野蛮なゲリラエルフは、如何にして平和なデータセンターを焼き払うに至ったか 作:とちがら
怖い。
いつから、こんなことになったのか分からない。
俺は人間が好きだった。正確に言えば、人間のことを知りたかった。地球へ行ってみたかった。人間の街を歩いて、人間の飯を食って、人間の仕事をしてみたかった。
それを笑いながら見ていた爺ちゃんが死んだ。だから腹が立った。
それだけだったはずだ。
家の棚の奥には、まだジャムの瓶がある。
一年経って、瓶の口にこびりついていた赤は、黒く乾いていた。
「リュカ、北の連中はどうする?」
「リュカ、電池が足りない」
「リュカ、川の氏族から返事が来たぞ」
「リュカ」
「リュカ」
「リュカ」
「待ってくれ!」
俺は頭を抱えた。
「なんで全部俺に訊くんだよ!」
作戦小屋が静かになった。
コンラート親方が、隅で酒を飲んだ。
「
「最初に訊いてくるの、親方だろ!」
「なら、答えんければよか」
「答えなかったら困るだろ!」
「ほれ
誰も出ていかなかった。電池が足りないと言った奴が、空の箱を机へ置いた。
「川の舟から借りていいか、聞いてくれよ」
「自分で訊けよ」
「断られたんだよ。薬を運ぶ分だからって。リュカから言えば——」
俺は箱を押し返した。
「じゃあ、今日は飛ばない」
「工区は動いてるぞ」
「分かってる」
その奴は、親方の方を見た。親方は俺ではなく、空の箱を見ていた。誰も、今の答えを直してくれなかった。
「……川に、返事してくる」
箱を抱えて出ていく背中へ、頼む、と言った。少し前なら、俺がその箱を持って歩いていた。
ネリがいたら笑ったかもしれない。
最近、誰かの姿が見えないと、死んだのではないかと思うようになった。
ティルが落ちた日、俺も飛んでいた。俺の機体は流されて、なぜか、また言うことを聞くようになった。ティルのは、聞かなかった。違いは、たぶん、どっちの上で電波が潰れたかだけだ。ティルが一番奥へ行くと言った時、俺は止めなかった。俺が頼んだのと、何が違う。
会社への返信欄は、白いまま期限が過ぎた。
ネリが海へ行った夜、俺は岸にいた。
出がけに、ネリは弁当の包みを俺に押しつけた。
「潜る前に食べたら、吐くけん。帰ってから食べる」
「持ってればいいのか」
「落とさんでよ」
それだけ言って、ネリは舟に乗った。
俺は包みを膝に載せ、沖の母船を見ていた。通話索の声は、岸までは届かなかった。
夜が明けて、母船が戻ってきた。
「帰る歌ば、歌ったって。あんたに伝えてって、言いよった」
「……それで? あの子は」
爺さんは、船べりへ置いた俺の手に、自分の手を重ねた。
「まだ、捜しよる」
「俺も乗る」
「沖へ出ても、下は見えん」
「ここにいるより、いいだろ!」
爺さんは、俺の膝から落ちかけた弁当を受け止め、戻した。
「岸に一人、おってくれ。ほかの舟が戻ったら、知らせて」
仕事を渡されたのだと分かった。そうでもしなければ、俺が舟から離れないからだ。それでも手を離した。爺さんは何か言いかけて、結局、舟を押し戻した。
昼前、別の舟が戻った。誰も、俺へ手を振らなかった。
俺は、包みを抱えて食堂へ戻った。結び目に、おばちゃんの字の札が挟まっていた。
《ちゃんと食べ》
おばちゃんは、厨房に立っていた。卓の上に、焼いた肉が一皿、冷めて載っていた。
俺は包みを、肉の皿の横に置いた。どっちにも、手をつけなかった。
泣いたのは、三日後だった。ドゥーガの前で、鼻水まで出た。ドゥーガは何も訊かずに、俺の
いつからだ。いつから俺が、「次はどうする」と訊かれる側になった。
誰も俺を隊長に任命していない。それなのに、知らないエルフが俺を見て「ボル爺の孫だべ」と言う。ドワーフが「〈蚊〉に最初に乗った奴だ」と言う。
最初に乗ったのは、俺とティルだ。ティルのことは、誰も言わない。
工区に残ったセインたちが俺を何と呼んでいるかは、聞かないようにしている。
マーマンが「歌姫の——」と言いかけた。そこから先は聞かなかった。
みんなが俺に訊くのは、この小屋で人類語を話せるのが俺だからだ。そう思うことにしている。
夜になると、俺は作戦小屋で人類側の無線を聞く。暗号になっていない雑談も、たまに混じる。
「今日の飯、また乾燥パスタ」
「帰ったら車買うわ。中古でいい」
「母さんの誕生日、送金間に合うかな」
みんなが知りたがるのは、車列の時刻と、警備の交代の時間だ。俺はそれだけを訳して伝える。飯の文句と、母親の誕生日は、訳さない。
訳さないから、俺しか知らない。人間は、あっちでも乾燥パスタに文句を言っている。知っているから、怖い。
それから、もう一つ、誰にも言っていないことがある。
「リュカ」と呼ばれるたび、少しだけ背中が伸びる。それが、一番嫌だった。
姉ちゃんには、前に《帰ってくるな》と送った。
ある晩、返信の欄に《帰ってきて》と打って、全部消した。
◇ ◆ ◇
第三海底幹線の切断によって、第七北方データセンターから地球へ送り出せる計算の量は、長時間にわたって落ちた。データセンターそのものが止まったわけではない。幹線は複数あり、切られたのはその一本である。
それでも地球側では、複数の医療機関で画像診断の支援が遅れた。ある小児病院では、術前の画像解析の結果がそろわず、予定していた心臓の手術が二日延びた。人類側の報道は、この件を大きく扱った。
人類側は、これを単なる工事の妨害ではなく、重要インフラに対する組織的な攻撃と判断した。切断の後、第七北方データセンターの警備計画書には、一つの標語が現れる。
《兵を見るな、荷物を見ろ》
前の冬に警備部長ヘレン・マクレディが書いた報告書の一文を、短くしたものである。警備の狙いは〈蚊〉から、川の輸送路と集積所へ移った。
同時に、警備員と現地住民が直接撃ち合う場面を減らす必要もあった。マクレディは、導入の決裁書類にこう添え書きしている。
《私の部下は二十代の子供たちです。彼らに撃たせたくない。現地の人々にも、撃たせたくない。人が引き金を引かない警備を求めます》
その回答として導入されたのが、非致死性の制圧装備を積んだ、大型の多脚警備機である。
車輪の入れない斜面と湿った森のための機械だった。人類側の型式名は、多脚警備機四型。熱を映す装置で、
武装は、すべて非致死性とされた。背中の旋回砲塔には、四十ミリ径の衝撃弾の発射器が載っている。弾頭は硬い樹脂で、規定では、二十メートルより近い相手と、頭部を狙うことは禁じられていた。胸は、禁じられていなかった。
発砲の判断は、機体が相手の動きから自動で下す。後方の車両にいる操作員は、行き先と、撃ってよい区域を決める。射撃を止めることはできた。
導入に先立つ説明会で、マクレディは射撃を許す区域の図を広げた。村は外してあった。川沿いの荷揚げ場に、線が引かれていた。
「村まで追うことは許可しない。荷を止めれば、今日はそれでいい」
着任したばかりのイーサン・ヘイルが手を挙げた。
「荷を取り返しに来たら?」
「まず警告。機械の前へ出て、押し返そうとしないこと」
「エルフに撃っても、大丈夫なんですか。去年、事故があったって」
マクレディは装備仕様書を開いた。認可の印があった。それでも、目の前の若い男へ、絶対に死なないとは言えなかった。
「倒れたら、救護を呼ぶ。近くへ寄る時は、操作員に射撃を止めさせてから」
「機械に任せて、後ろにいればいいんですか」
「後ろから見ていなさい。危ないと思ったら、引かせる。私が許可した場所でも」
マクレディは、荷揚げ場に重なっていた人の通る道を図から拾い、区域を狭めた。狭めるほど、警備員が自分で立つ場所は増える。残った線の下へ、自分の名を書いた。
大森林側は、これを〈鉄犬〉と呼んだ。
◇ ◆ ◇
最初に鉄犬とぶつかったのは、川から荷を上げる途中の輸送隊だった。
俺は〈蚊〉で、その上を飛んでいた。
列の先頭には、補給係のイルクがいた。おばちゃんの帳面を、三日かけて写した奴だ。写しは防水の袋に入れて、いつも腹に巻いていた。川から、まだ最後の箱を上げているところだった。俺は手を振った。イルクも振り返したが、俺の指している方を見て、手を下ろした。
鉄犬は、弓を持った連中が伏せている尾根を、素通りした。まっすぐ、荷の列へ来た。
木を避けなかった。押し倒した。倒木を
撃ってくる弾は、建前の上では、死なないための弾だった。当たったエルフが、崖から落ちた。
死んだ。
「荷は置け! 川へ戻れ!」
上から叫んだ。イルクが荷車を押した。そっちじゃない。人を戻せと言ったのだ。
俺は〈蚊〉を下げた。イルクは俺を見て、薬の印のある箱を叩いた。昨日、自分が帳面に付けた配り先を、今ここで捨てられないのだと分かった。
「あとで取りに来るから!」
約束できるはずもないことを叫んだ。イルクは荷車の陰から飛び出した。荷を川へ戻そうとしたのだと思う。弾は、イルクの胸の真ん中に当たった。イルクは二、三歩よろけて、
俺が降りたとき、イルクは幹にもたれたままだった。目を開けていた。両手で、腹の袋を押さえていた。
「イルク」
返事はなかった。
死んだ。
袋の中の帳面は、濡れていなかった。
その日、五人が死んだ。荷は、半分が川に沈んだ。集積所まで引いてあった有線の電話線も、鉄犬が倒木ごと踏み切っていった。
森へ逃げれば、大丈夫。俺たちは、ずっとそう思っていた。人類の車は森に入れない。人類の兵は森で迷う。
鉄犬は、森の奥まで追ってきた。帰る場所が、なくなった。
「エルフの指図なんぞ、オークは聞かんで」
「川の者は、陸の指揮には入らんと」
「ドワーフに命令できる者がおるか」
「じゃあ、誰が決めるんだよ!」
五人を埋めた翌日の会合は、そこから一歩も進まなかった。
三日目の朝、鉄犬の足跡が、会合を開いていた谷の入口で見つかった。その日の午後、オークの代表が、机の上の地図を自分の方へ引いた。
「うちらだけで荷を担いで逃げても、追いつかれる。川まで運ぶから、舟を出してくれ」
「川の者だけでは、舟へ積めんと」
川マーマンの代表が答えた。
「ほな、そこまでは、うちらが運ぶ」
俺は、二人の指の間へ、森の抜け道を描いた。ここなら〈蚊〉が上を見られる。親方が横から、それでは電池がもたん、と線を短くした。
「退く時は、誰が言うんや」
オークの代表が俺を見た。俺は、親方を見た。
「飛んじょっ者からしか、向こう側は見えん」
親方は地図から目を上げなかった。
「俺が見て、伝える」
「伝えるだけやったら遅い。引くんか、残るんか、言え」
イルクに、あとで取りに来ると叫んだ時のことを思い出した。
「……言う。その代わり、荷を置けって言ったら、人だけで戻ってくれ」
オークの代表は頷いた。川の者も頷いた。綱領の紙は、誰も引き寄せなかった。
海の者は綱領への署名を拒み、ドワーフは人類を追い出した後のことまで約束しなかった。北縁のエルフは、解放ではなく自治を求めていると言った。
俺は、その全部を議事の帳面に書いた。書記を頼まれたのは、人類の字もエルフ文字も書けるのが、あの小屋では俺だけだったからだ。
「正面から壊すとは、無理じゃ」
親方が言った。
「装甲は?」
「弓で
「かぼちゃ爆弾」
「近づく前に
「じゃあ、どうする」
親方は、偵察が撮った鉄犬の歩く映像を、何度も繰り返し再生した。
一本の脚が上がる。胴が傾く。残りの三本に重さが乗る。脚が下りる。次の脚が上がる。
「……遅か」
「速かっただろ」
「歩くとは速か。
親方は画面を止めた。
「壊す必要はなか。
親方が地図を広げた。
湿地。川。森。
「ここへ誘う。泥なら、脚が沈む。沈んだ脚は、すぐには上がらん。そん間に、次の脚に索を
川マーマンの若者が言った。
「水路なら、下から寄れるとよ。〈蟹〉で索ば運ぶ」
「索は、誰が引く」
親方が訊くと、オークたちが腕を組んだ。ドゥーガが、胸を叩いた。
「うちらが引いたるわ」
「上は?」
「〈蚊〉で釣る。センサーの目を上へ向けさせる」
〈蚊〉乗りの古株が言った。
「森の中は?」
「エルフの仕事だ。道は俺たちが一番知ってる」
全部、決まりかけたところで、誰かが言った。
「通信は? 人類は、また電波を潰すぞ」
「有線を引く」
「前の時、切られただろ」
小屋が黙った。
川マーマンの年寄りが、ぽつりと言った。
「歌えばよか」
俺は顔を上げた。
「川じゃ、昔からそうしよる。遠くへ知らせる歌があるとよ。どの支流か。水はどこまで来とうか。いつ舟ば出すか」
聞いたことがあった。帰る歌。支流を示す文句。水位を知らせる文句。ネリが食堂で、積荷の数に抑揚をつけて唱え、一つも間違えなかった。
親方が鼻を鳴らした。
「原始的じゃな」
「駄目?」
「いや」
親方は、少しだけ笑った。
「邪魔でけん通信は、よか通信じゃ」
「でも、俺たちには分からない」
俺が言うと、川マーマンの年寄りは、出発を知らせる文句を唱えた。真似してみた。川の者が二人、同時に違うと言った。
「今ので、出る時刻が変わったとよ」
「そんなの、戦ってる時に直せないだろ」
「全部歌わんでよか。あんたらの口笛で返して。こっちは、それば覚える」
親方が卓を叩いた。オークたちが、どの音で引けばよいのかと訊いた。同じ問いが三度出た。俺は三度とも、年寄りに最初から唱えてもらった。
「今のなら、分かる」
ドゥーガが言うまで、誰も地図を畳まなかった。
それから、小屋じゅうの目が俺に集まった。
「どうする」
まただ。俺が決めるのか。
手が震えていた。机の下へ隠した。
誰か、代わりに言ってくれ。誰も言わなかった。
「……やろう」
声は、思ったより普通に出た。
みんなが頷いた。それだけで、俺が正しいことになった。
◇ ◆ ◇
六月十九日の朝、俺は爺ちゃんの弓を〈蚊〉に括りつけ、森を出た。
〈蚊〉が、
鉄犬の頭が回った。砲塔が上を向いた。
「来たぞ!」
下の森で、誰かが叫んだ。俺は、低く飛んだ。
弾が横を抜けた。木の皮が弾けた。鉄犬が追ってくる。
もっと。もう少し。湿地へ。
無線が、雑音に変わった。予定どおりだった。
下の陣地から、赤い布が二度振られた。有線も、どこかで切られた。それも、予定どおりだった。
川から、声が聞こえた。決まった文句を、同じ抑揚で二度唱える。第三支流、準備よし。
森の奥から、エルフの口笛が返った。方角。
ドワーフの陣地で、
オークたちが索を握り、低く唸り始めた。引く合図を待つ声。
川の声は、ネリの声に聞こえた。
鉄犬が、湿地に踏み込んだ。一歩。二歩。脚が沈んだ。
「まだじゃ!」
低く飛んでいた俺の耳にも、下の藪から、親方の怒鳴り声が届いた。
三歩。
「まだ!」
水の中から、〈蟹〉が索を持ち上げた。沈んだ前脚の、すぐ後ろへ。
次の脚が、上がった。
「今じゃ!!」
オークたちが引いた。索が張った。
索が一本、切れた。オークが二人、泥の中へ吹き飛んだ。
鉄犬は、倒れなかった。
「もう一本!」
俺は〈蚊〉を降ろした。〈蟹〉が水面へ押し上げた二本目の索の端を、荷吊りの鉤で拾った。
重い。機体が傾いた。細い握りの中で、指が滑りかけた。
「飛べ!」
モーターが唸った。
「飛べ!」
脚と脚の間を抜けた。索が、二本の脚に巻きついた。
鉄犬が、次の一歩を出そうとした。前の脚が、交差した。巨体が傾いた。
人類の兵が、何か叫んだ。口の形で分かった。
「嘘だろ」
鉄犬が、倒れた。
背中の砲塔が泥へ突っ込んだ。脚はまだ動いていた。索が緩めば立ち上がる。川から、締め直す合図が来た。
人類の警備員たちは、来た道へ退き始めていた。森の仲間が追おうとするのへ、俺は手を振った。
「追うな! 索を離すな!」
俺は〈蚊〉を湿地の縁へ降ろし、爺ちゃんの弓を掴んで飛び降りた。
森が揺れた。歓声が上がった。
「やった!」
「倒したぞ!」
俺も笑った。
勝った。そう思った。
「一人、下にいる!」
人類語だった。鉄犬の向こうで、泥だらけの男が立ち上がった。退いていく警備員たちへ腕を振っていた。
「機体は置いて戻れ!」
「人がいるんだよ!」
男が鉄犬の脚の下へ屈んだ。制服を着た肩と、泥を掻く手が見えた。男はその腕を引いたが、下の人は出てこなかった。
俺はもう笑えなかった。
男は腰からナイフを抜いた。泥の中の銃も拾い、脚を縛った索へ向かった。
あれを切って、助け出すつもりなのか。
男と目が合った。
人間だった。当たり前だ。ずっと知っていた。
「どけ! そいつから離れろ!」
索の根元には、ドゥーガがしがみついていた。おばちゃんの食堂で、いつも二杯目を頼むオークだ。
切られたら、鉄犬が起きる。ドゥーガは、下敷きの人を見ていなかった。男の言葉も分からない。俺は弓を上げた。
爺ちゃんの弓だった。握りが、爺ちゃんの手の形に擦り減っている。
「
爺ちゃんの声がした。
何を獲る。あの人間か。勝ちか。ドゥーガの命か。分からなかった。
男が、銃を上げた。ドゥーガに向けて。
俺は、弦を引いた。
男の顔が見えた。若かった。怖がっていた。
「待て!」
人類語で叫んだ。
男が、一瞬止まった。こっちを見た。エルフの口から人類語が出たことに、驚いた顔だった。
川の声は、まだ続いていた。
索を締め直す槌の拍が鳴った。ドゥーガが引くと、鉄犬の脚がずれ、その下から悲鳴が上がった。
男の顔が、そっちへ跳ねた。銃口が、もう一度ドゥーガへ振られた。
俺は、放した。
男の胸に矢が立った。
「……マジかよ」
人類語のその一言が、聞こえた。男の膝が落ちた。
俺は、男のそばに膝をついた。助けようと思った。
矢を抜こうとして、やめた。人類の診療所の壁に、絵が貼ってあった。刺さったものを、自分で抜かないでください。
「おい」
人類語で呼んだ。
「おい!」
男は動かなかった。
「布! 誰か、布持ってないか!」
自分の外套を脱いで、矢の周りへ押し当てた。どこを押さえればよいのか分からなかった。診療所の絵には、その先まで書いてあったはずだ。読んでおけばよかった。
血が赤かった。人間の血も赤いことは、知っていた。
俺の矢だった。爺ちゃんの弓だった。
「リュカ!」
後ろから、抱きつかれた。
「やったぞ!」
「鉄犬を倒した!」
「勝った!」
肩を叩かれた。誰かが、俺を立たせた。
「待て。まだ——」
村から来たばかりのミロが外套を受け取り、男のそばへ屈んだ。俺はまた膝をつこうとしたが、背中から腕を回された。
みんな笑っていた。泣いていた。ミロは男の口元へ耳を近づけ、顔を上げて、首を振った。泥の中から
「リュカ!」
「英雄だ!」
「リュカ!」
人の輪に押されて、男の顔が見えなくなった。
俺は、嬉しかった。鉄犬を倒した。ドゥーガが生きている。作戦が当たった。
嬉しかった。
人を殺したのに。
そのことが、一番怖かった。
◇ ◆ ◇
その夜、食堂は騒がしかった。
おばちゃんは大鍋の前にいた。戻ってきた連中を数え、ドゥーガが怪我人を連れてくるたびに、卓を空けさせた。
俺の前にも、肉の皿が置かれた。
「食べられるか」
「……あとで」
おばちゃんは皿を鍋のそばへ戻した。俺は、冷めた肉を見ずに済んだ。
酒が出た。親方まで機嫌がよかった。
「見たか!
「最後に飛んだの、俺だろ!」
「おいの〈蚊〉でな!」
「引いたんはオークやで!」
「歌がなかったら、拍の合わんかったとよ!」
誰かが歌い始めた。川の歌だった。ネリが食堂で歌っていた、帰る歌の歌詞だった。
エルフたちが、口笛で旋律を重ねた。
親方が、卓を拳で叩き始めた。
三小節目で、何人かの口笛が、揃ってわずかに跳ねた。倉庫で、ティルと工事の標識を取り合っていた連中だった。
親方の拳が、止まった。
「……ティルの節じゃ」
親方は、誰にともなく
拳が、また卓を叩いた。今度は、跳ねた口笛に拍が揃った。
オークたちが、低く唸った。鍋の前から、おばちゃんの声も重なった。
合った。今度は、崩れなかった。
「世界の最初の歌たい」
川マーマンの年寄りが、泣きながら言った。
みんな歌っていた。みんな笑っていた。
俺だけが、歌えなかった。
昼間、この歌で、鉄犬を湿地へ誘った。この歌の拍で、俺は弦を放した。
ネリは、この歌が一つになるところを、聞いていない。
「リュカ!」
ミロが、杯を突き出した。
「英雄!」
やめてくれ。
「ボル爺も喜んでるべ!」
分からない。
「歌姫も見てるぞ!」
やめろ。
「これで人類も懲りるだろ!」
「鉄犬だって倒せるんだ!」
腰の端末が震えた。セインからだった。
《ニュース見た》
《人、殺したのか》
返信の欄に、何も打てなかった。
親方が、杯を掲げた。
「勝ったとじゃろ?」
「違う」
自分でも驚くほど、声が通った。
食堂が、静かになった。
「なんじゃ?」
俺は、自分の手を見た。洗った。血は付いていない。それでも、赤く見えた。
「違う。戦争が始まったんだよ」
誰も、何も言わなかった。親方が、杯を下ろした。
奥の卓で、誰かがまた歌い始めた。一人が加わった。二人が加わった。口笛が重なり、拍が重なり、底が重なった。
歌は、俺の声よりずっと大きかった。
◇ ◆ ◇
第一次大森林戦争の開戦時期をいつとするかは、定かではない。
しかし現在、もっとも有力とされるのは、越境暦八十年六月十九日説である。この日、人類側警備員イーサン・ヘイルが死亡した。敵対者の意図的な攻撃による人類側最初の死者とされている。
一人の青年は英雄になり、創世神話の歌は、軍歌になった。
第一部「英雄の誕生、あるいは開戦」了