
ガラは鍋を混ぜながら、オークの仕事歌を低く唸り、その合間に輸送の指示を出した。
オークの仕事歌には、決まった旋律も歌詞もない。共同の大鍋を囲む者たちが、低い声で合いの手を入れるだけである。オークはそれを、世界の最初の歌の底だと言う。
「西の村へ薬箱二つ。帰りに空樽持ってき。南の連中、明日動かへんのやったら、保存食はこっちへ回すで」
「おばちゃん、これ、もう食堂じゃなくない?」
「飯食うてから言い」
人類側も、この変化に気づいていた。この冬、第七北方データセンター警備部の内部報告書は、次のように記している。
《抵抗勢力の規模を推定するにあたり、兵の数を数えることは有効ではない。荷物を見よ》
報告書の署名は、警備部長ヘレン・マクレディである。
薬と粉は、工区に賛成する村へも送った。野菜を返す村も、人類の車列の時刻を教える者もいた。C国側は支援を増やした。人類側も無料の診療所や学校を増やし、雇用と補償金を示した。
セインの母親が、粉をもらいに来た。
「息子は、人類の工区さ勤めでる。それでも、粉っこはもらえるのが」
「粉に名前は書いてへんで」
女は礼を言って粉を受け取り、帰り際に一度だけ振り返った。
「うちの息子のいる工区さは、火ば落とさねでけろ」
ガラは返事をせず、帳面の後ろの頁へ書いた。女は帰らなかった。
「書いだら、落どさねえのが」
「うちが決められることやない」
「んだら、誰さ言えばいい」
ガラは食堂の奥を見た。リュカの席は空いていた。
「あの子が来たら、伝える」
「うちが粉もらいに来たことは、言わねでけろ」
ガラは、書いたばかりの名前を線で消した。伝えることだけは約束した。
◇ ◆ ◇
ネリは、いつの間にか食堂の常連になっていた。ガラは、たいてい「川の子」と呼んだ。
「おばちゃん、これ塩辛か」
「あんたら水の中に住んどるくせに、塩にうるさいなあ!」
「川はしょっぱくなかと!」
ネリは帳面を読めなかった。その代わり、水路を歌で覚えていた。
「三つ目の
「それ、歌なんか」
「地図」
ガラが帳面の積荷を読み上げると、ネリはそれに抑揚をつけて繰り返した。翌日も、その翌日も、一つも間違えなかった。
「帳面いらずやな」
「紙は濡れるけん」
水位も、支流も、危険な淵も、生まれた者も、死んだ者も、川マーマンは歌にして残す。川の古い歌では、世界そのものも、最初は一つの歌だったという。川に残ったのは、その歌詞だけだ。節は途中で途切れ、拍はない。
「歌姫、今日は何歌うんや?」
ドゥーガが言った。
「歌姫って呼ばんで! 肉一個くれたら歌う」
「交渉成立や!」
ネリが歌い出すと、騒がしい食堂が少し静かになった。
「その歌は?」
「川へ帰る歌」
「じゃあ、俺のことも歌にしてよ」
卓の端から言ったのは、リュカだった。
「嫌」
「なんで」
「格好悪かけん」
ガラは吹き出した。
それでもリュカは、ネリの水路の歌を覚えようとした。淵の名を間違えて叱られると、最初からなぞり直した。
リュカのいない晩に限って、ネリは客にリュカのことを訊いた。ボル爺のこと。〈蚊〉のこと。人類語がどれくらいできるのか。若い娘にはよくあることや、とガラは思った。
そんな食堂へ、コンラートの工房から、水中で荷を運ぶ機械が届いた。川の舟大工と若いドワーフたちが作った、六本脚のK.A.二型である。ネリは〈蟹〉と呼び、自分が使うと言った。
背に腹ばいで乗り、前脚の油圧の鋏で流木や鉄の索を断つ。無線の届かない水中へ電力と声を送るため、母船とは一本の通話索で繋いだ。
ネリは毎日川へ潜り、何度も石に脚を引っかけながら、荷を載せて岸まで戻る練習をした。
使い始めて十日ほど経った晩、ネリが食堂で言った。
「線ば切ればよかっちゃない?」
食堂の空気が止まった。
「海の底の線。あれがないと、箱は地球と繋がらんっちゃろ」
コンラートが杯を置いた。
「何本も
「なら、箱ば攻める必要なかやん」
越境門は北の海峡を隔てた島にある。門と大陸のデータセンターを結ぶ幹線は、海マーマンの海域を通っていた。
「海の連中に頼むんか」
「案内ば頼む。川の者は塩で肌と鰓がやられるけん、三十分もおったら戻れん。迷いよる暇はなか」
「切ってはくれへんのか」
「箱が止まって困るのは、あっちやけん」
「同じマーマンなのに」
リュカが言うと、ネリは豆をつまむ手を止めた。
「同じやけん、同じ考えやないといけんと? エルフだって、箱で働きよるやん」
リュカは黙った。
「リュカも来て。海の者と人類の契約の紙、うちには読めんけん」
「分かった。おばちゃん、明日の荷運び——」
「今夜のうちに運んどき。二人でな」
翌朝、リュカは荷運びを済ませたと告げ、上流の測量地へ出かけた。ネリは洗いかけの皿を片づけると、その後を追った。
昼になっても二人は戻らなかった。ガラは弁当を二つ包み、上流へ向かった。
干上がった支流の縁に、リュカとネリが並んで座っていた。ガラは声をかけそびれて、木の陰で足を止めた。
「ここ、子供のころは泳げたと」
ネリが、川床の石を蹴った。乾いた音がした。
「今は歩けるな」
「笑うとこやなか」
「ごめん」
「うち、革命とかどうでもよか。ここに水ば戻したいだけ」
「……うん」
「リュカは? 何がしたいと」
リュカは少し黙った。
「地球に行きたかった」
「今は?」
「……今も」
「ずるか」
「何が」
「行きたい場所があるの、ずるか。うちのは、ここにしかなか」
リュカは答えなかった。
ネリは川床に膝をつき、乾いた石に耳を当てた。
「……まだ、下を流れとう」
「聞こえるのか」
「聞いてみ」
リュカも、隣で石に耳を当てた。しばらくして、首を振った。
「分からない」
「エルフの耳は、長かだけやね」
「うるさいな」
ネリは黙って、石に耳を当て直した。リュカも、それに
「……聞こえた」
しばらくして、リュカが言った。ネリが顔を上げた。リュカは目を閉じたまま、石から耳を離さなかった。
邪魔をする気には、なれなかった。ガラは弁当を抱えたまま、来た道を戻った。
弁当は、食堂へ帰り着くころには冷めていた。
◇ ◆ ◇
客が引けた後、ネリが一人で皿を洗いに来た。
「海の若いのが、道案内してくれるって。明後日、うちが潜って線ば切る」
「……そうか」
しばらく、皿を洗う水の音だけがした。
「リュカは、優しすぎる」
「なんや、急に」
「昨日も、車から人が降りて逃げるまで、
「ええことやないか」
「森には、ようなか」
ガラは帳面を閉じ、ネリの横顔を見た。皿を洗う手は、少しも乱れていなかった。
「海におれるのは三十分。船から下ろして引き上げるまで、二十七分。一つ狂うたら、帰られへん」
「切る分も入れて二十七分よ。手間取ったら、切らんで戻る」
ネリは、皿を拭く手を止めなかった。
「あの子を惚れさせたんも、段取りのうちか」
ネリが笑った。
「半分。残りの半分は、知らん」
「あんたが海から帰られへんかったら、あの子はどうなる」
「……」
「海の連中にも、見せたら分かると思てんのか」
ネリから返事はなかった。
「そこまで、勘定に入れてんのか」
ネリは、最後の皿を棚に置いた。
「あるもんは、使わんともったいなかやろ」
「自分の身体まで、帳面に載せる気か」
「うちの身体は、うちのもんやけん」
ガラの義足が、床板を鳴らした。
「うちもな、息子のために脚売ったわ」
「……知っとう」
「あの子、三年、返事ひとつよこさへん」
ガラの手が、鍋の縁を叩いた。
「そんなことして、リュカが喜ぶと思てんのか!」
「喜ぶよ」
ネリが振り返った。笑っていた。
「うちが帰って、あの子と一緒になったら、喜ぶやろ」
「……あんたは、あの子が好きなんか。川が好きなんか」
「両方」
少し黙ってから、ネリは言った。
「両方やけん、こうすると」
港で、息子は一度も足元を見なかった。ガラは、あの日、息子に何も訊かなかった。
「リュカに言うで」
「言うたら、あの子は自分が潜るって言い出す。泳げんとに」
「ほな、親方に止めさせる」
ガラが帳面を抱えて立つと、ネリは戸口を塞いだ。
「あと何べん、あの川で待てばよかと」
ネリの声が小さくなった。ガラは、乾いた石に耳を当てていた二人を思い出した。危ないから待てと言うのは簡単だった。その間に失われるものを、ガラは返してやれない。
「明日は試すだけや。途中で諦めて戻れるか、うちも見る」
「戻れたら、親方にも止めんでって言うてよ」
「試してからや」
ネリは戸口を空けた。
二人で工房へ行き、途中で引き返す試験をコンラートに頼んだ。
翌日の試験では、川底に古い索を沈め、ガラが岸で時間を測った。途中で引き返す指示を出すと、ネリは不満そうな声を返したが、戻ってきた。コンラートは引っかかった脚を直し、同じことをもう一度させた。二度目は、ガラが呼ぶ前に戻ってきた。
「切れたんか」
「脚ば抜くのに、時間かかった。切っとったら遅くなるけん」
ネリは〈蟹〉を降りると、コンラートを呼び、引っかかった脚を指した。直してもらうまで、着替えようとしなかった。
ガラは翌日の出発に持たせる弁当の欄を開いた。
「おばちゃん。明日の弁当、塩は少なめにして」
濡れた髪を絞りながら、ネリが言った。
「分かってる」
ガラは帳面を閉じた。食堂へ戻る道では、ネリがその帳面を持った。
出発の晩も、食堂にはいつもの顔がそろっていた。
コンラートは酒。リュカは大盛り。ネリは魚を避けて豆を食べていた。
「今夜、海に行ってくる」
「俺も行く」
「泳げんやろ」
「岸までだよ!」
「勝手にせんね」
ガラは皿を置いた。
「おばちゃん、明日の肉、二人分を一皿にして」
「誰と誰や」
「うちと、こいつ」
ネリが、隣のリュカの皿へ、自分の豆を移した。
奥の卓で、ドゥーガが口笛を鳴らした。食堂じゅうが
「ちょっ、待て、聞いてない」
「今言うた」
「ほな、大皿で焼いといたる」
リュカは返事の代わりに、移された豆を全部食べた。
「歌姫、帰る歌や!」
奥の卓から、ドゥーガの声が飛んだ。
「肉一個!」
「おばちゃん!」
「はいはい」
ネリは歌った。
川を下り、海へ出て、また雨になって山へ帰る歌だった。
リュカが途中から、エルフの口笛で合わせた。
合わなかった。
「下手!」
「エルフの節はこうなんだよ!」
コンラートが、卓を指で叩き始めた。ガラは鍋の前で、低く唸った。
一瞬だけ、四つが噛み合いかけた。
すぐに崩れた。
「ほら、親方がずれた」
「
コンラートが笑った。ガラも笑った。ネリも笑った。
客が帰ると、ガラはいつもより塩を少なくして、夜の出発に持たせる弁当を包んだ。包みの結び目には、いつものように《ちゃんと食べ》と書いた札を挟んだ。
糧食の帳面には、いつもどおりの字で書いた。
《蟹一号 一食》
翌日、その次の行に、ガラの字で書き足されている。
《肉 一皿 余り》
◇ ◆ ◇
越境暦八十年三月十四日、午前二時十三分。第三海底幹線、通信断。
K.A.工房の整備簿には、この夜について一行だけが残っている。
《K.A.二型一号機 未帰還》
搭乗者の名はない。〈蟹〉と母船を繋いでいた通話索の記録には、最後に一言だけが残っている。
「帰る歌ば、歌ったって伝えて」
後世、この夜の出来事は〈川の歌姫〉の物語として歌われた。歌ごとに、少女の名は違う。食堂の帳面の、二月から三月にかけての名簿の頁は、失われている。
一人の少女が死を覚悟して単独で幹線を断ったとする英雄譚を、戦後のプロパガンダだとする者もいる。
だが、その夜、何者かが海底の幹線を切ったことだけは、間違いない。
事件の後も、ガラは食堂に残った。週に一度、息子の端末へ二行を送ることも、やめなかった。
食堂の帳面は、やがて大森林解放戦線の兵站台帳になった。
本人は最後まで軍人を名乗らず、兵站本部を「食堂」と呼んだ。
彼女が戦死するのは、四年後のことである。