夜。
テーブルの上に置かれた紙切れを、男は無言で見つめていた。
電話番号。
メッセージアプリのID。
そして短く添えられた文字。
《アスナさんから》
男は深く息を吐く。
またか、と思った。
実家経由。
直葉経由。
時には菊岡経由。
形を変えて、何度も自分の元へ届く。
会いたい。
話したい。
せめて連絡だけでも。
その度に、男は消してきた。
菊岡経由に関しては以前連絡先を知られたくないと頼んだから止んだ。
だが「桐ヶ谷家の方からは僕にはどうしようもないよ」とわざとらしく肩をすくめられた時にはイラッとした。
今回もまた母親を通して渡されたこのメモ。
《結城明日奈》
その文字を見ていると、妙に胸の奥がざらつく。
でもそれは愛情じゃない。
期待されることへの、息苦しさだった。
男は小さく呟く。
「……だからさ」
静かな部屋。
誰も聞いていない。
「黒の剣士のキリトは死んだんだよ」
声は驚くほど平坦だった。
ログに残る英雄。
アスナを愛した少年。
命を懸けて戦った存在。
それはもう、自分の中にない。
残っているのは。
甘いもの食って、適当にバイトして、生きてるだけの抜け殻。
男はスマホ画面を見つめたまま続ける。
「俺はただの死体だから」
ぽつりと落ちる言葉。
自虐というより、確認に近かった。
生きている。
呼吸もする。
腹も減る。
でも“キリト”としては、あの日ナーブギアに脳を焼かれた時点で終わった気がしていた。
何回目か分からない思考と共にため息をついた。
連絡先の書かれたメモを手に取り、破り捨てる。
こんなもの今の自分にはいらない。
一度も返事などしたことはない、する意味がないからだ。
顔も見せず、連絡先も無視し、こんなのどう考えても恋人関係など破綻するはずだ。
それなのにどうして向こうは諦めないのだろうか。
男はスマホを手に取り、ソファへ深く沈み込んだ。
天井を見上げる。
「……しつこいんだよな」
小さく呟く。
でも本当にしつこいのは、アスナなのか。
それとも。
完全に消えきってくれない《キリト》の残骸なのか。
男には分からなかった。
ただ、胸の奥に残る妙な重さだけが、少し鬱陶しかった。
「止め止め、考えるだけ無駄だろ」
思考を切り、ソファから立ち上がる。
冷蔵庫から昨日買ってきた3個パックのプリンを取り出した。
本来なら1日1個にしておくが今日はなんだか精神的に疲れてしまった。
「ま、2個も3個も変わらんだろ」
そう自分に言い訳するように蓋を開ける。
例え逃避だろうと今の男にとってはこれが生きる楽しみなのだ。