夕方の住宅街。
買い物袋を片手に、男はいつも通り歩いていた。
特に急ぐ理由もない。
ただ、早く帰ってケーキでも食べたい、くらいのことは考えていた。
その時だった。
「わっ……!」
小さな影が視界の端を横切る。
道路へ――飛び出す。
車の音。
反射的に、身体が動いていた。
「危ない!」
気づいた時には、もう手が伸びている。
小さな体を引き寄せるようにして、歩道へ引き戻した。
直後。
ギギッ、とブレーキ音。
車が目の前を通り過ぎていく。
遅れて、右の足首に鋭い痛みが走った。
「っ……」
バランスを崩し、男は片膝をつく。
買い物袋が落ちる。
中身が散らばる。
助けた少女は、驚いた顔で男を見上げていた。
「だ、大丈夫ですか……?」
男は一瞬、返事ができなかった。
痛み。
それよりも、自分がなぜ動いたのか分からなかった。
今のは、完全に反射だ。
合理性もない。
危険を回避するなら、自分が動く必要はなかった。
なのに、身体が勝手に動いた。
男は息を整えながら視線を上げる。
その瞬間。
固まる。
少女の顔。
黒の長い髪。
柔らかい表情。
どこか不安そうな目。
「……ユイ?」
思わず漏れた声。
少女はきょとんとする。
当然だ。
違う。
別人だ。
分かっている。
でも一瞬だけ、記録の中の存在と重なった。
《ユイ》
SAOログにあった名前。
ナビAI。
だが同時に、どこか“子供”のような存在。
男は小さく頭を振る。
「……いや、違うか」
呟きながら立ち上がろうとして、膝にまた痛みが走る。
「っ……」
顔をしかめる。
少女は慌てて手を伸ばす。
「すみません、私……!」
「いや、お前のせいじゃない」
即答だった。
声は淡々としている。
本当に目の前の少女のせいだと感じていない。
ただ、少しだけ妙な気分だった。
なぜ助けたのか分からない。
合理的でもない。
自分らしくもない。
男は落ちた買い物袋を拾いながら、小さく息を吐く。
「……なんでこんなことしたんだろ」
誰に向けるでもない独り言。
少女はまだ不安そうにしている。
「病院、行きますか?」
「いや、大げさ」
男は軽く手を振る。
そして、ほんの少しだけ少女を見て、目を細めた。
「……もう道路は気をつけろ」
それだけ言って、買い物袋を持ち直す。
足首の痛みは残っている。
それでも歩き出す。
数歩進んだあと、ふと振り返る。
少女はまだそこに立っていた。
無事だ。
心配と申し訳無さが合わさった表情でこちらを見ている。
大丈夫だから帰れ、と手を振って男は再び前を向く。
胸の奥に残る違和感は、うまく説明できなかった。