菊岡のオフィス。
相変わらず書類と端末が散らかっていた。
一応人を呼び出した手前、最低限話し合うためのスペースは掃除したらしい。
男はソファに座ったまま、テーブルの上へ黒い機械を置く。
ナーブギア。
少し塗装が劣化したそれはかつて二年間、自分の脳を閉じ込め。
最後には焼いた機械。
菊岡はそれを見て、少しだけ表情を引き締めた。
「……上から回収命令が出ててね」
「ふーん」
男は興味薄そうに返す。
「まぁ君の場合、必要なら破棄済みって報告してそのまま持っててもいいんだけど」
「別にいらない」
即答だった。
菊岡が瞬きをする。
男はナーブギアを軽く押しやる。
「持ってても使わないし」
ゲームはもう面白くない。
VR世界にも未練はない。
そこに《キリト》の残骸が詰まっている気がして、むしろ少し気味が悪かった。
菊岡はしばらく黙って機械を見る。
普通の帰還者なら、処分できず抱えている者も多い。
恐怖でも。
執着でも。
思い出でも。
だが目の前の青年は、本当にあっさりしていた。
「……いいのかい?」
「何が」
「それ、君にとって特別なものだったんじゃない?」
男は少しだけ考える。
それから肩をすくめた。
「《キリト》にはな」
静かな声。
「俺にはただの中古ヘッドギア」
「…中身のデータはちゃんと確認したかい?」
「退院してから一通り、大したもんはなかった」
菊岡は苦笑するしかなかった。
男はそこでふと、テーブルの端に置かれた箱へ視線を向ける。
有名店のロゴ。
ケーキ箱だった。
「……それ土産?」
「ああ、そうだけど」
「食っていい?」
切り替えが早すぎた。
菊岡は思わず吹き出しそうになる。
「君ほんとブレないねぇ……」
「甘いもんは別」
男は珍しく少し真面目な顔で箱を見る。
菊岡は諦めたように箱を差し出した。
「どうぞ」
男は即座に開封する。
中にはモンブランと苺タルト。
数秒悩んだ後、モンブランを取った。
一口食べる。
「……うま」
素直な感想。
その瞬間だけ、ほんの少し表情が柔らかくなる。
菊岡は向かいでナーブギアを見る。
人の人生を壊した機械。
そしてその隣で、美味しそうにケーキを食べている青年。
《黒の剣士》だったはずの少年。
その光景が妙に噛み合わなくて、菊岡は静かにコーヒーを飲んだ。
「最近君僕の所に来るのはケーキ目当てになってないかい?」
「他に何があるんだ?」
その言い方に菊岡は苦笑するしかなかった。
コーヒーの苦味で更にケーキの甘さが引き立つ。
最早男にとってはかつて二年間自分を仮想の城に囚えると同時に、その二年間の証を刻んだナーブギアよりも目の前のケーキの方が重要だった。