世間一般では平日の昼下がり。
喫茶店のショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいた。
苺のタルト。
モンブラン。
チーズケーキ。
男はメニューを眺めながら、珍しく少しだけ真剣な顔をしている。
向かいでは菊岡がコーヒーをかき混ぜていた。
「……でね、アスナくんのことなんだけど」
「んー」
返事は適当だった。
男の視線は完全にメニューへ向いている。
「彼女、まだ君を探してるみたいでねぇ」
「ふーん」
興味の薄い相槌。
だがその間にも男はショートケーキとミルフィーユで悩んでいた。
前回のショートケーキは普通に美味かった。
でも今日はミルフィーユも気になる。
「病院にも時々来てるらしいよ。君と会えないかって」
「へぇ」
完全に上の空。
菊岡は苦笑する。
「……聞いてる?」
「聞いてる」
男はようやく顔を上げた。
「それで?」
「いや、それでって……」
逆に困る菊岡。
普通なら何かしら反応がある話題だ。
罪悪感。
動揺。
戸惑い。
少なくとも、“アスナ”という名前に対して。
だが目の前の青年は、本当にケーキの方へ意識が向いていた。
「ミルフィーユって崩れやすいんだよな……」
ぼそっと呟く。
真面目に悩んでいる。
菊岡は思わず額を押さえた。
「君ねぇ……」
「何」
「アスナくんの話だよ?」
「だから?」
悪意のない声だった。
本当に分からないのだ。
男にとってアスナは、《キリト》が命を懸けて愛していた相手。
それは理解している。
でも今の自分には、実感がない。
だから“元恋人という話をされている他人”くらいの距離感しかなかった。
男は数秒考えた後、店員を呼ぶ。
「ミルフィーユで」
「かしこまりました」
店員が去っていく。
その背中を見送りながら、男は小さく息を吐いた。
「……甘いもん食うとちょっとマシなんだよな」
ぽつりと呟く。
その言葉だけは妙に素直だった。
菊岡はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように笑う。
「君、相変わらずドライだねぇ」
男は肩をすくめる。
「ドライにしてるつもりはない、覚えてないだけだ」
数分後。
運ばれてきたミルフィーユを一口食べた瞬間だけ、男はほんの少し目を細めた。
その表情を見て、菊岡は複雑そうにコーヒーを飲む。
アスナの名前には何も反応しないのに。
ケーキにはちゃんと反応する。
それが妙に、人間らしくて。
そして残酷だった。
「これも美味いけどやっぱショートケーキの方も良かったな」
「…一つくらいなら持ち帰りで頼んでいいよ」
「マジで?ありがとう」
男の感心は既にケーキの方に移っていた。