夜のスーパー。
バイト帰りに今夜の夕飯の材料を求めて立ち寄った。
閉店前の値引きシールが並び始める時間帯だった。
男は買い物かごを片手に、ぼんやり棚を眺めている。
じゃがいも。
にんじん。
鶏肉。
その隣に積まれた値引きシールが貼られたシチューのルーが目に入った。
少し考える。
「……今夜はシチューでも作るか」
ぽつりと呟く。
別に好物というわけじゃない。
簡単で失敗しにくいからだ。
それに量を作れば明日も食べられる。
男はルーを手に取り、一応裏面の作り方や材料を確認する。
その時、不意に記憶――ではなく、“データ”が頭を過った。
SAO時代の生活ログ。
木造の家。
湯気の立つ食卓。
アスナが作っていた料理。
シチューもあった気がする。
いや、正確には“気がする”ではない。
記録として残っていた。
《キリト》は、彼女の料理を何度も褒めていた。
嬉しそうに。
本当に幸せそうに。
男はしばらくルーの箱を見つめる。
自分の自炊は、食えればいい程度だ。
味も適当。
栄養が取れれば十分。
男の一人暮らしなどそんなものと割り切っていた。
でもアスナの料理ログだけは、見ていて妙に“生活”の匂いがした。
ゲームの中の料理スキルとはいえ、手間をかけて。
誰かのために作って。
誰かと食べて。
笑って。
そういう温度が残っていた。
男は小さく息を吐く。
「……そこだけは素直に羨ましい」
静かな独り言だった。
《キリト》は、命懸けの世界の中で、ちゃんと幸せを見つけていたのだろう。
それが少しだけ羨ましかった。
愛情は理解できない。
恋人という感覚も分からない。
病院から退院後に実家に帰ってから食卓を囲んでも、他人の席に入り込んだような感覚がして仕方なかった。
でも、あの食卓の空気だけは、何となく“いいもの”に見えた。
仮想世界のゲームの中だけにあったあの空間と、一体何の違いがあったのだろうか。
そこまで考えて頭を振り無理矢理思考を断ち切る。
一人暮らしをしてからずっと、自分一人だけのアパートでの食事が当たり前だったからかもしれない。
感傷、とも呼べない考えに浸ってしまったのは。
男はルーをかごへ入れる。
数秒考えて、少し高い牛乳も追加した。
「……まぁ、どうせ再現とか無理だけど」
自嘲気味に呟く。
そしてそのまま、静かなスーパーの通路を歩いていった。
途中でプリンも見つけてデザート用にかごに入れた。
別に美味い食事がしたい訳でも、一人で食べるのが寂しい訳でもない。
食後に少しデザートがあれば十分だ。
会計を済ませた男は夜道を歩いていった。