診察室。
今日の定期検診はやけに引き止められた。
机の上には分厚い資料が置かれていた。
海外の症例。
神経再生治療。
長期記憶障害の研究データ。
担当医は珍しく少し熱心だった。
「……実は、遠方なんですが専門的な治療を行っている病院がありまして」
男は椅子に浅く座ったまま聞いている。
「記憶回復の成功例も、少数ですが報告されています」
「へぇ」
薄い反応。
医者は資料をめくりながら続ける。
「もちろん確実ではありません。ですが、可能性はゼロでは――」
男はぼんやり窓の外を見た。
遠い病院。
通院。
検査。
治療。
交通費も時間もかかるだろう。
そこまで考えたところで、結論はすぐ出た。
「交通費もったいないんでいいです」
あまりにもあっさりした返答だった。
医者が固まる。
「……え?」
「だから、別にいいです」
男は本気でそう思っていた。
記憶が戻る可能性。
普通なら、藁にもすがる話だ。
家族も。
かつての友人も。
あの何度も自分を探し連絡を取ろうとしている恋人も。
きっと喜ぶ。
でも男自身には、その“取り戻したいもの”がない。
失った実感がないからだ。
医者は戸惑いながら言う。
「で、ですが……君はまだ若いんですよ?」
「はぁ」
「元の記憶を取り戻せる可能性があるなら――」
「別に今困ってないんで」
静かな声だった。
生活はできている。
飯も食える。
仕事も多少できる。
死んでない。
それで十分だった。
他に何が足りないというのだろうか。
今ここにいる男には《キリト》に戻りたいという欲求が、決定的に欠けている。
医者は言葉を失う。
男は机の資料へ視線を落とす。
そこには“希望”として提示された情報が並んでいた。
だが彼には、どれも現実味がなかった。
「……戻ったところで、俺じゃないだろうし」
ぽつりと呟く。
医者は小さく眉を寄せる。
「君は、今の自分と過去の自分を切り離しすぎています」
「実際別人みたいなもんでしょ」
男は淡々と返す。
「向こうは命懸けで誰か愛してたらしいですけど、俺ケーキ食ってる方が楽しいし」
冗談みたいな口調。
だが本人は割と本気だった。
医者はしばらく沈黙した後、静かに資料を閉じる。
「……もし気が変わったら、いつでも紹介できます」
「多分変わんないです」
男は立ち上がる。
そのまま軽く会釈だけして診察室を出ていく。
机の上には、未使用の紹介状だけが取り残されていた。
「帰りコンビニでプリンかシュークリーム買ってこ」
面倒な通院の後には甘いものに限る。
そう考えながら男は帰路についた。