野蛮なゲリラエルフは、如何にして平和なデータセンターを焼き払うに至ったか   作:とちがら

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第五話 英雄

 

 怖い。

 

 いつから、こんなことになったのか分からない。

 

 俺は人間が好きだった。正確に言えば、人間のことを知りたかった。地球へ行ってみたかった。人間の街を歩いて、人間の飯を食って、人間の仕事をしてみたかった。

 

 それを笑いながら見ていた爺ちゃんが死んだ。だから腹が立った。

 

 それだけだったはずだ。

 

 家の棚の奥には、まだジャムの瓶がある。

 一年経って、瓶の口にこびりついていた赤は、黒く乾いていた。

 

「リュカ、北の連中はどうする?」

「リュカ、電池が足りない」

「リュカ、川の氏族から返事が来たぞ」

「リュカ」

「リュカ」

「リュカ」

「待ってくれ!」

 

 俺は頭を抱えた。

 

「なんで全部俺に訊くんだよ!」

 

 作戦小屋が静かになった。

 

 コンラート親方が、隅で酒を飲んだ。

 

「わい(おまえ)が答ゆっで(答えるから)じゃ」

「最初に訊いてくるの、親方だろ!」

「なら、答えんければよか」

「答えなかったら困るだろ!」

「ほれ見やい(見ろ)」

 

 誰も出ていかなかった。電池が足りないと言った奴が、空の箱を机へ置いた。

 

「川の舟から借りていいか、聞いてくれよ」

「自分で訊けよ」

「断られたんだよ。薬を運ぶ分だからって。リュカから言えば——」

 

 俺は箱を押し返した。

 

「じゃあ、今日は飛ばない」

「工区は動いてるぞ」

「分かってる」

 

 その奴は、親方の方を見た。親方は俺ではなく、空の箱を見ていた。誰も、今の答えを直してくれなかった。

 

「……川に、返事してくる」

 

 箱を抱えて出ていく背中へ、頼む、と言った。少し前なら、俺がその箱を持って歩いていた。

 

 ネリがいたら笑ったかもしれない。

 

 最近、誰かの姿が見えないと、死んだのではないかと思うようになった。

 

 ティルが落ちた日、俺も飛んでいた。俺の機体は流されて、なぜか、また言うことを聞くようになった。ティルのは、聞かなかった。違いは、たぶん、どっちの上で電波が潰れたかだけだ。ティルが一番奥へ行くと言った時、俺は止めなかった。俺が頼んだのと、何が違う。

 

 会社への返信欄は、白いまま期限が過ぎた。

 

 ネリが海へ行った夜、俺は岸にいた。

 

 出がけに、ネリは弁当の包みを俺に押しつけた。

 

「潜る前に食べたら、吐くけん。帰ってから食べる」

「持ってればいいのか」

「落とさんでよ」

 

 それだけ言って、ネリは舟に乗った。

 

 俺は包みを膝に載せ、沖の母船を見ていた。通話索の声は、岸までは届かなかった。

 

 夜が明けて、母船が戻ってきた。舵(かじ)を取っていた川マーマンの爺さんが、舟を岸につけて、俺の顔を見ないで言った。

 

「帰る歌ば、歌ったって。あんたに伝えてって、言いよった」

「……それで? あの子は」

 

 爺さんは、船べりへ置いた俺の手に、自分の手を重ねた。

 

「まだ、捜しよる」

「俺も乗る」

「沖へ出ても、下は見えん」

「ここにいるより、いいだろ!」

 

 爺さんは、俺の膝から落ちかけた弁当を受け止め、戻した。

 

「岸に一人、おってくれ。ほかの舟が戻ったら、知らせて」

 

 仕事を渡されたのだと分かった。そうでもしなければ、俺が舟から離れないからだ。それでも手を離した。爺さんは何か言いかけて、結局、舟を押し戻した。

 

 昼前、別の舟が戻った。誰も、俺へ手を振らなかった。

 

 俺は、包みを抱えて食堂へ戻った。結び目に、おばちゃんの字の札が挟まっていた。

 

《ちゃんと食べ》

 

 おばちゃんは、厨房に立っていた。卓の上に、焼いた肉が一皿、冷めて載っていた。

 俺は包みを、肉の皿の横に置いた。どっちにも、手をつけなかった。

 

 泣いたのは、三日後だった。ドゥーガの前で、鼻水まで出た。ドゥーガは何も訊かずに、俺の椀(わん)に二杯目をよそった。

 

 いつからだ。いつから俺が、「次はどうする」と訊かれる側になった。

 

 誰も俺を隊長に任命していない。それなのに、知らないエルフが俺を見て「ボル爺の孫だべ」と言う。ドワーフが「〈蚊〉に最初に乗った奴だ」と言う。

 

 最初に乗ったのは、俺とティルだ。ティルのことは、誰も言わない。

 工区に残ったセインたちが俺を何と呼んでいるかは、聞かないようにしている。

 

 マーマンが「歌姫の——」と言いかけた。そこから先は聞かなかった。

 みんなが俺に訊くのは、この小屋で人類語を話せるのが俺だからだ。そう思うことにしている。

 

 夜になると、俺は作戦小屋で人類側の無線を聞く。暗号になっていない雑談も、たまに混じる。

 

「今日の飯、また乾燥パスタ」

「帰ったら車買うわ。中古でいい」

「母さんの誕生日、送金間に合うかな」

 

 みんなが知りたがるのは、車列の時刻と、警備の交代の時間だ。俺はそれだけを訳して伝える。飯の文句と、母親の誕生日は、訳さない。

 

 訳さないから、俺しか知らない。人間は、あっちでも乾燥パスタに文句を言っている。知っているから、怖い。

 

 それから、もう一つ、誰にも言っていないことがある。

 

 「リュカ」と呼ばれるたび、少しだけ背中が伸びる。それが、一番嫌だった。

 

 姉ちゃんには、前に《帰ってくるな》と送った。

 ある晩、返信の欄に《帰ってきて》と打って、全部消した。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 第三海底幹線の切断によって、第七北方データセンターから地球へ送り出せる計算の量は、長時間にわたって落ちた。データセンターそのものが止まったわけではない。幹線は複数あり、切られたのはその一本である。

 

 それでも地球側では、複数の医療機関で画像診断の支援が遅れた。ある小児病院では、術前の画像解析の結果がそろわず、予定していた心臓の手術が二日延びた。人類側の報道は、この件を大きく扱った。

 

 人類側は、これを単なる工事の妨害ではなく、重要インフラに対する組織的な攻撃と判断した。切断の後、第七北方データセンターの警備計画書には、一つの標語が現れる。

 

《兵を見るな、荷物を見ろ》

 

 前の冬に警備部長ヘレン・マクレディが書いた報告書の一文を、短くしたものである。警備の狙いは〈蚊〉から、川の輸送路と集積所へ移った。

 

 同時に、警備員と現地住民が直接撃ち合う場面を減らす必要もあった。マクレディは、導入の決裁書類にこう添え書きしている。

 

《私の部下は二十代の子供たちです。彼らに撃たせたくない。現地の人々にも、撃たせたくない。人が引き金を引かない警備を求めます》

 

 その回答として導入されたのが、非致死性の制圧装備を積んだ、大型の多脚警備機である。

 

 車輪の入れない斜面と湿った森のための機械だった。人類側の型式名は、多脚警備機四型。熱を映す装置で、藪(やぶ)の隙間の体温を拾う。

 

 武装は、すべて非致死性とされた。背中の旋回砲塔には、四十ミリ径の衝撃弾の発射器が載っている。弾頭は硬い樹脂で、規定では、二十メートルより近い相手と、頭部を狙うことは禁じられていた。胸は、禁じられていなかった。

 

 発砲の判断は、機体が相手の動きから自動で下す。後方の車両にいる操作員は、行き先と、撃ってよい区域を決める。射撃を止めることはできた。

 

 導入に先立つ説明会で、マクレディは射撃を許す区域の図を広げた。村は外してあった。川沿いの荷揚げ場に、線が引かれていた。

 

「村まで追うことは許可しない。荷を止めれば、今日はそれでいい」

 

 着任したばかりのイーサン・ヘイルが手を挙げた。

 

「荷を取り返しに来たら?」

「まず警告。機械の前へ出て、押し返そうとしないこと」

「エルフに撃っても、大丈夫なんですか。去年、事故があったって」

 

 マクレディは装備仕様書を開いた。認可の印があった。それでも、目の前の若い男へ、絶対に死なないとは言えなかった。

 

「倒れたら、救護を呼ぶ。近くへ寄る時は、操作員に射撃を止めさせてから」

「機械に任せて、後ろにいればいいんですか」

「後ろから見ていなさい。危ないと思ったら、引かせる。私が許可した場所でも」

 

 マクレディは、荷揚げ場に重なっていた人の通る道を図から拾い、区域を狭めた。狭めるほど、警備員が自分で立つ場所は増える。残った線の下へ、自分の名を書いた。

 

 大森林側は、これを〈鉄犬〉と呼んだ。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 最初に鉄犬とぶつかったのは、川から荷を上げる途中の輸送隊だった。

 

 俺は〈蚊〉で、その上を飛んでいた。

 

 列の先頭には、補給係のイルクがいた。おばちゃんの帳面を、三日かけて写した奴だ。写しは防水の袋に入れて、いつも腹に巻いていた。川から、まだ最後の箱を上げているところだった。俺は手を振った。イルクも振り返したが、俺の指している方を見て、手を下ろした。

 

 鉄犬は、弓を持った連中が伏せている尾根を、素通りした。まっすぐ、荷の列へ来た。

 

 木を避けなかった。押し倒した。倒木を跨(また)いだ。藪に伏せたオークを、迷わず見つけた。俺が低く降りると、背中の砲塔がこっちを追った。

 

 撃ってくる弾は、建前の上では、死なないための弾だった。当たったエルフが、崖から落ちた。

 

 死んだ。

 

「荷は置け! 川へ戻れ!」

 

 上から叫んだ。イルクが荷車を押した。そっちじゃない。人を戻せと言ったのだ。

 

 俺は〈蚊〉を下げた。イルクは俺を見て、薬の印のある箱を叩いた。昨日、自分が帳面に付けた配り先を、今ここで捨てられないのだと分かった。

 

「あとで取りに来るから!」

 

 約束できるはずもないことを叫んだ。イルクは荷車の陰から飛び出した。荷を川へ戻そうとしたのだと思う。弾は、イルクの胸の真ん中に当たった。イルクは二、三歩よろけて、楡(にれ)の幹にもたれるように座り込んだ。

 

 俺が降りたとき、イルクは幹にもたれたままだった。目を開けていた。両手で、腹の袋を押さえていた。

 

「イルク」

 

 返事はなかった。

 

 死んだ。

 

 袋の中の帳面は、濡れていなかった。

 

 その日、五人が死んだ。荷は、半分が川に沈んだ。集積所まで引いてあった有線の電話線も、鉄犬が倒木ごと踏み切っていった。

 

 森へ逃げれば、大丈夫。俺たちは、ずっとそう思っていた。人類の車は森に入れない。人類の兵は森で迷う。

 

 鉄犬は、森の奥まで追ってきた。帰る場所が、なくなった。

 

「エルフの指図なんぞ、オークは聞かんで」

「川の者は、陸の指揮には入らんと」

「ドワーフに命令できる者がおるか」

「じゃあ、誰が決めるんだよ!」

 

 五人を埋めた翌日の会合は、そこから一歩も進まなかった。

 

 三日目の朝、鉄犬の足跡が、会合を開いていた谷の入口で見つかった。その日の午後、オークの代表が、机の上の地図を自分の方へ引いた。

 

「うちらだけで荷を担いで逃げても、追いつかれる。川まで運ぶから、舟を出してくれ」

「川の者だけでは、舟へ積めんと」

 

 川マーマンの代表が答えた。

 

「ほな、そこまでは、うちらが運ぶ」

 

 俺は、二人の指の間へ、森の抜け道を描いた。ここなら〈蚊〉が上を見られる。親方が横から、それでは電池がもたん、と線を短くした。

 

「退く時は、誰が言うんや」

 

 オークの代表が俺を見た。俺は、親方を見た。

 

「飛んじょっ者からしか、向こう側は見えん」

 

 親方は地図から目を上げなかった。

 

「俺が見て、伝える」

「伝えるだけやったら遅い。引くんか、残るんか、言え」

 

 イルクに、あとで取りに来ると叫んだ時のことを思い出した。

 

「……言う。その代わり、荷を置けって言ったら、人だけで戻ってくれ」

 

 オークの代表は頷いた。川の者も頷いた。綱領の紙は、誰も引き寄せなかった。

 

 海の者は綱領への署名を拒み、ドワーフは人類を追い出した後のことまで約束しなかった。北縁のエルフは、解放ではなく自治を求めていると言った。

 

 俺は、その全部を議事の帳面に書いた。書記を頼まれたのは、人類の字もエルフ文字も書けるのが、あの小屋では俺だけだったからだ。

 

「正面から壊すとは、無理じゃ」

 

 親方が言った。

 

「装甲は?」

「弓でどげんかなっち(どうにかなると)思うか」

「かぼちゃ爆弾」

「近づく前に撃たるっ(撃たれる)」

「じゃあ、どうする」

 

 親方は、偵察が撮った鉄犬の歩く映像を、何度も繰り返し再生した。

 

 一本の脚が上がる。胴が傾く。残りの三本に重さが乗る。脚が下りる。次の脚が上がる。

 

「……遅か」

「速かっただろ」

「歩くとは速か。じゃっどん(だけど)、脚を上げちょっ(上げてる)間は、三本でしか立っちょらん」

 

 親方は画面を止めた。

 

「壊す必要はなか。歩けんごと(歩けないように)すれば、勝手に倒るっ(倒れる)」

 

 親方が地図を広げた。

 

 湿地。川。森。

 

「ここへ誘う。泥なら、脚が沈む。沈んだ脚は、すぐには上がらん。そん間に、次の脚に索を掛くっ(掛ける)」

 

 川マーマンの若者が言った。

 

「水路なら、下から寄れるとよ。〈蟹〉で索ば運ぶ」

「索は、誰が引く」

 

 親方が訊くと、オークたちが腕を組んだ。ドゥーガが、胸を叩いた。

 

「うちらが引いたるわ」

「上は?」

「〈蚊〉で釣る。センサーの目を上へ向けさせる」

 

 〈蚊〉乗りの古株が言った。

 

「森の中は?」

「エルフの仕事だ。道は俺たちが一番知ってる」

 

 全部、決まりかけたところで、誰かが言った。

 

「通信は? 人類は、また電波を潰すぞ」

「有線を引く」

「前の時、切られただろ」

 

 小屋が黙った。

 

 川マーマンの年寄りが、ぽつりと言った。

 

「歌えばよか」

 

 俺は顔を上げた。

 

「川じゃ、昔からそうしよる。遠くへ知らせる歌があるとよ。どの支流か。水はどこまで来とうか。いつ舟ば出すか」

 

 聞いたことがあった。帰る歌。支流を示す文句。水位を知らせる文句。ネリが食堂で、積荷の数に抑揚をつけて唱え、一つも間違えなかった。

 

 親方が鼻を鳴らした。

 

「原始的じゃな」

「駄目?」

「いや」

 

 親方は、少しだけ笑った。

 

「邪魔でけん通信は、よか通信じゃ」

「でも、俺たちには分からない」

 

 俺が言うと、川マーマンの年寄りは、出発を知らせる文句を唱えた。真似してみた。川の者が二人、同時に違うと言った。

 

「今ので、出る時刻が変わったとよ」

「そんなの、戦ってる時に直せないだろ」

「全部歌わんでよか。あんたらの口笛で返して。こっちは、それば覚える」

 

 親方が卓を叩いた。オークたちが、どの音で引けばよいのかと訊いた。同じ問いが三度出た。俺は三度とも、年寄りに最初から唱えてもらった。

 

「今のなら、分かる」

 

 ドゥーガが言うまで、誰も地図を畳まなかった。

 それから、小屋じゅうの目が俺に集まった。

 

「どうする」

 

 まただ。俺が決めるのか。

 

 手が震えていた。机の下へ隠した。

 誰か、代わりに言ってくれ。誰も言わなかった。

 

「……やろう」

 

 声は、思ったより普通に出た。

 みんなが頷いた。それだけで、俺が正しいことになった。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 六月十九日の朝、俺は爺ちゃんの弓を〈蚊〉に括りつけ、森を出た。

 

 〈蚊〉が、梢(こずえ)の上を抜けた。一機。三機。十機。

 

 鉄犬の頭が回った。砲塔が上を向いた。

 

「来たぞ!」

 

 下の森で、誰かが叫んだ。俺は、低く飛んだ。

 

 弾が横を抜けた。木の皮が弾けた。鉄犬が追ってくる。

 

 もっと。もう少し。湿地へ。

 

 無線が、雑音に変わった。予定どおりだった。

 

 下の陣地から、赤い布が二度振られた。有線も、どこかで切られた。それも、予定どおりだった。

 

 川から、声が聞こえた。決まった文句を、同じ抑揚で二度唱える。第三支流、準備よし。

 

 森の奥から、エルフの口笛が返った。方角。

 

 ドワーフの陣地で、槌(つち)が拍を打った。間合い。

 

 オークたちが索を握り、低く唸り始めた。引く合図を待つ声。

 

 川の声は、ネリの声に聞こえた。

 

 鉄犬が、湿地に踏み込んだ。一歩。二歩。脚が沈んだ。

 

「まだじゃ!」

 

 低く飛んでいた俺の耳にも、下の藪から、親方の怒鳴り声が届いた。

 

 三歩。

 

「まだ!」

 

 水の中から、〈蟹〉が索を持ち上げた。沈んだ前脚の、すぐ後ろへ。

 

 次の脚が、上がった。

 

「今じゃ!!」

 

 オークたちが引いた。索が張った。

 

 索が一本、切れた。オークが二人、泥の中へ吹き飛んだ。

 

 鉄犬は、倒れなかった。

 

「もう一本!」

 

 俺は〈蚊〉を降ろした。〈蟹〉が水面へ押し上げた二本目の索の端を、荷吊りの鉤で拾った。

 

 重い。機体が傾いた。細い握りの中で、指が滑りかけた。

 

「飛べ!」

 

 モーターが唸った。

 

「飛べ!」

 

 脚と脚の間を抜けた。索が、二本の脚に巻きついた。

 

 鉄犬が、次の一歩を出そうとした。前の脚が、交差した。巨体が傾いた。

 

 人類の兵が、何か叫んだ。口の形で分かった。

 

「嘘だろ」

 

 鉄犬が、倒れた。

 

 背中の砲塔が泥へ突っ込んだ。脚はまだ動いていた。索が緩めば立ち上がる。川から、締め直す合図が来た。

 

 人類の警備員たちは、来た道へ退き始めていた。森の仲間が追おうとするのへ、俺は手を振った。

 

「追うな! 索を離すな!」

 

 俺は〈蚊〉を湿地の縁へ降ろし、爺ちゃんの弓を掴んで飛び降りた。

 

 森が揺れた。歓声が上がった。

 

「やった!」

「倒したぞ!」

 

 俺も笑った。

 

 勝った。そう思った。

 

「一人、下にいる!」

 

 人類語だった。鉄犬の向こうで、泥だらけの男が立ち上がった。退いていく警備員たちへ腕を振っていた。

 

「機体は置いて戻れ!」

「人がいるんだよ!」

 

 男が鉄犬の脚の下へ屈んだ。制服を着た肩と、泥を掻く手が見えた。男はその腕を引いたが、下の人は出てこなかった。

 

 俺はもう笑えなかった。

 

 男は腰からナイフを抜いた。泥の中の銃も拾い、脚を縛った索へ向かった。

 

 あれを切って、助け出すつもりなのか。

 

 男と目が合った。

 

 人間だった。当たり前だ。ずっと知っていた。

 

「どけ! そいつから離れろ!」

 

 索の根元には、ドゥーガがしがみついていた。おばちゃんの食堂で、いつも二杯目を頼むオークだ。

 

 切られたら、鉄犬が起きる。ドゥーガは、下敷きの人を見ていなかった。男の言葉も分からない。俺は弓を上げた。

 

 爺ちゃんの弓だった。握りが、爺ちゃんの手の形に擦り減っている。

 

「獲らねえ(獲らない)ものさ、弓ば向げるな(向けるな)」

 

 爺ちゃんの声がした。

 

 何を獲る。あの人間か。勝ちか。ドゥーガの命か。分からなかった。

 

 男が、銃を上げた。ドゥーガに向けて。

 

 俺は、弦を引いた。

 

 男の顔が見えた。若かった。怖がっていた。

 

「待て!」

 

 人類語で叫んだ。

 

 男が、一瞬止まった。こっちを見た。エルフの口から人類語が出たことに、驚いた顔だった。

 

 川の声は、まだ続いていた。

 

 索を締め直す槌の拍が鳴った。ドゥーガが引くと、鉄犬の脚がずれ、その下から悲鳴が上がった。

 

 男の顔が、そっちへ跳ねた。銃口が、もう一度ドゥーガへ振られた。

 

 俺は、放した。

 

 男の胸に矢が立った。

 

「……マジかよ」

 

 人類語のその一言が、聞こえた。男の膝が落ちた。

 

 俺は、男のそばに膝をついた。助けようと思った。

 

 矢を抜こうとして、やめた。人類の診療所の壁に、絵が貼ってあった。刺さったものを、自分で抜かないでください。

 

「おい」

 

 人類語で呼んだ。

 

「おい!」

 

 男は動かなかった。

 

「布! 誰か、布持ってないか!」

 

 自分の外套を脱いで、矢の周りへ押し当てた。どこを押さえればよいのか分からなかった。診療所の絵には、その先まで書いてあったはずだ。読んでおけばよかった。

 

 血が赤かった。人間の血も赤いことは、知っていた。

 

 俺の矢だった。爺ちゃんの弓だった。

 

「リュカ!」

 

 後ろから、抱きつかれた。

 

「やったぞ!」

「鉄犬を倒した!」

「勝った!」

 

 肩を叩かれた。誰かが、俺を立たせた。

 

「待て。まだ——」

 

 村から来たばかりのミロが外套を受け取り、男のそばへ屈んだ。俺はまた膝をつこうとしたが、背中から腕を回された。

 

 みんな笑っていた。泣いていた。ミロは男の口元へ耳を近づけ、顔を上げて、首を振った。泥の中から這(は)い出したドゥーガが、鼻水を垂らしながら俺の背中を叩いた。

 

「リュカ!」

「英雄だ!」

「リュカ!」

 

 人の輪に押されて、男の顔が見えなくなった。

 

 俺は、嬉しかった。鉄犬を倒した。ドゥーガが生きている。作戦が当たった。

 

 嬉しかった。

 

 人を殺したのに。

 

 そのことが、一番怖かった。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 その夜、食堂は騒がしかった。

 おばちゃんは大鍋の前にいた。戻ってきた連中を数え、ドゥーガが怪我人を連れてくるたびに、卓を空けさせた。

 

 俺の前にも、肉の皿が置かれた。

 

「食べられるか」

「……あとで」

 

 おばちゃんは皿を鍋のそばへ戻した。俺は、冷めた肉を見ずに済んだ。

 

 酒が出た。親方まで機嫌がよかった。

 

「見たか! おい(おれ)の索の計算を!」

「最後に飛んだの、俺だろ!」

「おいの〈蚊〉でな!」

「引いたんはオークやで!」

「歌がなかったら、拍の合わんかったとよ!」

 

 誰かが歌い始めた。川の歌だった。ネリが食堂で歌っていた、帰る歌の歌詞だった。

 

 エルフたちが、口笛で旋律を重ねた。

 

 親方が、卓を拳で叩き始めた。

 

 三小節目で、何人かの口笛が、揃ってわずかに跳ねた。倉庫で、ティルと工事の標識を取り合っていた連中だった。

 

 親方の拳が、止まった。

 

「……ティルの節じゃ」

 

 親方は、誰にともなく呟(つぶや)いた。

 

 拳が、また卓を叩いた。今度は、跳ねた口笛に拍が揃った。

 

 オークたちが、低く唸った。鍋の前から、おばちゃんの声も重なった。

 

 合った。今度は、崩れなかった。

 

「世界の最初の歌たい」

 

 川マーマンの年寄りが、泣きながら言った。

 

 みんな歌っていた。みんな笑っていた。

 

 俺だけが、歌えなかった。

 

 昼間、この歌で、鉄犬を湿地へ誘った。この歌の拍で、俺は弦を放した。

 

 ネリは、この歌が一つになるところを、聞いていない。

 

「リュカ!」

 

 ミロが、杯を突き出した。

 

「英雄!」

 

 やめてくれ。

 

「ボル爺も喜んでるべ!」

 

 分からない。

 

「歌姫も見てるぞ!」

 

 やめろ。

 

「これで人類も懲りるだろ!」

「鉄犬だって倒せるんだ!」

 

 腰の端末が震えた。セインからだった。

 

《ニュース見た》

《人、殺したのか》

 

 返信の欄に、何も打てなかった。

 

 親方が、杯を掲げた。

 

「勝ったとじゃろ?」

「違う」

 

 自分でも驚くほど、声が通った。

 

 食堂が、静かになった。

 

「なんじゃ?」

 

 俺は、自分の手を見た。洗った。血は付いていない。それでも、赤く見えた。

 

「違う。戦争が始まったんだよ」

 

 誰も、何も言わなかった。親方が、杯を下ろした。

 

 奥の卓で、誰かがまた歌い始めた。一人が加わった。二人が加わった。口笛が重なり、拍が重なり、底が重なった。

 

 歌は、俺の声よりずっと大きかった。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 第一次大森林戦争の開戦時期をいつとするかは、定かではない。

 

 しかし現在、もっとも有力とされるのは、越境暦八十年六月十九日説である。この日、人類側警備員イーサン・ヘイルが死亡した。敵対者の意図的な攻撃による人類側最初の死者とされている。

 

 一人の青年は英雄になり、創世神話の歌は、軍歌になった。

 

            第一部「英雄の誕生、あるいは開戦」了

 

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