キリトがナーブギアに脳を焼かれ記憶を全て失ったら   作:富福

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夜の台所、夕飯時。

一人暮らし用のアパートによくある、手狭な造り。

鍋では湯が沸き、まな板の上には切りかけの野菜が並んでいた。

料理なんて得意じゃない。

ただ一応はバイトで生活費を稼いでるし外食も面倒で、適当に自炊しているだけだ。

別に手の込んだものでなければ自炊くらいはできる。

男の一人暮らしなんてそれくらいで十分だ。

包丁を動かしていた時だった。

半分惰性でぼんやりと手を動かしていたのが悪かったのだろうか。

不意に刃が滑る。

「……っ」

浅い痛み。

やってしまった。

左手の指先が切れていた。

じわり、と赤い血が滲む。

男はしばらくそれを眺めていた。

普通なら慌てて絆創膏でも探すのだろう。

だが彼は動かない。

無言のまま蛇口をひねり、冷たい水の中へ指を沈める。

少し沁みる。

やがて透明な水がゆっくり赤く染まっていく。

男はぼんやりそれを見つめた。

SAOでは、負傷してもHPバーが減るだけだった。

痛みは感じないし、血はこんな風に流れなかった気がする。

部位欠損をしても時間経過と共に治りはする。

いや、本当はどうだったかも覚えていない。

全部ログで知っているだけだ。

水音だけが静かに響く。

男は壁にもたれ、小さく呟いた。

「……こんなんで死ねんのかな」

独り言。

感情の薄い声だった。

本気で死のうとしているわけじゃない。

ただ、ふと思っただけだ。

人間は案外簡単に壊れる。

実際、自分の脳は焼けた。

かつて命をかけて大事にしていたはずの記憶も感情も消えた。

なら、身体の方だって案外脆いのかもしれない。

水に溶けた血が流れていく。

男はそれを眺めながら、どこか他人事みたいに考える。

もしこのまま自分が死んだら。

家族は泣くのだろうか。

アスナは。

《キリト》を失ったと思うのか。

それとも今更、変わらないのか。

「……」

そこまで考えて、男は小さく眉を寄せる。

結局、自分はまだ“キリト”を基準にしか考えられていない。

死ぬとしても、自分自身ではなく、《黒の剣士》の亡霊として。

それが少しだけ不快だった。

男は蛇口を止める。

指先からの出血はもうほとんど止まっていた。

「くだらね」

小さく吐き捨てる。

死にたい訳ではない、だからといって生きたい理由も特にない。

それでも腹は減るので料理はする。

適当にティッシュで傷を押さえ、再びまな板の前へ戻る。

鍋の湯気だけが、静かに部屋へ広がっていた。

適当に刻んだ具を鍋に入れ煮込むだけの時間。

傷はすぐにかさぶたになって消えるはずだ。

痛みも一緒になって。

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