先祖返り半人外TS娘をいじめ抜く異世界生活24時 作:生後半年の猿
──幸福だった。満たされていた。
カナリアの日々は、青々と繁る草木よりも生気に満ちて、穏やかで、生温い陽だまりの平熱に彩られていた。
母がいる。ロザリーは厳しくも優しく、人の言葉を教えようとしてくれる。
父がいる。ローランは家族を守るために筆を執り、来る日も来る日も物語を紡いでいる。
友がいる。ダリルは将来のゆく道に悩みながらも、青臭い青春を謳歌している。
近所のおばさん、顔見知りのおじいさん、薬師のおじさん、カナリアよりもなお幼い子供。
誰も彼も善性のひとで、異端の子供を、カナリアを、ただの子供として扱ってくれている。
カナリアは、その人の輪の中で続く日常を、きっと誰よりも愛していた。
けれど、カナリアにとっての大切は──決して、他の誰にとっても大切であるとは限らなくて。
誰かと誰かの価値観は、等号で結べないから。
日常が好きな人がいれば、非日常を求める人がいる。
普通を愛する人がいれば、異端に溺れる人がいる。
そんな無知によって齎された結果を失敗と定義したのなら、たぶん、今日までのカナリアはこの世の誰よりも無様な失敗をおかし続けていた。
いっそ、取り返しがつかないほどに。
◇
その日はきーんと耳を刺すような……凍えた風が吹きすさぶ、寒い日だった。
暦上は春になっているはずなのだけれど、冬のように空気が冷たい。
そんな中でもカナリアは、いつもの日常に溺れていた。
ロザリーの見送りを背に、村に出て。
ダリルと合って、くだらない遊びに興じて。
アイラに挨拶をして、冷たい果実水を飲んで。
ゴードンの所に顔を出して、菓子をねだって。
それから村の端っこで追いかけっこをしたり、枝と枝をぶつけ合ったり、ただの子供のように遊び呆けたあと。
それから話の流れで、今日がカナリアの誕生日だとダリルに教えてやれば、もっと早くに教えろよと小突かれて。
誕生日プレゼントは何が良い? なんて聞かれて、なんだか気恥ずかしくて誤魔化すしかできなかった。
そんな、何気なくて愛しい時間。
ちょっとだけ特別だけれど、根っこは昨日と同じだ。
明日も同じになるはずだった。
ずっとずっとそうなるはずで、そうなるべきだった。
太陽はちょっとずつ西に傾いていて、もう少しで地平線の縁にある森の中に隠れてしまいそうな頃合い。
『……空が、赤い?』
最初の変容に気づいたのは、カナリアだった。
背の低い草むらに寝っ転がりながら空を仰いでいた少女は、ぴぃと鳴き声を漏らした。
夕暮れの赤だろうか、と納得しようとした。
けれど、その割には色が濃かった。
誰かが何かの魔法を使ったのだろうか、と理由を作ろうとした。
しかし、この村に魔法を使える人間はカナリア以外にいなかった。
では、一体何故──?
右の空を見る。赤くない、普通の青だ。
……元の空を見る。赤い、真っ赤だ。
それに雲すらなくて、だから透き通るような綺麗な赤色になっていて。
すっと目を細める。
黒く、不気味な煙が立ち上っている。
──そこまで見えてようやく、ばちりと知識が繋がった。
『火事、か……!?』
「えっ、なに!?」
瞬間的に我に返った。それと同じ速度で体を起こす。
すると、すぐに。轟々と、赤く灼ける熱が振り注いだ。
村の端っこだというのに、喉が渇く。
舌の付け根は乾燥していてぴりぴりと痛んで仕方がない。
『……火事、なのか? これが?』
燃えている。真っ赤にぎらぎら燃えている。
今まで見たことがないほどに熱く、暑い。
こんなに空が灼けるほどの火があることなど、生前を含めてすら。
「か、カナリア……変、変だこれ。こんなの、今まで一度も……!」
隣でダリルが震えている。まったくの未知を前に、カナリアの袖をつかむことしかできない。
普段は生意気な子供のように振る舞っていても、カナリアの兄貴分のように振る舞っていても、結局ただの子供でしかないのだから仕方がないのだろう。
しかしカナリアにも彼を気遣う余裕などなかった。
ただ、ただ、身を焦がす焦燥感に苛まれて、認めたくない現実を直視するしか無かった。
『──帰らないと』
思考は止まりかけ。けれど身体は勝手に動く。
よたよたと一歩を踏み出して、震える肩を自覚する。
怖い。
その感情は確かにカナリアの心の真ん中に居座っていて、決して揺らがない。
けれどそれ以上に、まだ村に居るはずの両親が心配だった。
『走れ、ダリル。何だか分からないけど、何ができるのかも分からないけど』
生前。その経験値。
それを加算してもなお幼いままに留められた精神で、ちっぽけな浅慮に突き動かされて。
その結果がどうなるかなんて、この時のカナリアはちっとも考えていなかった。
『と、とにかく……帰らないと。手遅れになる』
◇
走る。走る。走る。
村の端の広場から真ん中へ。
カナリアの家は広場とは真反対の位置にあったから、最短ルートはそこを通ることだった。
また、決して、ついでというつもりはなかったが、道中にダリルの家もあったから、その道以外の選択肢はなかった。
煤に塗れた黒い道、砕けた木炭、つんと鼻の奥に刺さる何かの香り。
進む先を挟み込むそれらをかき分けて、必死にダリルの手を引いた。
視界の端に常に入り込む炎に包まれた家屋は、ただ走る道を強調するだけの補助線に成り下がっている。
それに、火をつけた下手人の姿は見えない。
いくら街には劣る規模でしかない村とはいえ、人口はそれなりにいて、建物だって相応の数があった。
その尽くに火をかけるのなら犯人の人数は相当に多い筈だった。
だから不気味だったけれど、カナリア達が今も生きている理由はそれのおかげでもあったのだろう。
……彼女達とは逆に。
不運にも遭遇して、そして命をかけて抵抗しただろう村人の姿は、たしかにそこらにあったけれど。
もはやそれらに意味はなく、カナリア達に絶望をもたらすだけの舞台装置に成り下がっていた。
なぜなにどうして、なんて今は考えない。思考が介在できるほどの余白が、どちらの脳みそにもなかったからだ。
そいつらはいつの時代も、嵐が過ぎた後に手を伸ばせる贅沢品だった。
そうして、走る最中。
しばらく無言だった二人の目の前に、またひとりの骸が現れた。大きい骸だった。男のひとのものだった。
……カナリアは、それを無視するつもりだった。
もちろん、興味がなかったとか、完全に視野の外だったとか、そういう理由ではない。決して、そんな浅ましい理由なぞ掲げはしない。
ただ、今は──今だけは余裕がない。余白がない。余力がない。ないないないない、何もかもが足りてない。
今この瞬間に他者に意識を向けるだけのリソースが無かったから、なんてあまりにも普通すぎる理屈だけがあった。
哀れみはする。悔いもする。限界を追求してもそこまでだ。
そんな、普通の理屈だった。
ただ、子供のそれというには──少しだけ大人に寄りすぎていたけれど。
カナリアは忘れていたのだ。己が手を引く少年が本当に普通の少年であることを。
かつては人生一周目だの弟分などとほざきながらも、この瞬間は中途半端な愚者に退化していた。ある意味、当たり前の帰結を予想できないほど。
──だから、ダリルがその骸を目にして足を止めた時、かっと頭に血が上ってしまったのだ。
カナリアは"彼"にただの骸だというラベルを貼って、必死に誤魔化していたのに。
「カナリア! あれゴードンおじさんだ! 助けないと!」
『……っ! いいから走れ!』
「待てよ、手を……っ! 何で止まらないんだ!? あれが見えてないのかよ!?」
『このバカ……! お前こそ何で見えてないんだよ!? あれは……あの人はもう……!』
対するダリルも、やはり怒っていた。
彼の視点から見たカナリアは恩知らずのバカに見えたのかもしれない。
それは子供の視点から見て、つまり先々を見通せるほどの背丈を持たない小さな人間から見ての解だった。
けれどカナリアは中途半端に先々を見通せる程度の背丈はあったから、愚かな小さい彼を連れて行こうとしていた。
そんな、すれ違い。
ぶつかったなら互いに歩み寄って分かり合うべきなのに、分かり合えない。
だって、言葉が決して通じないから。故に心も同じように。
もはや物言わぬ物に成り果てたそれに対して、ダリルはまるで見知った者に手を差し伸べようと足掻いていた。
カナリアは鳴き声を上げて逆の方向に手を引っ張っていた。
……本当に、あんまりにも無益だ。だれも求めていないすれ違いだ。
だけれど、だから、互いの色に気付かないまま。
『いいから、走れ! お前も──お前は、まだ生きてるんだろうが!』
「待て、待てって! なんでそんなに……!? カナリアだってゴードンおじさんが好きだったろ!? 忘れたのかよ、あの人はいつも俺たちに優しくしてくれただろ!?」
『この、分からず屋が!』
風を吹かせる。
怒りのままに空気を吐いて巻き取り、ダリルを絡め取って。
──ぷつりと、子どもの柔肌に裂傷が生まれた。
『あっ……』
だからカナリアは、そこで吐息を止めてしまった。
傷つけるつもりは、欠片もなかった。本当だ。
それだけはカナリアにも誓えた。天に誓ってもいい。神にだって誓える。あるいは、最愛の両親にも。
……けれど、現実では流れ出る血があって。
その赤が視界に映り込んでしまえた事実に、がつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
「カナリア、お前……!」
『お、おれ、そんなつもりじゃ……』
「何なんだよ、何がしたいんだよお前は! 何か喋れよ! ぴぃぴぃ囀るだけじゃ何もわかんねえんだよ!」
『ち、違うんだ。まってよ。ねぇ、おねがいだから』
狼狽えて、縋って。
離れそうになる手を精一杯握りながら、それでもと引き続ける。
今この瞬間にも火の手は回っていっているのだ。
村は着実に滅びに向かい、人々の命が失われてゆく。2人の子供を置き去りに、時間だけは平等に流れていく。
普段ならそれを咎めていたはずの
だからカナリアは必死に言葉を紡ごうとした。
今この場に、冷静な──表面上だけでも冷静なように振る舞えるのは自分だけだと思っているからだ。
けれど、通じない。
人は人の言葉しか聞き取れない様にできているから。
人は、人としか心を通わせないから。
「お前なんか──!」
だから、仕方のないことだ。
こんなこと、生前にもよくあることだった。
◇
ころ、ころ。小石を蹴る音がする。
ずる、ずる。何かを引きずる音がする。
決定的な最後の言葉を放たれる直前、第三者が2人の間の空気を割いた。
「あ、んたら……無事だったんだね。良かった……主よ、あぁ……!」
『……アイラ、おばさん……』
「母さん……! 良かった、無事だったんだな!?」
カナリアは深く、本当に深く安堵のため息を吐いた。
それを横目に、ダリルは少しだけ気不味そうに顔を歪めている。それからそっと手を離して、アイラに駆け寄る。
……果たして彼は、少女の顔に刻まれた罅には気付いたのだろうか?
アイラもそんな2人の微妙な空気には気付いた様子だったが、触れない。……彼女にはそれよりも、優先すべき義務があった。
「……いいかい、落ち着いて聞きな、質問は許さないよ……まずはとにかく、ここの通りの隣を通って真っ直ぐ村の中を突っ切るよ。すると村長の家があるから、そこの地下に隠れるんだ。いいね? こういう時、自警団員以外の生き残りは全員そこに向かう決まりになってる」
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ母さん!」
「質問は許さないって言ったでしょうがバカ息子ォ!」
「ちがっ、違う! ゴードンおじさんを助けないと! ほら、あそこに倒れてる!」
そう言ってダリルは少し離れた場所に倒れたままのゴードンを指さした。
てらてらと、真っ赤な炎に照らされて姿がぼんやりと浮かんでいる。
ダリルはこの期に及んでもまだ、ゴードンが死んでいることに気付いていなかった。あるいは、気付きたくなかったのだろうか?
日常の中にいつもあった男が既に死んでいるなどと、信じたくなかったのか。
信じられないではなく、信じたくない。
……愚かだと笑う者もいるだろう。
馬鹿な子供だと冷ややかな目を向ける者だっているだろう。
けれど真実、ダリルにとって、彼は欠けてはならない誰かだった。
だから、縋らずにはいられなかったのだ。
『……おばさん、おれ、おれは……』
悲しげに、細い鳴き声をあげるカナリアを見て……アイラはほんの僅かな間、天を仰いだ。
出会い頭の一瞬、カナリアとダリルの間にあった、はち切れる寸前のロープみたいな空気。その理由。
ゴードンという男の行動原理。他人の家の前で倒れている理由。……家主は、子供が産まれたばかりの夫婦だった。
「……ゴードン。そうかい、あんた……あんた、頑張ったんだねぇ」
筆舌に尽くしがたい2種類の毒を一瞬で飲み干して、解毒できないまま。
それでも二本足で立つ地の感覚を頼りに、腹にぐっと力を込めた。
アイラにはやる事がある。
夫に先立たれ、故郷を焼かれて、昔なじみを失い、降り積もる炭と灰に埋もれゆく中にあっても。
それでも残ったもの──この2人の子供を、生かさねばならない。
何があっても、何をしてでも。
今更──死者にかかずらう暇など、寸分たりとも存在しない。
(恨んでくれても構わないよ、ゴードン。……いや、あんたならむしろ、是非そうしてくれって背中を押すか)
黙祷は一瞬。ほとんど瞬きに等しい祈りだけ。
アイラはダリルに向き合って、一度だけ強く抱擁した。
「……ダリル、人には、誰しも役目がある。自分で、自分自身で……"これをやってから死ね"と課する役目がね。そしてゴードンは、それを果たしたんだ。今のあんたに……あの姿を否定する権利はないよ。もちろん、アタシだって」
ひどく達観した響きの、重苦しい言葉。
呪いのように深く、祈りのように一途な。
……アイラは、自らがそのような言葉を吐けた事実に、誰よりも驚いていて。
だから、あぁ……そういうことかと納得した。
言葉とは、何を言うかではない。
誰が言うか、である。
理解も共感もない言葉に重みなどない。それこそ、我が事のような、経験に準ずる純度がなければ。
であるならば──。
──アイラは、鼓膜を揺さぶる音に、この場にいる誰よりも早くに気が付いていた。
足音が近付いてきている。鉄がこすれ合う音。じゃらじゃらと、ぎしぎしと、重苦しい音が響いてくる。
これこそが死神の足音なのだと、生涯で一番冴えているだろう直感が絶叫した。
「いいかい、ダリル……二度は言わないよ。失ったものばかりに囚われるんじゃないよ。今、あんたの手に何があるか……それだけを考えな。じゃなきゃ、それすらも取り落とすことになる。それと、現実は逃げるものじゃなくて見つめるもんだよ。人間は、妄想だけ見てたら簡単に躓いて死んじまう生き物だからね」
「……っ、なんだよ……母さんまで……っ。それじゃあ、まるで、まるで……っ!」
『……ダリル……アイラおばさん……』
焦りがあった。恐れもあった。けれど、顔は凪いだ湖面のように穏やかに。
すらすらと流れる言葉に、最後の意志を乗せていく。
そして"なんだ、アタシも随分母親らしくなれたもんだな"と、微熱を伴う感傷を抱えて、薄く笑った。
「カナリア。……恥を承知で、頼むよ。ダリルを見捨てないでやってくれ。コイツはバカでノロマなしょうもないヤツだけど……それでも、私の最愛の息子なんだ」
『……っ、わかり、ました……』
「……ありがとう」
カナリアは、ダリルの手を握った。ダリルはそれを振り払わなかった。
呆然と、肩に残った熱を感じながら、アイラの顔を見あげている。
亜麻色の髪の毛、茶色い瞳。
煤で焦げた頬は静かに微笑みが浮かんでいて……でも、そこには僅かな恐怖も重なっていた。
けれど、それでも。
それでも、アイラは母親の顔をしていたのだ。
「……さぁ、走りな、二人とも。全速力で、脇目も振らずに。たとえ誰かに呼び止められても無視するんだよ。……あの家なら、結界だって張られてる。あんたらが駆け込めれば、それでアタシたちの勝ちなんだ」
「待ってよ母さん! それなら母さんも一緒に……!」
「黙りな! あんたはお母さんの言う事を聞いてりゃいいのよ!」
まだぐずる息子の背中を叩いて叫ぶ。
そして振り返った。
指し示した先とは真逆、アイラがやってきた方向。
……死神が、もうすぐそこまで迫って来ている。
「ダリル! カナリアのことを助けてやりな! 男なら女を守れ、しっかり立て! あんたの手に残されたもの、絶対に手放すんじゃないよ!」
死神が、顔を覗かせた。
曲がり角からひとり、ふたり、さんにんと。
死神たちは一様に銀色の兜を被っていて、その表情は伺い知れない。
身体を全て甲冑で隠しているから、心の動きも読めない。
怒りの強張りも、怯えの震えも、悦楽の高鳴りも、何も。
まるでそれは人形のようで、カナリアの目には恐ろしい鬼に見えた。血も涙もない、鬼のように。
……アイラにも、同じではなくとも近しいものが見えているはずで。
だからそんな鬼のような死神を恐れているはずなのに。
けれど彼女は怯懦の欠片も見せずに、二人の子供を彼らの視線から遮った。
本当は。……本当は……怖くて、今にも泣き出しそうなくらい奥歯が震えていたけれど。
「生きろ!」
それでも、己の胸に刻むように、祈るように。
アイラは猛々しく吠え、刃毀れでガタガタになった短刀を構えて。
"これをやってから死ね"と、小さく呟く。
そして微かに口角を上げて──往った。
憂いはある。後ろ髪を引かれるなんて言葉ではまったく足りない。
恐怖もある。戦うなんて、したことがない。短刀を振るった相手なんて食材くらい。
けれど、アイラは母なのだ。
力はない。知恵もない。勇気もない。熟達した兵士なんて勝てっこない。
そのくせ、どうしようもなく沸き上がるそれが前へ前へとかき立てる。
だから、我が子を送り出して。送り出されて。死神の剣を前にして。
それから、ようやくもうひとつ、ぽつりと零した。
愛してる、なんて。
そんな、最期の言葉がずっと遠くから聞こえてきた気がした。風が、冷たく運んできた。
……聞くべきではなかったと、粗雑に吐き捨てられたら楽だった。
聞こえてないフリをして、独白があったという事実を心から隠し続けられれば楽だった。
でも現実のカナリアには耳を塞ぐことすらできない。だから前を見て、前だけを見て……ただ、喉を掻きむしりたくなった。
ダリルは一度だけ、ほんの僅かな時間、振り返った。
短刀を握りしめたままの右手が、真っ赤な尾を引いて空を泳いでいる。畑仕事で少し節くれ立った手が。毎日料理を作ってくれた優しい手が。
それが、ダリルが最後に見た母の姿だった。
◇
死体があった。
死体があった。
死体があった。
いつも露店を開いていたおじさんも、噂話が好きなおばさんも、最近やっと走り回れるようになった小さい子供も。
みな平等に、等しく血袋になっていた。
安らかな顔なんて一つもない。
苦悶、後悔、怒り、悲しみ。色とりどりの絶望の形が、地獄を象っている。
──吐き気がする。
あるはずだった日常から断絶した景色に。
そして何より、その中に自身の両親がいないことに安堵した自分に。
吐き気がする。
けれど、飲み込んだ。
だって、ここで蹲ってしまえば二度と立てなくなるような気がしたから。
そうしたらきっと、その手を引く少年は──ダリルは、一緒に立ち止まってしまう。
どうにかして立ち上がらせようと足掻いて、そして追いつかれて。
そんな末路を思えば、カナリアは自身の弱さを磨り潰すしかなくなるのだ。
ダリルだって母を亡くしてしまったのに、それでもカナリアの手を引いている。
ただ、託されたから。たったひとつの最後の教えに縋って、それだけを理由に足掻いている。
尚更に、立ち止まるわけにはいかなかった。
意地なのだ、これは。
たとえ子どもの身体だろうと、生前を合わせれば立派な大人。
そんな己が一回りも二回りも年下の少年の足を引っ張るなど許容できなかった。
だから、無視する。
まだ息のある誰かの助けを踏み潰す。
まだ生きたいと願って伸ばした手を乗り越える。
その行いがどれだけ利己的なのかを知りながら、それでも。
──カナリアは、彼らに手を差し伸べるという弱さに、溺れることを許されなかった。
『ダリル……もう少しだ、もう少しで着く。きっと大丈夫、大丈夫だから……!』
「あぁ……なんて言いたいのかは分かるけど……はは、お前も無理すんなよ」
『そっくりそのまま返すぞバカ野郎っ』
喉は既にからからだ。
足なんて棒切れのように突っ張っている。
村長の家はもうすぐそこだと分かっていなければ、たぶん走れなかった。
走って、走って、走り続けて。
その間に、道端に転がっている息絶えた誰かたちを、一体何人見殺しにしたのだろう?
カナリアにもダリルにも、それは分からなかった。でも、少なくともひとりやふたりではない。
だからどう足掻いても、"見殺しにした"という事実はずしりと肩にのしかかってくる。
──それでもカナリアは、両親に会いたかった。
せめて、得るものが欲しかったのだ。
そうでなくては、見殺しにした意味がなくなるとすら思っていた。
本当は、生き残るという目的と大義名分があるはずだけど。
でもカナリアは、プラスアルファを求めてしまっていて。
その結実は、その曲がり角を抜けた先にあるのだと、信じていた。
「カナリアっ! 転ぶなよ、もうすぐそこが村長んちだ!」
『分かってる……! たぶんお父さんとお母さんもここにいるはずだ!』
生き残っていれば、という前提は意図して無視して。
カナリアは最後の力を振り絞って、もう一度強く大地を蹴って。
……そして、見た。
ずっと探していた、二人の姿を。
ローラン、黒い髪の父親。ロザリー、亜麻色の髪の母親。
どちらもカナリアに背を向けていて、顔は見えない。
『──お父さん! お母さん!』
あぁ、でも。でも、でも!
生きている。生きていてくれた。生きていてくれた!
それだけでいい、それ以外は気にしない!
──ダリルの手を強く引っ張って、湧き出てきた活力に任せてまた走り出した。
母親を失ったばかりのダリルへの気遣いはなかった。まるで気が回っていない。視野が狭い。頭の中身は純粋な安堵だけに満たされていて。
「……カナリア」
だから、悲しげに喉を鳴らすダリルに気付かなかった。
ダリルの視線が──強く、深い、哀れみに満たされていた事に、気付けなかった。
『……お父さん、お母さん……?』
「……。……あぁ、カナリア……生きていて、くれたんだな」
「カナ……? そこにいるのね、カナ……。あぁ、良かった……」
『お父さん、お母さん……どう、したんだよ……』
だから、振り返った両親の胸に広がる赤色に、気付かなかった。
歩幅が、少しずつ小さくなっていく。
少しずつ、少しずつ。
……手を伸ばせば触れる距離に届きもせず、5歩手前で止まってしまって。
そこでようやく、カナリアも気付いてしまった。
現実から目を逸らせない距離になって、大きく横たわる現実に見つめ返された。
「誕生日プレゼント、あげられなくてごめんな。……どうか、幸せに……なってくれ……」
「カナリア、誕生日……おめでとう。いつか……大人になったあなたは、きっと、綺麗なのでしょうね……ふふ。そのいつかが、楽しみ、ね……どうかそれまで、生きて、ね?」
『あ、あぁ……?』
父が、疲れたように息を吐く。母が、娘を安心させるように薄く微笑んだ。
そして、赤色が。
火に照らされて鮮やかに輝く赤色が、ふたりの身体から滴り落ちていく。
ぽた、ぽた。落ちた雫は小さな水たまりのように、身体を大きく育てていく。
両親の命を吸って、子供のように。
『……うそ』
ふたりの身体には、大きな刺し傷があった。
胸、心臓の近く。
貫通しているそれは、心臓そのものを貫いている訳ではなかった。
……けれどそれが、そんな塵にも劣る事実が何の慰めになる?
今この瞬間にも急速に命の熱は失われていっていて、それは火で暖めることなぞ叶わない。
それが全て。この瞬間を説明する言葉に、余計な装飾を収められるほどの大きさはなかった。
『嘘だろ、そんな、こんなに……こんなあっさりと? こんな、簡単に? まだ、おれはあなた達と……』
つまり、死んだ。言葉で表したらたったそれだけの短文。
『うそ、うそ、ありえない……夢、夢だろこんなの……?』
別れはいつも突然で、劇的な物になるとは限らない。突拍子がなくて当然だ。
だって、命を落とすのはそんなに特別な物じゃないから。
それに価値を見出すのはいつだって人間側の勝手で、それを世界が考慮してやるなんてありえない。
石を放れば地に落ちる。風が吹けば草が揺れる。そういう単純な物理法則と同じくらいの重みしかなくて、だから、これは仕方のないことだ。
……そんな事、カナリアは己の身を以て知っているはずだったのに。
『あぁぁぁ……! 待って、待ってよ。やだ! やだぁ! 置いてかないで! 置いてかないでよ!』
ぐちゃりと音を立てて地に伏せる二人に、少女は駆け寄った。その小さな身体では、受け止められなかった。
ただ、糸の切れた人形のように手を投げ出して、それっきり。
火の光を反射する血の池がゆっくり広がっていく。赤色と赤色が混ざってより深くて不快な紅色になる。
その紅色が身体にべったり張り付くのにも構わず、しがみついた。
まだ生暖かくて、命の残滓が粘つきとして残留している。
けれどその身体は冷たく、震えず。
呼吸はなく、瞬きもせず、鼓動は止まっている。
何もない。
……傍にいるダリルには、それが分かっていた。
命の兆候のこと、だけではない。
つい先程母親との別れを経たばかりの彼は、既に自分たちのような子供にできることなんて何もないことを分かっていた。
剣を振るうことも、誰かを背負うことも、誰かの傷を癒すことも、何も。
「……カナリア……」
ダリルはきっと、言ってやるべき誰かが必要だと思ったけれど。
その責任を負うことを恐れて、ただ、カナリアの背中を撫でてやることしか出来なかった。
『あぁ、あ……あぁ……っ!』
──そして、カナリアにできること。
そんなものは何もない。命は失われた。もはや変えられない現実として、確定した。
いつかの思い出の靴、両親が愛した金糸、両親を愛した両の瞳。
その全てを紅で穢して、それっきり。奇跡なんて存在しない。もう涸れきっている。
だから、何もないのだ。
『──おとうさん! おかあさん!」
やっと人の言葉が喉を鳴らしたとて、一体それが何の慰めになる? 何を救える?
……無理だ。現実は、言葉では覆せない。
覆せたとしても、それを為すにはあまりにも遅すぎた。
……ほんとうに、ほんとうに今更だ。
ずっと練習していたのに。ずっと言いたかったのに。やっと話せるようになったのに。
"産んでくれてありがとう"すら、言わせてもらえなかった。
◇
かちゃり、がちゃり。鉄の擦れる音がする。
壁に寄りかかっていたらしいそいつは、影から浮かび上がるように黒い鉄の身体を晒した。
飾り気の少ない騎士鎧は煤と血で汚れていて、まるで悪鬼のよう。
兜もなしに鎧を着るなぞ、騎士の風上にもおけぬ異端のようだけれど。
……そもそも、この地獄を作った側の悪鬼について騎士云々なぞ語れるはずも無かった。
その右手に握られた剣の、血臭の濃さたるや。
むせ返るほどに濃密で、甘く腐るような、臓腑を汚す香り。
「……おまえの、せいで」
それが、鮮やかで生々しい赤色を纏っている。
つい先程誰かを斬り殺したのだとすぐに分かるほどに、鮮やかだった。
「おまえの、せいで……!」
ゆえに必然、辿り着く答え。
感情論による思い込みすら不要。
この村にいるはずのない騎士がこの事態に関係ないなど、それこそあり得ないのだから。
「死んで、死んでよ! お母さんを返せよ! お父さんを返してよ! なんで、なんで──おれたちは悪いことなんて何もしてないのに!」
「あぁ、そうだな。お前の両親は何も罪をなしていない。それは確かに、理不尽だろう」
言って、騎士はくつくつと喉を鳴らした。
血で汚れた頬をつり上げて、その荒んだ目を喜悦に歪める。
騎士というにはあまりにも粗野で、傭兵と呼ぶには装備の格式が高すぎる。
いっそ山賊のようにも見える無精髭も、偉ぶった口調のせいで途端に退廃的なだけの騎士のそれに見えた。
そんな退廃騎士は、長剣の切っ先をゆらゆらと遊ばせて。
カナリアの言葉を吟味するように、そうだ、そうだなとぶつぶつ呟いている。
不気味だった。
「この……! お前はなんなんだよ、なんでここに来た! なんで殺した! 理不尽だって自覚があるなら、せめて──!」
「──せめて償え、とでも? はは、何だお前は。理不尽が不浄な物とでも信じているのか? だから戒めるべきだと? ……何を言うか。世界なんてそもそも、いつだって理不尽に愛されている物だろうがッ!」
切っ先が走る。鮮血を振りまいて。
向かった先はカナリアの腹部で──とす、と。僅かな音を立てて、突き刺さる。
「あ、ぁあ……?」
──理解できなかった。前兆も無かった。
この退廃騎士は急に大声を上げたかと思えば、まるで空を見上げるような気軽さで剣を突き立ててきたから。
だから、その痛みに気付くまで時間を要して。
貫く冷たさに触れて、カナリアは絶叫した。ようやく獲得した人の言葉を忘れるほどに高く、甲高く。
「て、めぇ……! カナリアに何しやがる! 離れろ!」
「貴様もだ、少年。その恨みに正当性はある。妥当だ。しかし、それを清算できる保証は何処にもない」
「が……っ!?」
悲鳴を上げる視界の端でダリルが吹き飛んでいった。
剣はまだ、カナリアの腹部を鞘としたまま。だから飛んだのは蹴りだったらしい。
……ほんの少しだけ安心した、けれど。それは決して、ダリルの無事を保証するわけではない。
危機は変わらず危機のまま、カナリアの近くに居座っている。
……だから次に考えたのは、この退廃騎士の殺害。それが無理でも撃退。
両親を失ったばかりでうまく回らない思考回路に必死に呪いを込めながら、カナリアは大きく喉を鳴らした。
『……風、風を……! 回転させて、固めて、圧縮して……!』
定まった形などないひどく不格好なそれを無理やり眼前に生み出して──それを退廃騎士めがけて撃ち放つ。
ごうごうと音を立てるそれが発生して収束するまで僅か一秒。射出に0.1秒。
──それは、咄嗟に放ったものにしては高い殺傷能力を有していた。
けれど、その男は感心したふうに風を見つめて──それだけ。
軽く払われた手に、あっさり散らばってしまった。
『……は?』
「ほう、風か……お前の魔法か? いや、しかし……それにしては人間の香りがしない……なるほど、先祖返りだな。よもやこのような片田舎にいるとは……思わぬ収穫だ。──が、弱い。余りに脆く、幼すぎるな」
『……くそ!」
もう一度風を束ねる。圧縮する。小さく、小さく、小さく、槍のように、殺意を込めて──!
持ち上げた右手の先に生まれたそれは熱気を取り込み歪んでいて、人の命を奪うためのカタチをしていた。
──しかし、それは放たれる前に踏み潰された。
「無為、無駄。その程度でこの命を奪えるなどと思い上がるとは、なんともはや──可愛らしいな。愛でてやろうか」
「ぁ、が!?」
そして、刃は一度引き抜かれて。
もう一度、ざくりと突き刺さる。
ぐい、と柄を横に引き倒して傷を抉り、血の小池を作られて。
もうカナリアの頭の中はただ一色に埋め尽くされていた。
痛くて痛くて痛くて痛くて──怒りだとか憎しみだとか、そういうあったはずの物まで傷口からこぼれ落ちていってしまう。
……けれど、退廃騎士の後ろに見える姿が。
ダリルが痛みに喘ぎながらも立ち上がろうとする姿が見える度、正気が帰ってくる。
抗わなくては、と無意識の領域で心が震える。
「……っ、おお、まだ風を出せるのか。はは、健気だなぁ。ほれ、もう一度傷口を抉ってやろうとも」
「ぎ、ぁ……ッ!」
けれど結局、風はまた容易く散らされて。
ほんの僅か、一筋の風がその頬を浅く抉ったけれど、それだけ。
流血なんて微々たる物。致命傷には程遠く──腹に新たに増やされた剣の跡が、無力さを証明していた。
ぎちり、ぐさり。
血が弾けて──もう、自分が何でここにいるのかすら、忘れてしまいそうだった。
「はは、安心しろ、只人でもすぐには死にはしないように刺した。臓器も……まぁ、胃腸や腎臓はそれなりに破れたろうが、子宮と卵巣は避けてある。万が一にも先祖返りの血を絶やすわけにはいかんからな」
「きしょく、悪いな、おまえ……!」
「は、威勢の良さは変わらんか」
可愛らしいなぁ、褒めてやろう。
男はまたそう言って、剣を引き抜いた。
意識と関係なく身体が震える。異物感、冷たさと熱、一致しない身体のイメージと実態。
それらが頭の中でぐちゃぐちゃになるほど衝突を繰り返して、正常な身体の動きが分からなくなって。
カナリアはただ、震えるしかなくなって。
「何にせよ、貴様はやはり相当に濃いな。見ろ、もう傷が塞がっているぞ。魔法もなく、単なる自己治癒能力だけで、だ。くくっ、良いな、良いぞお前は。お前のような
それでも、死なない。
埋まる欠落。
知らずのうちに困惑が漏れ出す。
流れ出るはずだった血は止まり、肉の裂け目が癒着する。
それはつまり、カナリアの異常性をあらわしていて。理解の及ばぬものではないけれど、だからこそ一層意味が分からなかった。
──まるで、お前は人間ではないのだと、肉体が語りかけてくるようで。
言葉の瑕疵のみならず、そもそもの造りが、肉を構成する要素から、根底から人でなしだと語るようで。
カナリアと名付けられた少女は、喉にせり上がる何かを飲み干すこともできなかった。
「何だ、それも知らなかったのか。……まぁいい、聞け、先祖返り。所詮この世は理不尽ばかりに満たされている。お前の祖ですら変えられなかった構造に、一体何故憤る?」
嘔吐し、苦痛に喘ぐカナリアのことを見ているのか見ていないのか。
独り言を呟く程度の熱量で口を開く退廃騎士は、頭に足を乗せて寛いでいる。
「教えてやる。お前が無知だからだ。何も知らぬ雛鳥は、鳥籠の外に羽ばたけぬまま。ただ、安寧のみを世界とされる」
そして垂れた講釈はカナリアの理解に結びつかず──けれど確かな毒のように、じわりと滲み出した。
ただ、悪寒がした。脳が震える。
聞いてはならない、と直感した。
耳を塞ぐべきだ、と両手が藻掻くように痙攣する。
しかしそれは叶わず、音が鼓膜を直接叩いて、ただ、享受を強要した。
「教えてやるとも。お前は無知ゆえに、お前も理不尽をもたらす側に立っている」
「何を言ってんだこいつ……! 気でも狂ってんじゃねぇのか!? カナリア、耳を貸すなよ!」
おれも耳を貸したくないよ、とは言えず。
頭に乗っかる男の体重を感じながら、うめき声だけを漏らした。
「……哀れだな。先祖返りの少女。お前は、無知ゆえに、己の性を抑えなかった」
だから、必然。
「お前は──妖精は、周囲の人間に愛させることができる。人が空を見上げるのと同じ熱量で、人が星に夢を見るのと同じ要領で、歌で心を支配する」
「カナリア! 聞くな!」
毒は、確かにカナリアを冒したのだ。
深く、深く、深く。染み込む毒は──まだ幼くあれた彼女の心に破滅の種を植え付けた。
「お前は、本当に、本当の意味で両親に愛されていたのか?」
「……、……ぇ?」
動揺、困惑。
最初に訪れたのはそれで。
続いて疑念が湧き上がる。
「い、や……それ、は、おかしいだろ。だって、おれは、そんなつもりで歌ってない。おれにとっての言葉が、歌だっただけで。そんな力なんて、籠もってない」
「そう思うか?」
カナリアという子供はそれを知らない。
何も知らない。
言葉が通じなかったこと、親に似なかったこと。
その二つだけが彼女も知る事実であり、それ以外のすべては不知の領域にあった。
不知の自覚は程遠く、己の異常は想像できない。
「本当に、心の底から断言できるのか?」
「……だって、おれはこの村で生まれ育ったただのガキだ。ただの、何の変哲もない、普通の……普通、の……」
……そう信じていたから己の治癒能力も知らなかったし、まさか、己の声にそんな呪いがあるなどと。
そんな悪夢は、悪夢にすらなっていなかった。ならずに、済んでいた。
「……なるほど確かに。お前はこの村で、普通の子供として育てられていたようだな。ここでは排斥の香りがしない。どこの村落にもある、普通の、凡庸で平凡な香りしかしない」
──男の声は尚も続く。
諭すように淡々と。しかし裡に秘めた愉悦は隠しきれず。
単語の区切りで震え、跳ね上がる声音がその内心を雄弁に物語っていた。
「それは何故だ? なぁ、先祖返り。何故だと思う? 気にならないか? 気になるだろう。他の誰でもないお前の両親にも関わる真実の話だ、気にならない筈がない。なんせお前は……くく、愛されていたものなぁ?」
肉体を言葉で輪切りにして、解剖する。そこには明確な嘲りという毒があった。
だから彼の言葉は、単なる欺瞞のように聞こえる。……いや、そう聞こえてほしかっただけだろうか?
きっと、そうあって欲しいという願望で濾過していたのは事実だ。ガラス越しのハイエナが浅ましい鼻息を鳴らしているだけだと思っていた。
……けれど、反面。どこまでも敬虔な神父のように固い声音が、あんまりにも深く沈むようだったから。
揺らぐことのない現実を語っているようにも、聞こえてしまった。
「人は異端を嫌う。どんな理由があっても、どんな背景があろうと、人が群れれば幾人かは本能に従うものだ。だというのに──人の言葉を話せないお前が、何故排斥されなかった?」
だからそれを嘘だと断じるには、あまりにも。
あまりにも、少女の心を踏みにじり過ぎていて、重すぎて、重すぎて、重すぎて。
真実と呼べるほどに明確な形を持っていて、鋭い輪郭を有していたから。
……もう、その小さな両肩では支えきれなかった。
喪失と痛みと恐怖で喘いでいた心のうえに、さらに与えられた悍ましい真実。
もう重量オーバーだ。限界だ。カナリアという誰かの心は、不屈の精神で立ち上がれるようにデザインされていなかった。
だから少女の信じていた現実は、欺瞞であるべき男の腐臭を前に腐り落ちる。
「なぁ、妖精の君よ。お前の言葉は、人にとっての毒なのだよ」
「……うそ」
「嘘ではない。妖精と人は違う理にあって、そこには明らかな格の差がある。生命としての優劣と言ってもいい。高きから低きに流れるように、お前こそが優先される。何故か、それはお前が人ではないからだ」
ダリルの声が、どこか遠くで反響していた。
「哀れだなぁ。お前に与えられた理不尽は、どうあっても同じ視座に立てないことだ。たとえお前自身が純粋な愛を叫んだとしても、お前自身の性がそれを濁らせる。実体がどうであれ、だ。正真正銘の、疑いようのない愛は、決して手にはいらない」
「カナリア!」
「なにせ、お前の毒が染みていないことなど証明できないのだから」
だから、だから、だから。
カナリアの苦しみは、この日、この時に始まったのだと、未来の彼女は嘆くのだろう。
「故にお前が欲するモノは未来永劫手にはいらない。お前の言葉がそれを拒む。お前の純粋な愛が、真実の愛を遠ざける」
「────」
「誕生日おめでとう、
言って、ひとりの人でなしは笑った。口を大きく開いて下品に下劣にげらげらと。
先程までの喉を鳴らす、どこか隠しきれていなかった気品はどこにもない。
それを聞いたもうひとりの人でなしは、ただ茫洋と目を見開いた。
黄金の目。光を受けてキラキラ輝いていた目。未来には愛と希望があるのだと、愚かな期待で盲いていた目。
その中には、暗く淀んだ黒が混じり始めていたけれど──もう、そんな事にも気付けぬほどに、カナリアの心は。
「……あぁ、そっか」
……ダリルが叫んでいる。
強く、何かを叫んでいる。
けれどその声音はあまりにも熱くて、鋭くて、だから鼓膜で受け止めるには辛すぎて。
カナリアは、忘我の中で力を抜いた。
もう、何も見たくなかった。
己が人でなしだなんて、認めたくないけれど。もし人でなしだというのなら。
……もう、立ち上がるだけの気力すら、何処にもない。
「……殺すのか? おれを」
「いいや? 安心するといい。俺はお前を殺さない。むしろ丁重に……そう、丁重に扱ってやろう。何せ貴重な先祖返りだものなぁ、無碍には扱わんさ」
「そうかよ。……どうでもいいな、それなら」
「ほう? 俺達は寛大で寛容だ。望みを口にするだけなら自由だぞ」
「…………は、寛大……ね」
ただ、そんな彼女にも心残りはひとつだけあった。
ダリル、たったひとり残った友達。アイラに託された、最後のよすが。
それを置いていくわけにはいかない、と己を律そうとした。
けれど置いていかざるをえないじゃないか、と感情が答えを出した。
だって、どちらにしろ──弱いカナリアに、選択権など無いのだから。
生きるも死ぬもこの男の匙加減次第。
ああしてほしい、こうしてほしいなどと願ったところで、それを叶える義理も義務も彼にはない。
だから、この無力な子供に出来ることがあるとするなら。
弱者なら弱者らしく、乞食のように振る舞うしかないのだ。結局は。
「……おれは、好きに扱え。話を聞くに、お前らにとって何かしらの価値があるんだろう? けど……ダリルは、そこのガキは別だ」
「なんだ、急に自己犠牲の精神でも湧いてきたのか? いや、生来のものか。ふふ、は……だから助けろと、そう言うか」
「……そうだ。これは、そう……物乞いの無様な祈りだ」
「祈り! 祈りと来たか! 対価を求めるならそれは取引だろうが! くくっ、これは傑作だ! まさか──まさか! お前如きの弱者が、何の権利もないお前が、対価を求める!? ははっ、はははははははっ! 媚びを売るのなら分かる、分かるが……っ! はははっ、何だ貴様は死に急いでいるのか!?」
何も答えない。答えられない。
あまりにも愚かな提案だと、言った口の持ち主が誰よりも理解していた。
そも、何かを求めても許されると思える方がちゃんちゃら可笑しいのだ。
ゆえにこれは、斬新な命乞いでしかなかった。
……それでも賭けるしかないと理解していたから、カナリアはぐっと顔を持ち上げて、男の顔を見返した。
喜悦に歪んだ畜生。頬に散った血が、火に照らされて悍ましい化粧を施している。
そんな彼は、やはりどこまでいっても畜生だった。
「では、試そうか。これより貴様の四肢を落とす。その間、貴様が悲鳴を上げなければ……くくっ、そこの少年の命は奪わずにおいてやろうとも」
げらげらと笑いながら、剣を構える。
先ほどはガラス越しのハイエナなどと表現したが、冗談ではない。ハイエナならばもっと可愛げがある。
これはもっと悍ましく下劣なるものだ。人の倫理で定義できない悪性だ。
寄生虫でさえ、彼よりは慎み深さを知っているだろうに。
「……くそっ、たれ。本当に、きしょく悪い下衆野郎が……」
「口が悪いなぁ、それでは神々の下僕に罰を与えられてしまうぞ? おお、この人でなしの小娘は品の無い言葉しか吐けぬのか! いっそ殺してやるのが慈悲だろう、とな!」
そして、切っ先が走る。
向かう先はダリルではなくカナリア。
宣言通り四肢を落とすつもりなのか、軌跡の先は胴体からは程遠く。
ただ、受け入れるしかないのかと絶望して、足掻けずに。
そのまま刃が肌に食い込む──その刹那。
「──だとしても。そこな妖精を殺す必要があったとしても、それよりも先に、まずは貴様を殺しますがね。人喰いのウィティウム」
走る雷鳴。
這うように響く、鐘声が如き女の声。
意識が黒い海に落ちる寸前に、脳みその奥に湧いたそれの形は──。
──それをカナリアが口にすることはないけれど。
ただ、心地よいものでは無いことだけは、偽りようのない真実だった。
でも全部なくなったね。
ハッピーバースデー、カナリア!