アスナが調理を始めて少し経ってから男はその変化に気付いた。
部屋の中に、温かな匂いが広がっていた。
シチュー。
鍋から立ち上る湯気。
柔らかなクリームの香り。
「お待たせ、できたよ」
アスナがエプロンを外し皿に盛り付けたそれをテーブルに運んでくる。
シチューだけでなくサラダとバゲットまである。
予想以上に充実したメニューを運ぶのを男も手伝う。
「家がシチューには大体バゲットだからそうしたけど大丈夫だった?」
「あ、大丈夫」
普段自分で作る時は白飯だが目の前のバゲットも良さそうに見える。
この部屋のテーブルに二人分の料理が並んでいるのがなんだかとてもおかしな光景に見える。
しかも向かいにアスナが座るなんて想像もしてなかった。
男はテーブルの前で、無言のままスプーンを口へ運ぶ。
「……」
一口。
その瞬間、手が止まった。
美味い。
思っていたより、ずっと。
優しい味だった。
ちゃんと手間をかけて作られたのが分かる。
野菜も柔らかい。
肉も固くない。
味が妙に落ち着く。
男はもう一口食べる。
また食べる。
気づけば、かなりの勢いで減っていた。
向かいでアスナが少し不安そうに見ている。
「……どう?」
男は答えるまで少し時間がかかった。
「……うまい」
素直な感想だった。
アスナの顔が、ぱっと明るくなる。
それを見た瞬間。
男はなぜか少しだけ落ち着かなくなった。
「おかわりあるけど」
「……もらう」
即答。
アスナが小さく笑う。
そのままよそわれた二杯目を食べながら、男はぼんやり考える。
甘いものを食べた時の満足感とは違った。
もっと静かで。
腹の奥にじんわり残る感じ。
久しぶりの“まともな夕飯”だった。
一人で適当に作る飯とは全然違う。
誰かが自分のために作った料理。
その感覚が、妙に不思議だった。
バゲットを千切りシチューに浸して食べるとまた別格の味わいだ。
サラダはさっぱりとした風味で濃厚なシチューの合間に食べる副菜としてよく合う。
なんというか、今まで自分が適当に自炊したものとは違う、ちゃんと味わうために考えられたメニューだとよく分かる。
それらを無言で食べる男を自分も食べながらアスナは嬉しそうに見つめていた。
かつてSAOでも何度かあった、大好きな人が自分の料理を食べている光景。
例え記憶が無くともアスナにとっては何よりも大切に思える。
気が付けばおかわりした分もキレイさっぱり完食していた。
男はスプーンを置き、小さく息を吐く。
「……ごちそうさまでした、かなり満腹」
珍しく満足そうな声。
「うん、」
アスナは嬉しそうに笑っていた。
本当に嬉しそうに。
それを見た瞬間。
男は急に居心地が悪くなる。
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
ただ、あまりその顔を見ていたくなかった。
男は立ち上がる。
「……片付けする、食器くれ」
「え、いいよ?」
「いや、作ったのそっちだし。テレビでも見て寛いでてくれ」
半ば逃げるみたいに食器を持ってキッチンへ向かう。
アスナはその背中を少しだけ見つめる。
男は流し台へ皿を置き、水を流した。
冷たい音。
少しだけ落ち着く。
スポンジを手に取りながら、小さく息を吐く。
「……なんなんだよ」
誰にも聞こえない独り言。
美味かった。
満足した。
それだけのはずなのに。
胸の奥が妙にざわついていた。