先祖返り半人外TS娘をいじめ抜く異世界生活24時   作:生後半年の猿

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第二話

 

 秋になった。

 

 世界は違えども四季はあるという事実に、毎年のようにほんのりと気を高ぶらせる。

 一番好きな季節は冬だが、その前段階にある秋も嫌いではない。

 枯れかけの草、落ちる枝、まるで秋トンボのような空を飛ぶ虫! 

 カナリアは麻の服の上に毛皮のケープを重ねて、そんな、夏の頃よりも色褪せた景色の中を歩いていた。

 

 服は子供サイズのシャツとズボンで、肌触りはあまり良くない。刈りたての芝みたいにちくちくと肌を刺激する。これだけは、正直きらいだった。

 けれどだからといって、生前のような仕立てのいい服が手に入るわけでもない。

 だから、どうしようもない。

 

 ……どうにかこうにか改善できないかと悩んだこともあった。たとえば生前の教育で得た知識をいい感じに捏ねくり回して、肌触りだけでも改善できないのかと。もしそれができれば両親を楽にできる収入だって得られる。一石二鳥だ。

 けれど、結局諦めるしかないと結論付けたのは、2年前。まだ彼女が5歳のころだった。

 

 服飾の知識──せめて歴史にあるような、表面上の触りだけでも知っていればまだ違ったのかもしれない。製法じゃなくてもいい。なんなら構造の知識だけでもいい。

 何かを知っていれば製法を逆算して、この世界の文明レベルでも実行できる改善方法もあったのかもしれないが……残念ながら、そういう方面には疎かった。

 これっぽっちも勤勉ではなかった過去の自分を少しだけ呪いながら、ぎゅっと踵を踏む。

 もう、将来の製織技術の発展に期待するしかないのだ。ちくちくちくちく苛まれながら、はぁと息を吐いた。息は、まだ白くならない。

 

「カナリア、疲れたの?」

 

 右手をひく母が、そっと心配そうに声をかけてくる。

 カナリアはそんな彼女を見上げて、首を横に振った。声は出さない。

 

 それから元気さをアピールするために、逆に母の手をひっぱるように前に出た。

 その手のぬくもりが分かりやすかったから、寒さのことは、決して嫌いにならずにいられた。

 

 

 今日、カナリアが母に連れられ訪れているのは村の市場だ。

 店舗が連なっている訳ではなく、幾人かが大きな布や台車のうえに商品を並べるだけの露店に近い。

 ひと月に三回ほど開かれる市場であり、基本物々交換でやりくりする村人達にとって数少ない貨幣を扱うイベントだった。

 ちなみに、この村は特産品である香料のおかげで、経済状況は比較的恵まれているほうである。

 

 今回買うものは食料品と、ちょっとした常備薬……いわゆる傷薬である軟膏が主目的だ。

 秋口に咲くサイキグサ──よもぎによく似た見た目をしている──と、若い鹿の角の破片を煎じて、氷が混じった霊水を練り込んだものらしい。

 それは切り傷や青痣、そして火傷にも効くと評判だった。カナリアも、何度かお世話になった記憶がある。

 些か値は張るが、庶民の手では届かない、という程ではない。保存も効く。一家に一瓶は常備されているものだ。

 

 カナリアはわんぱくな少女に育った。

 それこそ女の子と言うよりは男の子のそれだと、村の中で時折囁かれているのを知っている。悪気を含んだものではない。むしろ微笑ましいものを見るように、将来が楽しみだと笑われていたのだと。

 別に、悪い気はしなかった。

 

 対し、母は。

 そんな、女の子らしくない我が子の振る舞いには少々思うところはあった。しつけを間違えたのかもしれないと。

 けれど──しかし、わんぱくでも、健やかに育ってくれるのなら、それでも良いのではないかと胸を撫で下ろす自分がいることも自覚している。

 それはカナリアが知らないことだけれど、別に、知らなくてもいいことである。世の中は、日常は、それでもいい具合に回るものなのだから。

 

「……そうね。ここまでおおきくなってくれたのに、それ以上を望むのは欲深いことなのかも」

 

 歩く鼓動に合わせて揺れる金髪の毛先を視線で撫でて、柔らかく笑った。

 

 ……子どもの死亡率が非常に高いから、という前提もあったからかもしれない。

 

 カナリアの前世における中世──たとえば、12世紀頃の欧州となんら変わりないほどだ。

 5歳未満で亡くなる子供が2割程度と言えば、その悲惨さもよく分かるだろう。

 だからこそ、何も言わずに村の外に出ていくわけでもない、可愛げのあるやんちゃには目を瞑ろうと、軽くて重い溜息を吐くのだ。

 母は、自身の願いが高望みであることをよくよく知っていたし。別に、幸せに育ってくれるのならそれでよかった。十分だ。

 

 

 そんな道中、ロザリーはふと視線と足を止めた。

 向き先は露店、きらきらと光る装飾品が並べられている。宝石を使ったものではないけれど、ちょっぴり値段が張りそうな品々だった。

 

「……珍しい。装飾品を入荷したのね」

「おや、ロザリーさんじゃないですか。ええ、たまたま修行中の職人さんがこの村を通りましてね。これも何かの縁だからといくつか買わせて頂いたんですわ」

「へぇ……この村を通るなんて珍しいわね。西の帝国への旅中かしら」

「おそらくは。帝国の方では独特な技法で作るネックレスが有名だそうですし、それが目当てかと」

「にしたって、わざわざ国をまたぐなんて……その職人さんは随分熱意のある方なのねぇ」

「そうですねぇ。こんな村に住まう商人の俺ですら名前だけは多少知ってる人ですし……たぶん、都のほうでもそれなりに高名な方でしょう」

 

 しまった、とカナリアは臍を噛んだ。

 母は話し込み始めてしまうとずいぶんと長くなる女性だ。たまの買い物についてきた際に、よく遭遇する場面だった。

 主婦仲間、その夫、ご老人方や店主にエトセトラ。話す相手には事欠かない。

 子供の視点から見たらもう、つまらないったらありゃしなかった。

 

 けれどそれを知りながらも、カナリアにできることなんて何もない。

 悲しきかな、子供は無力である。

 

「……あぁ、カナリア。あそこにいるのはアイラさんのお子さんじゃないかしら? せっかくだし顔を見せていらっしゃいな」

 

 ……ただ、今回ばかりは天がカナリアに味方したようだ。

 ぱぁっと表情を明るくして、母が指さした先にいる少年──ダリルめがけて走りだした。

 

 

 ダリルは同じ村に住む、ちょっとだけ小生意気な少年だ。今年で9歳、肉体的な意味では2つ年上。

 人生2周目のカナリアとは違うごくごく普通の子供で、年相応の無鉄砲さと、わがままさがある。

 髪も茶色で、この国で最も一般的なもの。そうじて凡人。言ってしまえば無個性。

 ただ、その青い目だけはキラキラと輝いていて、不思議と目を惹く色合いをしていた。

 

 カナリアはそんな彼のことを、意外と気に入っている。

 たぶん、年齢を合計して三十路となる彼女は、うんと年下の彼のことを弟のように思っていたのかもしれない。

 ……まぁ、日頃の行いは……正直なところ、まるで大人と呼べるものではないのだが。

 とはいえ、精神は肉体に引っ張られるし、環境の影響を受けずにはいられないものだ。だから仕方のない、本当に仕方のないことである。

 

「うわっ……って、カナリアかよ。なんだよ、急に走ってきたからびっくりしたじゃねーか。おばさんはどうした?」

 

 白けた顔で指先を放り出す。

 その向き先で大凡の理由を理解したようで、ダリルはまたかとため息を吐いた。

 

「……まぁ、おばさんは本当におしゃべりが大好きだからなぁ。この村の女の人は大体そうだけどさ──だからといってこんなに小さいカナリアをほっぽり出すのもどうなんだよ、ほんと」

 

 なんて、何処から目線なのかも分からない愚痴を垂れ流して、一息。

 ナチュラルに小さい子供扱いされたカナリアはダリルの足をげしげしと蹴り飛ばしていた。カナリアにとって、ダリルこそが保護すべき子供だったのだ。

 互いが互いを保護すべきものとして見做しているゆえのすれ違いはいつも通りの光景で、しかし、だからこそこの二人の交流はよい形で回っている。

 それを誰よりも理解しているのはロザリーであり、ダリルの母アイラであった。

 

「ま、いいや。それで、カナリア。ロザリーおばさんが満足するまでどうしてようか。一緒にゴードンおじさんの所に行くか? なんか食わせてもらおうぜ」

 

 ゴードン。この村唯一の薬師だ。

 市井に出回るような薬であれば大概作れてしまう、とても優秀な薬師であった。

 彼であれば都でも十分食っていけるだろうに、物好きなやつだ──とは、この村の長の言葉だったか。

 

 ともかく、そんな彼は子供に甘い。ダダ甘だ。

 ダリルやカナリアが急に遊びに行っても大喜びで相手してくれるほど子供好きで、二人は頻繁にお菓子をねだりに行っていた。

 とはいえ、年長者としての自負があるカナリアは定期的に仕事の手伝いをして、お礼を兼ねた媚売りを欠かしたことはない。

 薬研のような道具を手入れし、家の前を箒ではらい、風を吹いて換気をして……。たぶん、大体子供の手伝いレベル。ほんのちょっとの気遣い。

 けれどその"ちょっと"こそが大事なのだと、カナリアは確信している。

 

 ……こういう村社会において持ちつ持たれつを怠ったものがどうなるのか──なんて、生前の偏見から警戒していたのもあるけれど。

 実際、その子供らしからぬ気遣いは効果を発揮している筈だ。なぜなら、貰えるお菓子が増えたから。普段ならばクッキー4枚のところ、なんとクッキーを6枚も! 1.5倍だ! 

 ……が、もし仮に何もしなかったとしてもゴードンの扱いは変わらなかったろう。

 ゴードンは子供に親切にされたいから親切にしているわけではなく、ただ、子供が好きなだけだったから。

 

「うし、じゃあ決まりだ。ほら、手を握って。もしカナリアが迷子になったら俺がババア──母さんに殺されちまう」

 

 言って、ダリルはブルリと震えて見せた。

 やはり保護者ぶってるダリルが少し気に入らなくて、カナリアはもう一度足を蹴り飛ばした。すこーんと、いい音が鳴った。

 

 

 ◇

 

 

「気ぃつけて帰れよ。流石にこんな村で人攫いなんてねぇだろうが、野犬が紛れ込まないとは限らん」

「分かってる、ありがとおじさん」

『ありがと! 砂糖がここまで普及してる世界に感謝!』

「おう、カナリアも嬉しそうでなによりだ。次は都で流行ってるらしい……あれだ、なんかのいい感じの菓子をいい感じに作ってみるから、出来たらまた来い」

 

 ゴードンお手製のお菓子をたらふく食べてしっかり楽しんだ後、ロザリーは既に世間話を終えて買い物まで終わらせていた。

 とくれば、カナリアもそこに合流して、お手々を繋いで仲良く帰宅──となるのがあるべき流れだろう。

 

 しかし、カナリアはまだまだ遊び足りなかった。

 せっかく生前の不自由な義務や義理から解放されて得た2度目の自由だ。

 とことん味わい尽くしたいと願うのは仕方のないことである。

 

「まぁまぁ、カナリアったら……仕方ないわね。でも日が落ちきる前には帰ってくるんですよ。さもなくば……そうね、一ヶ月ぐらいは私の抱き枕になってもらおうかしら」

 

 そんな母の言葉に勢いよく頷き、平たい胸を張った。

 生前の年齢も合わせたらいい大人だ。

 社会人の基本の基である時間管理を今さらしくじるなんてしようはずもない。

 

 だから元々、何があっても遅れないという自信はあったが……その上で、決して遅れまいと固く決意した。

 いくら相手が生前における異性──つまり女性とはいえ、近しい血縁関係のあるひとに興奮するほど拗らせてはいない。つまり、単純に恥ずかしい。

 

 少なくとも、空が赤くなる前には自宅に足を向け始めたいところだ。

 あいにく、カナリアはメロスではない。太陽よりも速く走るなんてできっこないのだから、余裕を持った行動が大切だときちんと理解している。

 

「それじゃあダリルくん、申し訳ないけど……」

「大丈夫ですよ、カナリアには絶対怪我させないように気をつけますから」

「本当にごめんなさいね。今度りんごパイをカナリアに持たせるから」

 

 なんて、保護者と保護者気取りが言い合うのを尻目に。

 まったく、実際面倒を見るのは自分なのにと嘆息した。

 走って転びそうになったときに咄嗟に助けてやるのはカナリアだったし、紛れ込んだ野生の獣が近くにいるときに先んじて警告するのもそうだ。

 

 とはいえ、それ以外の……細かく水を飲ませてやるのはダリルの役目だったし、大人達の決まり事で近付いてはならない場所から遠ざけるのもダリルの仕事だった。

 総じて、互いの死角を埋める仲といって間違いない。

 ある種、健全な幼馴染の関係だった。

 それを得難いものだと理解するにはカナリアは幼年期に戻り過ぎていたし、ダリルはそもそもの人生が1周目だった。

 

 けれど、母はそれでいいのだと笑っていた。

 娘が健やかに育ってくれている。

 それ以上に望むものなど、何もないのだ。

 

 

 ◇

 

 

「カナリアはさ、将来どうすんの?」

 

 村の端っこ。

 枝木を工作して用意した弓を片手に、こっそりと狩りの練習をしている最中だった。

 

 ダリルがぽつりとこぼした言葉を受けて、カナリアは訝しげに首を傾げた。

 夕暮れまでそう時間はない。体力も尽きてきたし、もう少ししたらどちらも家に帰らなければならない頃合いだ。

 そんな時になって唐突に投げ掛けられた問いに、カナリアはふんすと鼻を鳴らすことで応えた。

 

「まだそんな事を考える年頃でもないってか? はー、カナリアって相変わらずノーテンキだなぁ。俺はずっと頭を悩ませてるっていうのに……」

 

 なんて、真面目腐った顔で泣き言を漏らすのを見ても、カナリアの表情は変わらなかった。

 カナリアの家はともかくとして──ダリルの家は代々農家だ。土を耕すひとびとの子は、同じく土を耕すことで生きていく。

 明言されていることではない、が……。

 

 暗黙の了解。そう、あくまでも暗黙の了解として、そういう流れがある。

 所詮凡庸な子供でしかないダリルに、その流れから抜け出す程の力はない。

 頭の回転はそれなりに優秀だが、飛び抜けてはいない。学は農民の子供の割にはある方だが、それだけ。街の子供には劣る程度。

 

 だから考えるだけ無駄なのだとカナリアは考えていた。

 たとえ生前の記憶があろうとなかろうと、その程度は子供にも理解できる事だとも。

 

 

 だというのにそんな事を言い出した、ということは。

 

『おれにもあったな。自分の未来は開けていて、何にでもなれるんだって思ってた時期』

 

 ただ、その青臭さは、鼻をつまむようなものではなかった。

 むしろ、懐かしくて、眩しくて。

 己の身の丈を理解していても、していなくても、世界が違っても、誰でも考えることなのだなぁと、深く胸の奥に沈み込むほどの、重たい納得があった。

 

『とはいえ、やっぱりそれを考えるのは早すぎんだろ。おれだってそれを考え始めたのは17歳のころだぜ? この早熟のマセガキめ』

「……俺はロザリーおばさんみたいにカナリアの言いたいことは分かんないんだけど?」

『知ってて言ってるんだよ、ガキンチョ』

 

 ぴぃ、と甲高い音が鳴る。猛禽の風切羽が空を泳ぐような、高く澄んだ声だった。

 それは複雑な音階を刻んでいて、聴きようによっては言語と捉えることもできたろうが、今のところそれを解したのはロザリーのみ。

 ダリルは未だに、ただ、綺麗な音だなぁと呆けるばかりだった。

 

 カナリアは意思疎通のできない今を都合よく扱いながら、背伸びしたがりのおませなダリルをくすくすと笑った。

 農民の子は農民。商人の子は商人。村長の子は村長。

 現代日本みたくあれやこれやと選択肢を押し付けられて、自由という名の重圧の下で必死に藻掻くよりはよっぽどマシだと思っていたからだ。

 

 自由。なるほど、とても素晴らしい物だ。人権意識万歳! 

 だけれどそれは、あらゆる選択とそれに伴う責任が全て自身に帰依することを意味する。

 カナリアは、それが嫌だった。

 

 つまり、根本的に面倒くさがりなのだ。

 先天的にはともかく、少年から青年になるにかけての時間で、根っこの部分から"あぁ、おれにはあれやこれや選ぶ自由は似合わない"のだという怠惰な思想に染まってしまった。

 

 ……だから将来のレールが引かれているダリルのことを羨んでいるし、僻んでいる。

 引かれたレールの先に苦しみがあるのではなく、ある程度の幸せが約束されているのなら、それにまさる贈り物などないのだと。

 

 決して、表に出すことはないけれど。

 

『別にいいだろ、適当で。何も考えずに、流れに身を任せるだけでも。人間万事塞翁が馬、なるようになるさ』

「……お前、絶対適当でいいとか言ってるだろ」

『おお、正解! よく分かったなぁ、カナリアポイントを3点あげよう』

 

 そういって、けらけら笑う少女を軽く小突く。

 少女も少年の脇腹を軽くくすぐってやり返して……しばらくそのやり返しを繰り返した。

 

 そんなことをしているうちに、もうすっかり夕暮れだ。

 早く帰らなければカナリアの尊厳は破壊されてしまう。

 だからいつものように解散の合図を出して……けれど道を分かれる寸前、ダリルはもう一度ぽつりとこぼした。

 

「なぁ、カナリア」

『……なぁに』

「おまえは、何になりたいんだ?」

 

 道端の木の枝を拾って、地面に文字を書く。

 刻んだ溝は、傾いた太陽のせいで広く太く滲んでいる。

 

『ないよ、そんなの』

「そっか。でもさ、あー……おまえはいい奴だけど……ううん、いい奴だからさ、やっぱり、おまえも将来何になりたいか、見つけたほうがいいよ。目指してみてもいいんだろ?」

『おれみたいなガキに言うようなことでもないだろ、それは。てかそもそも早すぎるんだよ、将来なんてものを考えるのは』

「そうか? いや、まぁ、たしかに気が早すぎるか……」

 

 なんて、子供ふたりは互いに呆れたふうの笑いを向けて。

 すれ違いながらも、幼い友情でふたつの心を繋げている。

 年齢、経験、性別。それらの違いはひととひとを分かつには十分な壁ではあるけれど、分かつべき壁というわけではない。

 目が合って、笑い合える。

 

 畢竟。子供の世界の理なんて、その程度があればいいのだ。

 

 

 ◇

 

 

 夕暮れ──というには半分ほど暗く染まった空を背に、カナリアは家のドアを勢いよく開いた。

 すぐに鼻腔をくすぐるのはたまねぎとじゃがいもの香り。村の近くの森で採れるハーブの香りもある。

 丁度出来上がったばかりらしく、父も既に食卓についていた。

 

『ただいまー! 今日のごはんなにー?』

「……おかえり、カナリア。少し遅かったわね? さ、こっちにいらっしゃい」

 

 キッチンに立つ母の後ろから手元を覗き込む。

 鍋で煮込まれているのはシチューだ。ミルクの香りがする。いくらか肉の切れ端も見えた。

 それとカチカチのパン。素の力では噛みちぎれないほどの強敵だけれど、シチューに浸せば中々いい味がするものだ。生前のフワフワのパンの方が好みだし、恋しくもなるけれど、今世のこれも意外と悪くないことも知っている。

 

 すこし機嫌を上向かせて深皿を手に取る。

 配膳ぐらいは手伝おうという健気な子供心だ。

 ロザリーも上機嫌に口角を上げながらシチューを注ぎ、お父さんに渡してあげてと囁いた。

 

『しょうがないなあ……おれもお腹減ってるんだけど』

 

 仕方なく父のもとに運んでやる。

 父、ローランは仕事終わりでひどくくたびれた様子だったが、カナリアの顔を見た瞬間、とたんに表情を明るくして、それはそれは嬉しそうに笑った。

 

「ありがとう、カナリア。お腹が空きすぎて死にそうだったんだよ」

『人はそう簡単には死なないよ。ま、仕事お疲れ様とだけ言っておこうか!』

「これは……労ってくれてるんだね? はは、いい子だね」

『くるしゅうない。もっと褒めろ』

 

 差し出した父の手に頭をグリグリと押し付けて、笑った。

 幸せが何かといえば、こういうことなのだろうと。

 カナリアは生前の記憶から、こういう時間の尊さを知っている。いつか無くなるものだと知っている。

 だからこその無邪気さであり、無垢だった。

 

「……カナリア。もう少しおしとやかに……いや、やっぱりいいか。まだ小さいものな」

 

 父の手は大きく、乾いている。

 力仕事には縁遠い細さで、しかし確かにある大人の男としての手のひら。

 ペンだこが髪に引っかかって、どうにもくすぐったい。

 

 だから笑って、笑いながら、今日のことを喋りだす。

 随分と長く複雑な音階で構成されていて、もはやロザリー以外には理解しきれない暗号に等しい。

 が、それでもローランには不思議と理解できた。

 

 言葉が分からずとも、顔を見れば分かることもある。特に、目は口ほどに物を言うものだ。

 あれやこれやと引き伸ばしたとしても、結局中身は極めて単純。

 ぎゅっと圧縮してしまえば、こんな一文で表現できる。

 

 つまり──"今日も楽しかった"! 

 ただ、それだけだ。

 

 

 ……そしてカナリアは、一ヶ月ほど母の抱き枕として過ごす羽目になった。

 

 


 

 

 優しい父と、少しだけ厳しい母がいて。

 ちょっぴり間抜けな幼馴染がいて。

 お腹が空くことはなくて、つまらないって不貞腐れることもなくて。

 だから、幸せだって思っている。

 

 

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