春の夜。
男が暮らしているアパートの一室。
ベランダの窓を少しだけ開けると、柔らかな風が部屋へ入り込んできた。
頬を撫でるその感触がくすぐったい。
遠くで誰かが笑っている。
どこかのテレビの音。
街の生活音。
それらを聞きながら男はコンビニ袋から小さなパックを取り出した。
桜餅。
季節限定、と書かれていたから何となく買っただけだ。
湯を沸かし、安い緑茶を淹れる。
テーブルを折角だからと窓際に寄せて座る。
行儀が悪いと咎める者はいない一人暮らしの部屋。
静かな部屋。
男は桜餅を一口かじった。
ほんのりした甘さ。
葉の塩気。
「……ん」
少しだけ目を細める。
悪くない。
むしろ結構好きかもしれない。
昔の自分が好きだったのかは知らない。
でも今の自分は、素直に美味いと思った。
窓の外では、風に揺れた桜の花びらが少しだけ舞っている。
男はそれをぼんやり眺めながら、ぽつりと呟いた。
「……まぁこれくらいの楽しみはあるから、まだ死ぬ気はないかな」
独り言。
静かな声だった。
本気で生きたいわけじゃない。
未来に希望があるわけでもない。
《キリト》に戻りたいとも思わない。
家族ともまともに向き合えない。
でも。
甘いものを食べてる時だけは、少しだけ“空っぽ”が薄れる気がした。
季節限定の和菓子とか。
スーパーで買うプリンとか。
たまに菊岡に奢らせるちょっと高いケーキとか。
そういう小さなもの。
それだけで、今日くらいはまぁいいかと思える。
今までそれを繰り返して生きてきた。
明日からもそうなるだろうか。
例えば来年の春。
またこうしてアパートで一人桜餅を食べているのか。
或いはここではないどこかにいるのか。
漠然とした未来を想像してみようとした。
でもすぐに止めた。
男は二口目を食べる。
桜の葉の香りが口に残った。
今は目の前の桜餅が美味い、それだけでいい。
「……安上がりだな、俺」
小さく笑う。
ほんの一瞬だけだったが、その表情には少しだけ穏やかさがあった。
今ここには、黒の剣士を知る人間がいないからか。
部屋の隅には、PCが置かれている。
それで昨夜もSAO時代のログ整理をしていた。
《黒の剣士》の残骸。
今までも、そして恐らくこの先も自分について回るだろう過去。
でも今、男の意識はそこへ向いていなかった。
過去を何一つ覚えてなくても、未来なんて朧気なままでも。
ただ静かに、春の夜と桜餅を味わっていた。
「あ、でも花粉症とかなったらこういうの無理か、窓開けられなくなる」
唐突に風情のない思いつきをしてしまうのは、黒の剣士も同じだったのか。