キリトがナーブギアに脳を焼かれ記憶を全て失ったら   作:富福

3 / 7
3

薄暗い会議室だった。

時刻は深夜二時を回っている。

事件処理を終えた官僚達も既に帰り、部屋には二人しか残っていなかった。

テーブルの上には、分厚い資料と端末。

ALO事件の最終報告。

須郷伸之の違法実験。

被害者救出。

内部アクセス経路。

その中には、《キリト》の名前も大量に記録されている。

男はそれを無言で眺めていた。

向かい側では、菊岡誠二郎が珍しく真面目な顔をしている。

「……報酬、か」

男がぽつりと言った。

「君がそれを口にするとは思わなかったなぁ」

軽い調子で返しながらも、菊岡は視線を逸らさない。

男は端末を閉じる。

「俺の痕跡を消してくれ」

空気が静まった。

「戸籍とかそういう大袈裟なのじゃなくていい。SAO関連の記録、ALO事件の協力者データ、アクセスログ……可能な範囲で全部」

「……」

「“キリト”を終わらせたい」

菊岡はしばらく黙っていた。

そしてゆっくり眼鏡を押し上げる。

「本当にいいのかい?」

問いは静かだった。

責めるでも、止めるでもない。

ただ確認するように。

男は少し考える素振りを見せた後、淡々と答える。

「いいも悪いもないからいいんだよ」

感情のない声だった。

「残しても意味がない。困るのはそっちだろ、いつまでも《黒の剣士》が関わってる方が」

「それは……まぁ、否定はしないけどねぇ」

菊岡は苦笑する。

だが笑みは長く続かなかった。

目の前の青年は、あまりにも空っぽだった。

英雄譚の中心にいたはずの少年。

二年間、最前線で戦い続けた生還者。

それ以前に現実世界で桐ヶ谷和人として生きたはずの過去。

それなのに今ここにいるのは、自分の人生を“他人事”として整理している男だった。

「君は」

菊岡が言いかける。

だがその先が出てこない。

何を言えばいいのか分からなかった。

慰めか。

説得か。

引き止めか。

どれも違う気がした。

男は席を立つ。

「頼めるか」

「……ああ。できる限りは」

「十分だ」

それだけ言って背を向ける。

出口へ向かう途中、不意に菊岡が呼び止めた。

「桐ヶ谷くん」

足が止まる。

「君は、本当に《キリト》じゃなくなったのかい?」

沈黙。

数秒後。

「さあな」

振り返らないまま答える。

「少なくとも俺には分からない」

ドアが開く。

廊下の白い光が差し込む。

そして青年は、そのまま静かに去っていった。

残された菊岡は、一人小さく息を吐く。

机の上には、削除申請ファイル。

その最上部に記載された名前だけが、やけに重く見えた。

《Kirito》

消してしまうのが、惜しいと感じるのは大人のエゴか。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。