夜風は少し冷たかった。
男はコンビニの袋を片手に、珍しく機嫌よく歩いている。
新作の期間限定ケーキ。
最後の一個だった。
それだけで少し得した気分になる自分に、内心で苦笑する。
「……安いな」
誰に言うでもなく呟く。
でも悪くない。
普段菊岡に奢らせる店のケーキとは違うお手軽な味。
これはこれでいいものだ。
少なくとも最近の中では、数少ない“ちょっとマシ”な感覚だった。
アパートの部屋へ戻る。
鍵を開け、靴を脱ぐ。
ラフな部屋着に着替え終える。
このケーキは夕飯後にでも食べようか。
それとも明日のバイトから帰宅してからがいいだろうか。
どちらにせよすぐにケーキを冷蔵庫へ入れようとした時、スマホが震えた。
画面表示。
《実家 母親》
男は露骨に顔をしかめる。
何の用事だろうか。
また元気にしてるかとか、たまには顔を見せろとか?
数秒無視を考える。
だが鳴り止まない。
「……はぁ」
深いため息。
渋々通話ボタンを押す。
「何」
『和人? ごめんね、ちょっと聞きたいことが――』
母親の声だった。
どこか言いづらそうな口調。
男は冷蔵庫にもたれながら無言で聞く。
『あのね、アスナさんって子が……』
その名前を聞いても、特に感情は動かない。
『あなたの連絡先、知りたいって』
沈黙。
『教えてもいい?』
男は少しだけ考える。
そして本当に淡々と答えた。
「知らない人だから無理」
空気が止まった。
電話の向こうで母親が息を呑む気配。
『……和人』
「用事それだけ?なら切るぞ」
『待っ――』
通話終了。
男はスマホを机へ放り投げる。
静寂。
罪悪感は、あまりなかった。
事実だったからだ。
結城明日奈という人物の情報は知っている。
《キリト》が愛していた相手。
それは理解している。
でも今の自分にとっては、本当に“知らない人”だった。
そんな相手と何を話せばいいのか。
互いにろくな結果にならないだろうに。
男は数秒ぼんやり立ち尽くした後、冷蔵庫にしまうつもりだったケーキをテーブルに置く。
適当に麦茶を入れフォークと一緒に出す。
ケーキのカップを開け、そっとフォークの先端を刺して形を崩しそのまま一口食べる。
甘さが口に広がる。
「……うま」
小さく呟く。
その瞬間だけ、少し表情が緩んだ。
だが直後、机の上のスマホが視界に入る。
着信履歴。
《実家 母親》
男は視線を逸らす。
そして何事もなかったみたいに、再びケーキを食べ始めた。
部屋にはフォークの小さな音だけが静かに響いていた。
今はただこの目の前の安っぽいコンビニで買ったケーキを堪能したい。
「また新作出たら買おう」