アスナが呼んだタクシーに乗りアパートの部屋に帰った頃には、もう夜も遅かった。
タクシー代を払ってもらったことを思い出し、男は少しだけ嫌そうな顔をする。
「……借りができちまった」
ぼそっと呟きながら鍵を開ける。
玄関へ入ると同時に、足の痛みがじわりと増した。
「っ……」
やはり無理に動いた反動らしい。
男は靴を脱ぎ捨て、ソファへ倒れ込む。
その時。
スマホが震えた。
画面を見る。
《結城明日奈》
男の眉がぴくりと動く。
通話ではなくメッセージの通知だった。
数秒迷った後、その通知を開いた。
『ちゃんと帰れた?
足も放置しちゃダメだよ。』
短い文。
でも妙に“近い”。
男はしばらく画面を見つめる。
普通なら既読無視でもいい気がした。
だが借りがある。
それに、連絡先を交換した以上、最低限の返事くらいは必要かもしれない。
男はソファに沈み込んだまま、短く打ち込む。
『さっき家着いた
湿布貼るから。』
送信。
それだけ。
事務連絡みたいな内容だった。
だが送った直後、既読がつく。
早い。
男は少しだけ引いた顔をする。
「……ずっと見てたのか?」
思わず呟く。
すぐに返信通知。
『よかった
ちゃんと休んでね。』
男はその文面を見て、しばらく無言だった。
優しい言葉。
心配されている。
でもやはり、どこか現実感が薄い。
自分に向けられているというより、黒の剣士である《キリト》の残像へ送られているように感じた。
男はスマホをテーブルへ置く。
それから渋々、以前病院で貰った湿布を取り出した。
「……約束したしな」
小さく呟く。
足へ湿布を貼る。
冷たさが広がる。
その間にも、テーブルの上のスマホ画面には、最後のメッセージがまだ表示されたままだった。
ソファに倒れ込みため息をつく。
今まで散々避けてきたのに、いざ会ってしまったらこのざまだ。
怪我をしていたとはいえ、支えられタクシーを呼ばせた。
しかも甘いもののために金欠になったことまで知られた。
別に恋人だった相手に見栄を張りたいとかそんな感情はないはずだ。
今更張る見栄など端から持ち合わせていない、はずだ。
「次のバイト代の振り込みいつだったかな、さっさと返しちまいたい」
今の自分がアスナとできてしまった繋がり。
この借りさえ返してしまえば、また以前のようにただの知らない人として距離をとればいい。
このスマホに登録した連絡先だって、消してしまえばいい。
たったそれだけの。
だがそこまで考えて思い出した。
スマホに登録された《桐ヶ谷和人》の名前を見たアスナの泣きそうな、嬉しそうな表情を。
その光景に、なぜか胸の奥によく分からない違和感のような何かを感じた。
「…こっちの連絡先だけ消しても、向こうに残ってたら意味ないな」
そう、誰に対してかも分からない言い訳だけが、一人暮らしの部屋に静かに響いた。