目を覚ました直後のことを、男は断片的にしか覚えていない。
白かった。
天井も。
光も。
人の声も。
全部ぼやけていた。
身体は鉛みたいに重く、喉は焼けるように乾いていた。
視界の端で誰かが泣いていた気がする。
『和人!』
『先生、反応があります!』
『よかった……本当に……!』
次々に声が飛んでくる。
だが男は、それを妙に遠く感じていた。
まるでガラス越しに聞いているみたいだった。
自分に向けられている気がしない。
名前を呼ばれても実感がない。
“和人”。
“キリト”。
どちらも知らない他人の名前みたいだった。
医者が説明していた。
SAO。
デスゲーム。
二年間。
奇跡的生還。
何人死んだか。
何を成し遂げたか。
君がどれだけ特別だったか。
色々。
本当に色々。
だが男は、ぼうっと聞いているだけだった。
実感がない。
二年間命を懸けて戦ったと言われても。
誰かを愛していたと言われても。
仲間を失ったと言われても。
頭の中には何もない。
空っぽだった。
「……」
病室の外では、報道陣が騒いでいたらしい。
男だけでなく多くのSAOプレイヤーが目覚めたことで世間では大変な騒ぎになったそうだ。
外部から観測できる限りではまだゲーム全体の4分の3である75層に辿り着いたところだとされていた。
それが突然本来100層まで行かねばクリアされないはずのデスゲームがクリアされたのだ。
そしてそれを成し遂げたのが黒の剣士、すなわち自分だと。
でも男には、全部が現実感のない物語だった。
ある時、医者が慎重な顔で尋ねた。
『君、自分のことは分かるかい?』
男はしばらく考えた。
だが何も浮かばない。
家族の顔も。
自分の性格も。
好きだったものも。
何一つ。
だから正直に答えた。
「……誰ですか、それ」
その瞬間。
病室の空気が凍った。
泣き声。
息を呑む音。
誰かが口元を押さえる気配。
けれど男だけは、相変わらずぼんやりしていた。
悲しいとも思わない。
怖くもない。
ただ、自分以外の全員が妙に深刻そうなのを不思議に思っていた。
数日後。
《キリト》の戦闘ログを見せられた時も同じだった。
黒衣の剣士。
二刀流。
ヒースクリフとの決戦。
医者や関係者は、彼が何か思い出すことを期待していたのかもしれない。
だが男は映像を見終えた後、小さく首を傾げただけだった。
「……へぇ」
乾いた反応。
それだけ。
画面の中で命懸けで戦う少年を見ても、まるで他人のプレイ動画みたいにしか思えなかった。
あの日からずっと、ただ呼吸をして生きているだけの男は今日もただ淡々と一人で現実の日常の中にいる。