菊岡との打ち合わせから更に一月後。
夕方。
男がバイトから帰宅すると、部屋の中からいい匂いがしていた。
「……」
鍵を開ける前に気づく。
そして数秒後、当たり前みたいに玄関を開けていた。
「おかえり」
キッチンからアスナの声。
「ん」
短く返す。
部屋へ入る。
テーブルには既に夕飯が並び始めていた。
サラダ。
スープ。
そして。
「……ハンバーグ」
男の視線が止まる。
アスナが少し得意そうに笑う。
「今日は頑張ったよ」
肉汁の匂い。
デミグラスソース。
かなり美味そうだった。
男は鞄を置きながら、ぼんやり部屋を見回す。
自然に灯りがついている。
洗濯物も畳まれている。
冷蔵庫には食材。
そしてキッチンにはアスナ。
――あれ?
ふと、違和感が浮かぶ。
なんでこの人、普通に家いるんだ?
そういえば。
いつの間にか合鍵を渡していた。
最初は「荷物受け取り用」とか適当な理由だった気がする。
だが今では、男が帰る頃には普通に夕飯が出来ている日まである。
最近は台所に家主であるはずの自分が知らない調味料やキッチン用品が増えていたりする。
シンク棚にはアスナ用のエプロンがかけられていた。
完全に生活へ入り込まれていた。
男は玄関で固まる。
「……」
これ、普通におかしくないか?
自分は距離を取るつもりだったはずだ。
面倒だから関わらないようにしていたはずなのに。
気づけば。
「キリトくん、手洗ってきて」
「……あ、うん」
反射で返事してしまう。
その瞬間、また少し止まる。
なんで普通に従ってるんだ?
男は洗面所へ向かいながら、ぼんやり考える。
これ、かなり危険では?
生活が侵食されている。
キリトという呼び方も以前はもっと抵抗があったはずなのに、いつの間にか慣れていた。
いや慣らされたと言うべきか。
《黒の剣士》だった頃の関係へ引き戻されている気がする。
なのに。
「できたよー」
アスナの声。
テーブルに並ぶハンバーグ。
焼き加減完璧。
ソースも美味そう。
男は席に座る。
箸で切り込みを入れる。
肉汁が溢れる。
一口。
「……うま」
思考が飛んだ。
アスナが嬉しそうに笑う。
男は黙々と食べる。
美味い。
かなり美味い。
噛むほどに肉汁が弾けるようだ。
気づけば二口三口と進んでいく。
さっきまでの危機感は、デミグラスソースと一緒に流れていった。
「おかわりあるよ」
「……もらう」
即答。
アスナが小さく吹き出す。
男はそこでようやく、少しだけ我に返る。
「……いや待て」
「?」
「なんか最近、普通に居るな」
今さらだった。
アスナは数秒きょとんとして。
それから、ふわっと笑う。
「今さら?」
男は黙る。
その間にも、皿の上のハンバーグは美味そうな匂いを漂わせていた。
結局。
男は小さくため息を吐きながら、もう一口食べる。
「……まぁ、いいか」
完全に慣らされ始めていた。
でもこれは仕方ないはずだ。
だって美味いハンバーグには罪はないのだから。