先祖返り半人外TS娘をいじめ抜く異世界生活24時 作:生後半年の猿
8歳になった。
7歳と8歳の差なんて大したことはない。と、多くの者が思うだろう。
たかが1歳。一つ違うだけ。
けれど実は、ただそれだけの違いが大きな差をもたらすものだ。
……と。そう胸を張って言えれば良かったのかもしれないが、カナリアはてんで変わっていなかった。
いや、背丈は伸びた。体の起伏もほぼ幼児の状態から少女のものに近付いている。
身体の動かし方だって随分上達したし、食べる量も増えた。順調に成長している。
だが、内面は。
そこだけは相変わらず、生前の頃からの妙に生真面目で、しかしいい加減な性格のまま落ち着いている。
カナリアの目的も依然かわりなく、足るを知って生きること。
その過程に必要なこととして、異世界の生活に馴染む努力を続けていた。
どうせ期間限定なのだから、今踏ん張るくらいどうってことない。なんて自分に言い聞かせながら。
だから、何も変わっていない。
朝起きて夜に眠る。その間にある形而上の日常を、幸せと定義するのに不足はなかった。不足はなかったから、それだけで何もかもが素晴らしいのだ。
「カナリア」
『なぁに?』
母が呼ぶ。それに、甘えたふうの声を返す。
時は夕暮れ、いつもの食卓。
平熱の日々を彩る家族は、今日も慎ましく、穏やかに暮らしていた。
それなりに大きな喜びと、まぁまぁ激しい怒りと、そこそこ深い悲しみと、ほんのりとした楽しみ。
カナリアはそんな日々に満足していた。
両親も、たぶん大体そうだ。
けれどもやはり、人は欲張ってしまう生き物で。
とくに母は、母であるが故に、欲張らなければならなかった。ある種、人としての在り方に真摯に沿っているといってもいい。
「今日も言葉の練習をしましょう。今はまだ私があなたについていられるけれど、それだって永遠じゃないんですからね」
『うげぇ……めちゃくちゃ面倒くさーい』
「嫌がるんじゃありません! ほら、ダリルくんともお話してみたいでしょう? 他の村の子供達だってあなたと話したがっているのよ? じゃあやることはひとつ……そうでしょう?」
『うへぁ……』
渋々といったふうに、頷きをひとつ。
食後の特訓が決まってしまった。
すっかり膨れた腹を抱えてご満悦といきたかったところなのに、ひどい話だ。
食器を母に渡して、カナリアは項垂れ机に頬を押し付ける。
初夏の熱は既にほんのり家屋の中まで染み込んできていて、じっとり汗が滲んだ。
たぶん、頬を上げればそこには丸い汗のあとが残っていることだろう。
「まぁまぁロザリー、そんなに焦らなくたっていいじゃないか。カナリアはまだまだ小さいんだし──」
『お、おとうさん……!』
「ローラン! 人の言葉を話せない状態で過ごす数年がどれほど重いのかちゃんと考えたの!? 子供の一年は私達の一年よりも遥かに大切なのよ!」
「いや、それは、まぁ……」
「それすら分からないようなあなたは黙っていてください! 本当にカナリアのことを想うのなら!」
「はい……ごめんね、カナリア……僕は無力だ……無力で臆病者な弱虫ローランなんだよ……」
『おとうさん……』
こうしてカナリアは、やはり人の言葉を発するための練習に励むはめになってしまった。
ここ数ヶ月、春になったころから定期的に行われていたことだけれど、近頃は特に頻度が多い。
もちろん、母親としてわが子の将来を心配してのことだ。
カナリアはそれをきちんと理解している。
しかし正直、ひどく億劫だった。
だって本来、カナリアの喉はそういうふうにできていないから。
これは概念的な話ではなく、物理的な構造の話だ。
カナリアは感覚的に、生前の己と今世の己の肉体的な違い──性別が違うのとは別で──物理的なハンデがあると自覚していた。
"あ"という音を発するために一々どうやってなんて考える必要があるだろうか? この音を発するには喉のこの部分を狭めて、こういう風に震わせて──などと考えるべきか?
いいや、考えないべきだ。赤ん坊ですら母音を出せるというのに、カナリアにはそれすらかなわない。
故に、人としてあるべき前提すら破綻した時点で、カナリアは己の身の程を弁えてしまった。
諦めるほうが自然で、真っ当なのだと見限って。
足るを知るという生前からのスローガンを、空高く掲げてしまった。
だから、億劫なのだ。
やりたくない理由がある。
けれどやるべきだという母の通理も通っていたから、頭ごなしに拒絶できない。
人間社会、社会通念。
閉鎖的な村社会では特に軽視できないもの。
だからやるしかないのだが──腰が重くなるのは、まったくもって仕方がない。
この身体は若いはずなのになぁ、なんて。
誰にも理解されない言葉でぼやいて、母の隣に席を移した。
◇
『でさぁ、それが面倒で仕方がないったらありゃしない』
「うんうん、カナリアも頑張ってんだな……。俺には分からないけど、大変だって事は理解したよ」
『なんか投げやりじゃない?』
「気のせいだろ。疲れてるんじゃね?」
『そうかな……そうかも……』
翌日の昼。ダリル宅にて。
今日は比較的涼しかったから、昨日よりは元気にぴぃぴぃと声を鳴らした。
とはいえ意味は勿論通じない。故に今、どうやって意思疎通をはかっているのかといえば、筆談だ。
隣の家のジャックおじさんに作ってもらった木板と、持ち手つきの木炭。
現代基準では随分原始的な筆記用具だったが、意思疎通には事欠かない。ましてや言語によるコミュニケーションができない不便を思えば、今のこれの素晴らしさたるや。
書いて見せるという手間はあれども、しかし慣れてしまえば存外そう気にすることでもない。
しかも書けば書くほど筆記の習熟も進んでいくのだから、カナリアは意外と筆談を気に入っていた。
もっとも、文字を書く速度がはやくなっても、綺麗さはまるで成長しないのだけれど。
「でもさ、ロザリーおばさんが言うことはもっともだと思うぜ。そりゃこの村の人達はみんなカナリアの事情を知ってるけどさ、でも筆談より言葉での会話のほうがスムーズなのに変わりはないし」
『正論で刺すなよ……』
「だってこれぐらいしか言えることないし……」
ぐぅの音も出なかった。二重の意味で。
齢10歳のダリルですら弁えている通理のせいで、ロザリーの言葉の正しさがより一層補強されてしまう。
……カナリアだって、完全に無知な子供ではない。
ロザリーの正しさは理解していた。分かってはいるのだ。
けれど、今世の喉はどうやっても人の言葉を話せないという事実があって。
その事実の前に、そもそもカナリアはまっとうな産まれではないという前提がある。
たぶんそのせいだ。だから仕方がないじゃないか、という言い訳を立てられる。……だから、言い訳をしたくなった。
やればできる、という保証があれば別にいいのだ。
努力や工夫次第でできた、という前例があればなおいい。
誰かが歩いたあとの足跡を必死に踏んでいけば、それで何とかなる筈だから。
だけどカナリアは、そのいずれかのひとつでも教えてもらったことはなかった。
そもそも、このような──産まれた場所が違えば忌み子とすら呼ばれたろう幼子は、他にいたのだろうか。
分からない。カナリアは何も知らない。
そんなふうになにもかもが曖昧だというのに、暗中を突き進む今。
あるべき通過点は分からない。道を照らす燈台もない。懐中電灯が無性に欲しくなる。
……生前の世界なら、ものにはよるけれど誰しもが懐中電灯を持っていた。
老いた先人の言葉、図書館の蔵書、インターネットによるワールドワイドな集合知。
今の世界とは、まるで違う恵まれ具合だ。
ともかく、そんな無い無い尽くし。
だから……そう。あまりにも、面倒だった。やる気がでない。つまらない、と言ってもいい。
面倒で退屈で苦しくて、全部投げ出したくなる。ただの子供のように。
「カナリアの言いたいことは分かるよ? 分かるけどさぁ……」
『分かるけど、なんだよ。はっきりしろよおめーはよぉ』
もごもごと口を噤むダリルにちょっぴり鋭くなった視線を向けて──それを遮るように、横からカップが差し出された。ゆらゆらと湯気が立っている。乾燥させたサイキグサで淹れた野草茶だった。
「カナリアちゃん、はっきりしない息子でごめんねぇ。こいつはあなたと話したいだけなのよ」
「ちょっ、母さん!?」
「なんだい、あんたがウジウジ黙って理由を言わないから代弁してやったんでしょーが! ありがとうございますお母様、ぐらい言えないのかいこのダボが! マヌケ! アホンダラ! 雑魚めが!」
『アイラおばさん待って! そんなに強くダリルの頭を叩いたらバカになります!』
「えー、いいのよこのぐらい! そんなにやわな育て方した覚えはないもの! ね、ダリル? 大丈夫ですって言いな」
「はい……全然大丈夫です……な訳ねぇだろうがこのババア……!」
「ほら大丈夫だって! なんならカナリアちゃんも叩いていいのよ?」
『遠慮しておきます……』
からから笑うアイラに作り笑いを返して、ダリルに憐れみの目を向ける。
それに対し、ダリルは不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。その仕草にすら憐れを向けるしかできなかった。
「ま、アタシから言えるのはダリルのバカがあなたと話したがってるっていう事実ぐらいね! ロザリーの教育方針には口を挟めないし!」
『そうですか……』
「あのさ、カナリア? ババ──母さんの言う事は気にしないでいいからな、ほんと。この人雑だし。適当でガサツだし、大体出任せだし」
「あ? なに、あんた……喧嘩売ってんのかい? 悲しい、悲しいよアタシは……お母さんはアンタのためを思って口を挟んでやったっていうのに……およよ」
「うわっ、それキッツいぜ母さん。クソみてぇにゲロ吐きそう。本当に、本当に恥ずかしい……よくカナリアの前でそんなのできるな? 年考えたら? 今いくつだっけ? え? 28歳? うっわーほぼ俺の3倍じゃんヤバすぎだろ」
「んだと……この……マセガキが……!」
「もう更年期?」
「チッ……あっそうだカナリアちゃん! この子ったら昨日ね、ゴードンさんのこわーい作り話を信じてさ、ひとりでトイレに行けなくて──」
「おい……! その口閉じろよ……この……クソババアが……!」
『この親子、本当にそっくりだな。これが遺伝ってやつかぁ』
ぴーひょろろ。文字にせずにひとり鳴く。
たとえ世界が違っても、親子の形はそう変わるものではないのだとなんとなく伝わってきて。
口の悪さは──少しばかり表現に困るけれど、とにかく。
たぶん、カナリアは安心したのだ。
そういえば生前の友達の家もこんな感じだったなぁ、なんて。
記憶の輪郭をなぞる粗熱が、懐かしく思った。
「もういい、こんなとこにいられるか! カナリア、外行こ外!」
「ハッ、少しは舌の切れ味を磨いてくんだな口論弱者のバカ息子! 今日の夕飯は山羊のシチューだからしっかり腹すかせて帰ってきなよ!」
「母さんはちゃんと歯ぁ磨いとけよ、黄ばんでる歯がチラチラ見えてんぜ! あとシチュー了解!」
「やっぱ帰ってくんなカス息子!」
「うっせークソババア!」
『仲が良いのか悪いのか……』
……まぁ、少なくとも悪くはないのだろう。
愛と呼ばれる不定形の熱は、確かにそこにあって。
悪意のように棘々した毒がそこにないのは、疑いようのない事実だから。
人のことばを発することすらできないくせに、分かってくれると思ってる。
そう思えるほど、君は恵まれているから。