深夜。
部屋の中には、シャーペンの音だけが響いていた。
通信制の課題である数学のプリント。
男はテーブルへ突っ伏しそうになりながら問題を解いている。
「……めんど」
小さく呟き、また式を書く。
ふと視線を上げる。
キッチンの流しには、アスナが置いていった作り置きのタッパー容器の空がある。
流石に毎日は来れないからとレンジで温めて簡単に食べられるようにと用意してくれたものだ。
そこまでしなくてもと思ったがレトルトや惣菜より美味いし手軽で正直助かっていた。
冷蔵庫には「ちゃんと食べること」と書かれたメモ。
完全に生活へ根を下ろされ始めていた。
男は顔をしかめる。
その時、不意に今日の昼間の会話を思い出した。
喫茶店。
菊岡が、珍しく真面目な顔をしていた。
『君さぁ、そろそろ将来考えない?』
『は?』
『進学とか、就職とか』
男はその時、本気で嫌そうな顔をした。
だが菊岡は続けた。
『帰還者支援関係なら、君かなり需要あるんだよ?』
『そんなの考えたことねぇ』
『でもぼちぼち何かしら見据えた方がいいよ』
それから少し間を空けて。
菊岡は何気ない調子で言った。
『……まぁ、この先もアスナ君といるなら尚更さ』
男はその時、珍しく返答に詰まった。
今、その言葉を思い返す。
「……将来、ね」
ぽつりと呟く。
以前なら、考えるまでもなく切り捨てていた。
《キリト》の人生は終わった。
自分はその残骸。
そんな奴が先のことなんか考えて何になるというんだ。
成人するまでは実家から近い場所に住むという一人暮らしの条件が無くなるのが唯一希望していたものだった。
どこか誰も自分を知らない遠くに引っ越そう。
そこでただダラダラと適当に仕事をして、甘いものを食べるのがたまの楽しみで、それくらいの毎日を送れたらいい。
そう思っていたから。
だが最近。
アスナが普通に部屋へいる。
夕飯を作る。
掃除をする。
「おかえり」と言う。
それが、少しずつ当たり前になっている。
男はシャーペンを止める。
もし。
もしこのまま続いたら。
いつかこのアパートは引っ越すとしても、またその先にアスナが一緒にいるのだろうか。
働いて。
飯食って。
くだらない会話をして。
たまに喧嘩して。
夕飯のおかずが何か楽しみにして。
甘いもの食べて。
そんな日々が続くのか。
そこまで想像してしまい。
男は急に妙な気分になる。
胸の奥がざわつく。
怖いような。
落ち着かないような。
でも、完全に嫌ではない感覚。
「……意味分かんねぇ」
小さく呟く。
《キリト》だった頃の記憶はない。
アスナへの恋愛感情も、自覚できない。
なのに。
未来を考えた時、そこに自然とアスナがいた。
自分が家に帰ればアスナが「おかえり」と出迎える。
なぜか当たり前みたいな顔をして。
それが一番、男には理解できなかった。
男はしばらく天井を見つめる。
そして数秒後。
静かにスマホを手に取った。
《今日ちゃんと課題やってる?》
少し前に来ていたアスナのメッセージ。
男は無意識に小さく笑いそうになって、慌てて真顔へ戻る。
「……気のせいだろ」
誰に向けた言葉でもなく呟き、短く返信を打ち始めた。
《やってる、作り置きも食った
美味かった》
送信するとすぐに既読がつき
《良かった
あんまり遅くならないうちに休んでね》
と睡眠時間を心配する返信が来る。
以前バイトが忙しいからとエナドリを飲んで徹夜していたことがバレたのがダメだったか。
「はいはい、これ済んだら寝ますよ」
そう呟き男はさっさと課題を終わらせにかかった。