深夜、一人きりの部屋で男はPCと向かい合い作業をしていた。
その画面に映っているのはかつて1万人ものプレイヤーを幽閉したデスゲーム、SAOでの二年間のゲーム内ログだった。
あれから暇を見てはSAOでの膨大なログの整理をしていた。
総務省の菊岡から黒の剣士に関するものの扱いは任せると言われ、本当にいいのかと半信半疑ながらも手をつけ始めた。
そのほとんどが今の自分にとっては不要なデータとして、ひたすら確認しては削除を繰り返す。
フォルダ整理は、淡々と進んでいた。
戦闘ログ。
アイテム履歴。
マップ走破記録。
膨大なデータを分類し、削除対象へ移していく。
そこに感情はない。
ただの作業だった。
だが、あるフォルダの前でだけ、手が止まる。
《Asuna》
短い名前。
それだけで、妙に視界が引っかかった。
カーソルを合わせる。
内部データ数――347。
共有インベントリ記録。
メッセージログ。
ホーム設定履歴。
音声キャッシュ。
そして。
《private》
男は無言でそれを見つめた。
開こうと思えば開ける。
そこにはきっと、“キリト”がアスナに向けていた感情が残っている。
何を話していたのか。
どんな戦いを乗り越えたか。
どんな顔で笑っていたのか。
何を約束したのか。
全部。
知ろうと思えば知れた。
だが。
「……やめとくか」
小さく呟く。
感情は動いていない。
未練も、恐怖もない。
ただ妙な違和感だけがあった。
まるで、それだけは見てはいけない気がした。
男は椅子に深く座り直し、ため息を吐く。
「他人のラブレター覗き見る趣味ないからな」
無表情のまま言う。
その声音は、驚くほど乾いていた。
もし中を見れば。
そこには、自分ではない“誰か”の愛情が詰まっている。
命を懸けるほど誰かを想った男の記録が。
けれど今の自分には、それを受け取る資格も実感もない。
それはきっと、アスナに対しても失礼だった。
カーソルを動かす。
《削除しますか?》
一瞬だけ、指が止まる。
理由は分からない。
胸の奥に、小さなノイズみたいな痛みが走った気がした。
だが、それもすぐ消える。
クリック。
フォルダが消去対象へ移る。
《Asuna》
《Deleted》
その表示を見届けても、何も感じなかった。
……はずだった。
なのに。
閉じた画面に映った自分の顔が、ほんの少しだけ泣きそうに見えた。
「やめやめ、くだらない」
そう言って今日の分の作業を終え夕飯はどうするかを考える。
今の男にとっては覚えていない過去よりも目の前のそちらの方が重要だった。