薄暗い会議室だった。
時刻は深夜二時を回っている。
事件処理を終えた官僚達も既に帰り、部屋には二人しか残っていなかった。
テーブルの上には、分厚い資料と端末。
ALO事件の最終報告。
須郷伸之の違法実験。
被害者救出。
内部アクセス経路。
その中には、《キリト》の名前も大量に記録されている。
男はそれを無言で眺めていた。
向かい側では、菊岡誠二郎が珍しく真面目な顔をしている。
「……報酬、か」
男がぽつりと言った。
「君がそれを口にするとは思わなかったなぁ」
軽い調子で返しながらも、菊岡は視線を逸らさない。
男は端末を閉じる。
「俺の痕跡を消してくれ」
空気が静まった。
「戸籍とかそういう大袈裟なのじゃなくていい。SAO関連の記録、ALO事件の協力者データ、アクセスログ……可能な範囲で全部」
「……」
「“キリト”を終わらせたい」
菊岡はしばらく黙っていた。
そしてゆっくり眼鏡を押し上げる。
「本当にいいのかい?」
問いは静かだった。
責めるでも、止めるでもない。
ただ確認するように。
男は少し考える素振りを見せた後、淡々と答える。
「いいも悪いもないからいいんだよ」
感情のない声だった。
「残しても意味がない。困るのはそっちだろ、いつまでも《黒の剣士》が関わってる方が」
「それは……まぁ、否定はしないけどねぇ」
菊岡は苦笑する。
だが笑みは長く続かなかった。
目の前の青年は、あまりにも空っぽだった。
英雄譚の中心にいたはずの少年。
二年間、最前線で戦い続けた生還者。
それ以前に現実世界で桐ヶ谷和人として生きたはずの過去。
それなのに今ここにいるのは、自分の人生を“他人事”として整理している男だった。
「君は」
菊岡が言いかける。
だがその先が出てこない。
何を言えばいいのか分からなかった。
慰めか。
説得か。
引き止めか。
どれも違う気がした。
男は席を立つ。
「頼めるか」
「……ああ。できる限りは」
「十分だ」
それだけ言って背を向ける。
出口へ向かう途中、不意に菊岡が呼び止めた。
「桐ヶ谷くん」
足が止まる。
「君は、本当に《キリト》じゃなくなったのかい?」
沈黙。
数秒後。
「さあな」
振り返らないまま答える。
「少なくとも俺には分からない」
ドアが開く。
廊下の白い光が差し込む。
そして青年は、そのまま静かに去っていった。
残された菊岡は、一人小さく息を吐く。
机の上には、削除申請ファイル。
その最上部に記載された名前だけが、やけに重く見えた。
《Kirito》
消してしまうのが、惜しいと感じるのは大人のエゴか。