夕方前。
人の少ない時間を選んで、男は実家へ戻っていた。
どうしても必要な書類があった。
役所関係の手続き。
それだけだ。
母親達には「用事で寄るだけ」とだけ伝えてある。
わざと、誰もいない時間を選んだ。
玄関の鍵を開ける。
懐かしいはずの家。
けれどなんの思い出の無い男には、どこか他人の家みたいに感じられた。
靴を脱ぐ。
静かな廊下を歩く。
壁の写真立て。
家族写真。
幼い頃の“桐ヶ谷和人”。
全部、自分のはずなのに実感がない。
目的の書類を探すため、二階へ上がる。
そして。
自然と、昔の自室の前で足が止まった。
数秒沈黙。
男は無言でドアを開ける。
部屋は綺麗なままだった。
勉強机。
PC。
本棚。
ゲームソフト。
ベッド。
クローゼットには誕生日に貰ったというスニーカーやリュックサックなどがそのまま入っていた。
時間だけが止まっている。
母親達が定期的に掃除しているのだろう。
男はゆっくり部屋を見渡す。
SAO帰還後に一度帰ってきた部屋。
《キリト》がいた場所。
夜通しゲームをして。
妹と喧嘩して。
SAOへログインした部屋。
なのに。
「……他人ん家みたいだな」
ぽつりと呟く。
本当にそうだった。
思い出がない。
感情も湧かない。
ここで過ごしたはずの時間が、全部抜け落ちている。
その空虚さが嫌で、結局逃げる様に一人暮らしを始めた。
男は机の引き出しを開ける。
必要書類を見つけ、無言で鞄へ入れる。
それだけ。
部屋に長居する理由はなかった。
ふと、本棚の隅に写真立てが見えた。
まだ自分が桐ヶ谷家の実の子供ではないと知る前に撮ったらしい家族写真。
母親。
父親。
直葉。
そして中央には、幼い頃の自分。
笑っている。
男は数秒それを見つめた後、静かに視線を逸らした。
「……無理だろ」
誰に向けた言葉でもない。
こんな場所に戻ってきても。
家族に会っても。
“和人”には戻れない。
それだけははっきり分かっていた。
男は部屋の電気を消す。
ドアを閉める。
静かな廊下を歩き、そのまま玄関へ向かった。
家を出る直前、一瞬だけ振り返る。
夕日の差し込む実家。
本来なら帰る場所だったはずの家。
《キリト》はSAOでの戦いの日々の中でこの家に帰りたいと思っていたのだろうか。
だが男には、そこがどうしても“自分の居場所”には思えなかった。
結局何も言わず、静かにドアを閉める。
鍵の音だけが、小さく響いた。
「他人の家より落ち着かねぇ」
病室で目覚めたあの日から、家族も家族と思えない。
そんな自分の帰る場所はあの小さなアパートしか無かった。