「結構溝の方とか溜まってんな」
夕方。
男は一人でアパートの共用廊下を適当に掃除していた。
別に管理人に頼まれたわけじゃない。
ただ、玄関前に落ち葉が溜まっていたのが少し気になっただけだ。
今は他にやることがなかったのもあるかもしれない。
だから目につく範囲だけを適当に片付ける。
ただそれだけの作業だ。
「この辺とか、風で飛ばされてくんのかな」
箒を動かす。
さらさら、と乾いた音。
別に隅々まで綺麗にする必要はない。
だがやり始めると以外とあちこちが目についてしまう。
無心で掃いていた時、不意に手が止まる。
長い柄。
手に馴染む感覚。
そこでふと、ログで見た映像が頭を過った。
《黒の剣士》。
黒尽くめのコート。
黒と緑がかった二振りの片手剣。
二刀を構える姿。
圧倒的な速度。
命を懸けた戦い。
危険な戦場に誰よりも前に立ち続けた背中。
男は数秒ぼんやりした後、無意識に箒を持ち上げていた。
片手で構える。
半身になる。
やや傾けて切っ先を眼前の見えないMobに向ける様に
まるで剣みたいに。
風が少し吹く。
夕焼けが廊下へ差し込む。
その姿だけ切り取れば、子供のチャンバラ遊びみたいだった。
男は静止したまま、ふと自分の姿をガラス窓へ映して見る。
細い箒。
適当な部屋着。
無表情の顔。
剣士には見えない姿。
そして数秒後、心底冷めた声で呟いた。
「……ダセェな」
すぐに箒を下ろす。
馬鹿らしかった。
何をやっているのか。
ほんの出来心みたいなものだとしても笑えなかった。
自分は《黒の剣士》じゃない。
剣なんて握った記憶もない。
あるのは、ログ映像として知っている知識だけだ。
なのに身体が勝手に構えた。
それが妙に気持ち悪かった。
男は小さく舌打ちし、再び掃除へ戻る。
ちりとりで落ち葉を集める。
ゴミ袋へ入れる。
ただの単純作業。
その方が余程現実感があった。
掃除を終え、箒を壁へ立てかける。
一旦まとめたゴミ袋を然るべき場所に持っていく。
去り際、一瞬だけ振り返る。
そこにあるのは、ただの安物の掃除道具。
剣なんかじゃない。
仮想世界じゃあるまいし、現実世界にそんなものがあるはずがない。
男は小さく息を吐く。
「……ゲームのやりすぎだろ、あいつ」
誰に向けたのかも分からない独り言を残し、そのまま部屋へ戻っていった。
もしもその構えをSAO時代の黒の剣士を知る者が見ていれば、なんと言っただろうか。
その答えを知る者はこの場には誰もいなかった。
ただ取り残された落ち葉が一枚、風に吹かれ虚しく飛んでいった。