何度目かの脳の検査。
診察室には静かな空調音が流れていた。
机の上には検査結果のファイル。
脳波。
神経伝達。
損傷部位の解析データ。
担当医は何度も言葉を選ぶように沈黙していた。
男は向かいの椅子に座り、ぼんやり窓の外を見ている。
やがて医者が口を開いた。
「……率直にお話しします」
硬い声だった。
「記憶障害についてですが、現在の脳損傷の状態を見る限り……回復の可能性は極めて低いです」
沈黙。
「完全な記憶喪失、それに近い状態だと思ってください」
普通ならここで。
泣くか。
怒るか。
取り乱すか。
少なくとも何かしら感情が動く話だった。
だが男は数秒黙った後、ただ小さく頷いた。
「……そうなんですか」
まるで天気予報でも聞いたみたいな声だった。
医者の方が逆に言葉を失う。
「……あの」
「はい」
「もっと、その……」
医者は困ったように視線を泳がせる。
ショックを受けていないのか。
怖くないのか。
聞きたそうだった。
だが男は本当に実感がなかった。
記憶を失ったと言われても、失った“中身”を知らない。
思い出せなくて苦しい過去もない。
取り戻したい幸福もない。
空白しかないから、喪失感すら湧かなかった。
「君はまだ若いですし、これから新しい人生を――」
励ますように医者が続ける。
「焦らなくても大丈夫です。記憶が全てじゃありませんから」
男はぼんやり聞いていた。
別に医者を馬鹿にしているわけじゃない。
ただ、本当にその程度の話にしか感じていない。
「……はぁ」
適当な返事が漏れる。
医者はさらに何か言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。
診察室が静かになる。
男は机の上の脳画像を見る。
焼けた部分。
失われた領域。
そこに《キリト》という人間が入っていたのだろう。
でも今の自分には、もう関係がない気がした。
しばらくして男は立ち上がる。
「じゃあ、もういいですか」
「あ……はい。次回検査の日程を――」
説明を聞き流しながら、男は出口へ向かう。
ドアを開ける直前、医者が小さく言った。
「君は、生き残ったんです」
男の足が少しだけ止まる。
だが振り返らない。
「……そうみたいですね」
感情のない声だけを残して、静かに診察室を後にした。
生き残った、本当にそうだろうか。
かつてあったはずの思い出も、執着も、愛情も無くして。
ただ漠然と生きてるだけの自分が、果たしてそう言えるのだろうか。
「…中途半端に生き残っても面倒なだけじゃないか」
そう、男の口から自然と溢れた言葉はまるで他人事のようだった。